「伝達」

 僕と送葉(仮)さんの押し問答を傍から見ていた綾香が僕を呼んだ。

「なに?」

「あんたたちのやりとり、まるであんたと送葉のやりとりだよ」

 どうやら綾香は全面的にとはいかないまでも、本当に送葉(仮)さんを送葉だと認め始めている。おそらく、一度送葉(仮)さんを送葉だと認めてしまえば、もう彼女の事を送葉だとしか思えなくなってしまう。僕はもう、一人で葛藤するしかない。

「だからどうしろって言うんだよ」

「絵を預けてみなよ」

「は?」

 理解ができない。したくない。この絵を渡し、もし送葉(仮)さんが送葉ではなかったならば、中途半端な送葉ならば、この絵はもう送葉だけの絵ではなくなる。穢れることになる。それは僕の中の送葉の決壊に繋がりかねない。中途半端な覚悟で渡せるものではない。

「なんでそうなるんだよ」

「男ならうじうじせずに覚悟を決めなよ。この子をうやむやな存在のままにしていいの? 気になるんでしょ。伝達だってこの子は送葉なんじゃないかって思ってるんじゃないの? いいじゃん。ただの絵でしょ。それに、こんなものに縋っているようじゃ、これからのあんたのためにならないよ」

「そんなのは女が男に求めるエゴだよ。男だって躊躇うし、うじうじもする。それに、この絵は僕にとってただの絵じゃない。こんなものとか言うなよ。送葉が描いた絵だよ。そんなに完成させたいならもう一度初めから描き直せばいい」

「それではダメなんです」

 送葉(仮)さんが即座に初めから描き直すことを否定する。

「この絵はもう一人の私と、私が描くことで完成する絵です。もう一人の私は、わざとこの絵を完成させなかった。その先は私が描くべきところなんです」

「そんなことを言っても信じないことくらい分かるだろ」

「はい、少し悲しいですけど仕方ないですね」

「なら、もう諦めてくれないかな」

「諦められません」

 送葉(仮)さんの声は細く、力強いとは言えない。けれど、その眼はしっかりと意志持ち、僕を捉えて離さない。

「なんで、なんでそんなに必死なんだよ」

 僕だけは彼女を認めちゃいけない。これは僕の使命だと自分に言い聞かせる。でも……。

「初めて会ったときから、好きだからです」

 昨日初めて会った彼女は言う。まるで随分と前から僕を想っていたかのような、そんな重さを持ち合わせたその言葉は、こうも簡単に僕の使命感を揺さぶり、惑わせ、霞ませる。

 折れそうになる。

 千切れそうになる。

 消えそうになる。

 自分の感情を何処に持って行けばいいのか分からなくなる。

 自分の中の、天使なのか悪魔なのかよくわからない誰かが何かを囁く。

 頭が縛られているかのように痛み、上手く聞き取れない。

「お願いです。気持ちは分かります。でも、私はどうしても伝達さんに伝えたいんです」

 僕にはもう何をどうすればいいのか判らなくなっていた。何が正解で、何が間違いなのか判らない。

「伝達」

 綾香が心配そうな顔で僕を見る。そんな顔するなら僕を裏切らないでくれよ。昨日何があったんだよ。そんなに一晩で送葉をこの子に感じたのかよ。あんなにも否定的だったのに、こんなに簡単に陥落しないでくれよ。ふざけるな。君は送葉の一番の友達じゃないのか。

 叫びたくなる。罵倒したくなる。僕にはもう、そんな衝動を必死に堪えることしかできない。

「好きにしてくれ……」

 言ってからハッとする。湧き出る衝動を抑えるため、つい口にしてしまった。
けれど、後悔することすら僕にはできなかった。口にしてすぐになら撤回できたかもしれない。でも、僕はそれをしなかった。

 それを口にした瞬間から僕は考えることを放棄した。僕の中にいる送葉を守ることを放棄した。僕は、僕であることを放棄した。

「一人にしてくれないかな」

 僕は二人に向かって力なく言う。とにかく今は一人になりたかった。

「絵はどこにありますか?」

 送葉(仮)さんは僕に訊く。僕はそれを無視した。送葉かもしれない子と話すことさえ億劫だった。

「持って行きますね」

 送葉(仮)さんは最初から見当がついていたのだろう。クローゼットの方へ向かうと一度僕の方を見て、扉を開けると、カバーの掛かったキャンバスを両手で持ち上げ、抱えると、「行きましょう」と綾香に言った。綾香は少し迷っていたが、「ごめん」と呟き、立ち上がった。

 二人が部屋から出ていき、玄関が閉まる音が聞こえた。僕は座ったままただただ壁の向こうを見つめた。