「マー君!」
ぼくが呼びかけても、白いウサギはぼくを見向きもしない。高山が与えたほうれん草を、無表情のままもぐもぐ頬張っている。ニンゲン界のウサギはやっぱり喋らないんだ。そう言えば、マー君がニンゲンはウサギをペットにしたり食べたりするから嫌いだと言ってたことがあったっけ。こうやってカゴの中に入れてほうれん草を与えてそれを見守ることがペットにするってことなのか。
「ウーちゃんはもう五年も生きているんだ。長生きだろ?」
「マー君はもう十年以上働いているんだぞ」
「は?」
「いやなんでも・・・ところで、高、っと、お兄ちゃん悩みでもあるんじゃないの?」
「そう、見えるか?」
「何だか辛そうな顔してる」
「うーん、顔に出てるかあ。いや、今俺さ、小学五年生、コウタと同じ学年のクラス担任なんだけどさ、みんな言うこと聞いてくれないんだ。何度注意しても、クラスで話し合いをしてもうまくいかないんだ。以前はこんなことなかったのになあ。俺、先生に向いていないんじゃないかってよく思うんだ」
学級崩壊、というやつかな。ニンゲンジャーナル教育版によく掲載されていたっけ。
「他にもあるでしょ」
「コウタはするどいなあ。何でもわかっちゃうんだな」
高山はウサギを見つめながら、横顔のまま笑った。月の光が、高山の頬を青白く染めている。
「付き合い始めて二年になる彼女がいるんだけど、お見合いするって言い出したんだ。親がうるさいからって言ってたけど、本当は俺と別れたいんじゃないかなって思っちゃうんだよな。ああ、情けないよな」
申し訳ない・・・それはトドのミスター坂田のせいなんですよ、とも言えずに黙った。
「このことは、父さんや母さんには内緒だぞ?心配かけたくないからさ」
「ねえお兄ちゃん、ぼく、学校に行きたい」
「うーん、どうかな。転校ではないし、手続きとか色々あるだろうし・・・」
「お願い!寂しいんだぼく・・・」
ニンゲンマニュアル第五章「ニンゲン生活に慣れよう」、第三節「ニンゲンと交流を深める時編その2」、「ニンゲンは“寂しい”という言葉に弱い。的確に使用すれば手の届きそうな願い事なら簡単に引き受けてくれる」。
「そう、だな。少しの間だし、校長先生に頼んでみるよ」
高山はそう言ってぼくを見た。ぼくは、“何とかするから”そう何度も思った。だって高山の目はとても悲しく光っていて、放っておいたら死を選んでしまいそうに見えたんだ。
あくる朝、高山が学校へ行くのを見送ってママと二人きりになると、ママは主婦の仕事で調理に次いで重要度が高いと言われる“洗濯”を始めた。ぼくは珍しくもあり、くっついていたくもあり、手伝うことを申請した。
「あら、コウタは優しいのね。じゃあ、この洗濯カゴの中の、裏返しになっている靴下を表にして洗濯機の中に入れてくれる?」
なんだそんなことか。その程度の仕事しか遂行できないとママはぼくを甘く見てるなと思った。しかし。
「ママ、臭い、腐ってるよ、これ!」
強烈な異臭だ。毒物混入か?はたまた新手のテロか?
「あら腐ってないわよー。これはパパの。ママもねえ、パパの靴下を触る時はゴム手袋をしてマスクをすることにしてるのー。終わったら手を洗ってね」
重要な任務だったんだな。それにしても、大人になったら足元から異臭がしだすなんて、ニンゲンはやっぱり不思議だ。
「パパは病気?」
「本人は断じて水虫じゃないって言ってるけど、この臭みは異常よねえ」
ママは笑いながらシャツの襟元に何か塗っている。神界にいれば、こんなことしなくていいのに、どうしてぼくのこと忘れてここにいるんだろう。神界が嫌になってこっちに来たのかなあ。何でぼくをおいて高山のママになっちゃったのかなあ。
「どうしたのコウタ、パパの靴下触りたくないならママがやるわよ?」
「いい、ぼくがやる!」
ぼくの肘くらいまである大きな靴下を、口で息をしながら洗濯機の中に放り込んだ。ママが透明な液体を入れ、スイッチを押すと、洗濯機の中で水がぐるぐる回り始めた。見ているとぼくもぐるぐる回ってるみたいに思えた。
「これで臭みがとれるの?」
「そうよ。さあ次は掃除機をかけるわよ」
ママは洗濯機の蓋を閉めて腕まくりをした。ニンゲンのママって忙しいんだ。それに、ニンゲンって何かを綺麗にするのが好きみたいだ。体や機械や時間を使って。昨日歩いた道路にはいろいろな物が落ちてたり、色が変わってたり臭かったりしたけど、あそこは誰がきれいにするんだろう?
「ねえママ、」
「あら電話だわ。コウタ、掃除機のコードを出しておいてね」
ママが機械を持って何か喋っている。あれ写真で見たことあるなあ。何ていったっけなあ、と思いながら掃除機の後ろについているねずみ色のコードをひっぱった。ひいてもひいても終わりがないように思えて何となく怖くなった。
「コウタ、学校行けるって。よかったわね」
ママが、コードに絡まっているぼくを見て笑った。その時、ママはもう神界に戻る気はないのかも、って思えて悲しくなった。なんとなくだけど。
「午後から小学校に登校できるそうよ。お昼ごはん食べたら行きましょう。ママもついていってあげるわね」
“学校”は話に聞くより何倍も大きかった。鉄の門を開けて入ると、丸くて大きな広場があって、隅っこに変な形のオブジェが置いてある。正面には、ニンゲン界で見た中で一番大きな建物があった。白くて窓がたくさんあって、そこからニンゲンの声が聞こえてきた。
ニンゲンは四角や三角の角がある建物に入るのが好きみたいだ。神界にはこんな形のものはほとんどない。硬い扉も四角い窓もない。空を遮る線もない。いろんなものがありすぎて、窮屈で苦しくないのだろうか?
コーチョーセンセーという等級が一番高いらしい中年男性に挨拶をして、ママに高山のクラスまで送ってもらった。
「じゃあね、みんなと仲良くね」
そう言って、ママは行ってしまった。学校が終わったらまた会える。ぼくは今から仕事をするのだ。ノックしてドアを開ける。
教室内にいた生徒の動きがピタリと止まり、ぼくに視線が集まった。家にいる時よりさらに辛そうな顔をした高山がぼくを黒板の前に立たせ、名前を言った。ぼくが空いている席に座った途端、生徒が騒ぎ始めた。いや、騒ぐなんてもんじゃない、暴れる、だ。
女の子は女の子同士で席をくっつけ、雑誌を読んだりマニキュアを塗ったりしてキャーキャー言ってるし、男は男で教室内で野球を始めるわ壁に意味不明な落書きをするわで、てんやわんやもいいところだ。何度ぼくの頭にボールが当たったことか。ニンゲンの十歳とはこんなにも幼稚な行動をするものとは知らなかった。これは議題にあげなくては。しかし高山は注意もせずに授業を進めている。もちろんぼく以外誰も聞いていない。でも聞きたくても高山の声が聞こえない。
秩序がない。ルールがない。ここには何もない。ニンゲンはルールに縛られて苦しんでいる、とニンゲン学で習った。でも、ルールのないこの場所はもっとひどい。
その時、ガラスの割れる鋭い音が教室内に響き渡り、一瞬の静寂が訪れた。幸い窓際には誰もいなかったが、大小さまざまに砕けたガラス片が床や机の上に散らばった。高山がまず動き、
「その場にじっとして」
と叫んだ。掃除用具入れからほうきとちりとりを取り出して片付け始めても、誰も手伝わない。バットを持った男子が、
「やっべ、失敗しちまったな~」
と吐き捨てるように言い、ボールを投げた体の大きい男子は、
「ウザイ、ウザイ」
とガラスをかき集める高山に向かって言った。すると、教室中からウザイコールが起こり始めた。ぼくは立ち上がり、無言でバットを持って笑っている男子の頭をぶん殴った。ボールを投げた方も同様にした。反撃に出ようとした二人を高山が慌てて取り押さえ、ぼくに向かって、
「ガラスの散らばっているところで動くんじゃない。危ないだろう」
と言った。教室はまた水を打ったように静まった。高山がガラスを回収し、かけつけた他の先生に事情を話しているうちに終了のチャイムが鳴った。
高山の怒った顔が忘れられない。高山の言動は正しい。ぼくのしたことは間違っている。頭の中ではわかっているのに、どうしてかうまく飲み込めない。高山が怒ったのは当たり前のことで、理解するべきことなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう?
ぼくが呼びかけても、白いウサギはぼくを見向きもしない。高山が与えたほうれん草を、無表情のままもぐもぐ頬張っている。ニンゲン界のウサギはやっぱり喋らないんだ。そう言えば、マー君がニンゲンはウサギをペットにしたり食べたりするから嫌いだと言ってたことがあったっけ。こうやってカゴの中に入れてほうれん草を与えてそれを見守ることがペットにするってことなのか。
「ウーちゃんはもう五年も生きているんだ。長生きだろ?」
「マー君はもう十年以上働いているんだぞ」
「は?」
「いやなんでも・・・ところで、高、っと、お兄ちゃん悩みでもあるんじゃないの?」
「そう、見えるか?」
「何だか辛そうな顔してる」
「うーん、顔に出てるかあ。いや、今俺さ、小学五年生、コウタと同じ学年のクラス担任なんだけどさ、みんな言うこと聞いてくれないんだ。何度注意しても、クラスで話し合いをしてもうまくいかないんだ。以前はこんなことなかったのになあ。俺、先生に向いていないんじゃないかってよく思うんだ」
学級崩壊、というやつかな。ニンゲンジャーナル教育版によく掲載されていたっけ。
「他にもあるでしょ」
「コウタはするどいなあ。何でもわかっちゃうんだな」
高山はウサギを見つめながら、横顔のまま笑った。月の光が、高山の頬を青白く染めている。
「付き合い始めて二年になる彼女がいるんだけど、お見合いするって言い出したんだ。親がうるさいからって言ってたけど、本当は俺と別れたいんじゃないかなって思っちゃうんだよな。ああ、情けないよな」
申し訳ない・・・それはトドのミスター坂田のせいなんですよ、とも言えずに黙った。
「このことは、父さんや母さんには内緒だぞ?心配かけたくないからさ」
「ねえお兄ちゃん、ぼく、学校に行きたい」
「うーん、どうかな。転校ではないし、手続きとか色々あるだろうし・・・」
「お願い!寂しいんだぼく・・・」
ニンゲンマニュアル第五章「ニンゲン生活に慣れよう」、第三節「ニンゲンと交流を深める時編その2」、「ニンゲンは“寂しい”という言葉に弱い。的確に使用すれば手の届きそうな願い事なら簡単に引き受けてくれる」。
「そう、だな。少しの間だし、校長先生に頼んでみるよ」
高山はそう言ってぼくを見た。ぼくは、“何とかするから”そう何度も思った。だって高山の目はとても悲しく光っていて、放っておいたら死を選んでしまいそうに見えたんだ。
あくる朝、高山が学校へ行くのを見送ってママと二人きりになると、ママは主婦の仕事で調理に次いで重要度が高いと言われる“洗濯”を始めた。ぼくは珍しくもあり、くっついていたくもあり、手伝うことを申請した。
「あら、コウタは優しいのね。じゃあ、この洗濯カゴの中の、裏返しになっている靴下を表にして洗濯機の中に入れてくれる?」
なんだそんなことか。その程度の仕事しか遂行できないとママはぼくを甘く見てるなと思った。しかし。
「ママ、臭い、腐ってるよ、これ!」
強烈な異臭だ。毒物混入か?はたまた新手のテロか?
「あら腐ってないわよー。これはパパの。ママもねえ、パパの靴下を触る時はゴム手袋をしてマスクをすることにしてるのー。終わったら手を洗ってね」
重要な任務だったんだな。それにしても、大人になったら足元から異臭がしだすなんて、ニンゲンはやっぱり不思議だ。
「パパは病気?」
「本人は断じて水虫じゃないって言ってるけど、この臭みは異常よねえ」
ママは笑いながらシャツの襟元に何か塗っている。神界にいれば、こんなことしなくていいのに、どうしてぼくのこと忘れてここにいるんだろう。神界が嫌になってこっちに来たのかなあ。何でぼくをおいて高山のママになっちゃったのかなあ。
「どうしたのコウタ、パパの靴下触りたくないならママがやるわよ?」
「いい、ぼくがやる!」
ぼくの肘くらいまである大きな靴下を、口で息をしながら洗濯機の中に放り込んだ。ママが透明な液体を入れ、スイッチを押すと、洗濯機の中で水がぐるぐる回り始めた。見ているとぼくもぐるぐる回ってるみたいに思えた。
「これで臭みがとれるの?」
「そうよ。さあ次は掃除機をかけるわよ」
ママは洗濯機の蓋を閉めて腕まくりをした。ニンゲンのママって忙しいんだ。それに、ニンゲンって何かを綺麗にするのが好きみたいだ。体や機械や時間を使って。昨日歩いた道路にはいろいろな物が落ちてたり、色が変わってたり臭かったりしたけど、あそこは誰がきれいにするんだろう?
「ねえママ、」
「あら電話だわ。コウタ、掃除機のコードを出しておいてね」
ママが機械を持って何か喋っている。あれ写真で見たことあるなあ。何ていったっけなあ、と思いながら掃除機の後ろについているねずみ色のコードをひっぱった。ひいてもひいても終わりがないように思えて何となく怖くなった。
「コウタ、学校行けるって。よかったわね」
ママが、コードに絡まっているぼくを見て笑った。その時、ママはもう神界に戻る気はないのかも、って思えて悲しくなった。なんとなくだけど。
「午後から小学校に登校できるそうよ。お昼ごはん食べたら行きましょう。ママもついていってあげるわね」
“学校”は話に聞くより何倍も大きかった。鉄の門を開けて入ると、丸くて大きな広場があって、隅っこに変な形のオブジェが置いてある。正面には、ニンゲン界で見た中で一番大きな建物があった。白くて窓がたくさんあって、そこからニンゲンの声が聞こえてきた。
ニンゲンは四角や三角の角がある建物に入るのが好きみたいだ。神界にはこんな形のものはほとんどない。硬い扉も四角い窓もない。空を遮る線もない。いろんなものがありすぎて、窮屈で苦しくないのだろうか?
コーチョーセンセーという等級が一番高いらしい中年男性に挨拶をして、ママに高山のクラスまで送ってもらった。
「じゃあね、みんなと仲良くね」
そう言って、ママは行ってしまった。学校が終わったらまた会える。ぼくは今から仕事をするのだ。ノックしてドアを開ける。
教室内にいた生徒の動きがピタリと止まり、ぼくに視線が集まった。家にいる時よりさらに辛そうな顔をした高山がぼくを黒板の前に立たせ、名前を言った。ぼくが空いている席に座った途端、生徒が騒ぎ始めた。いや、騒ぐなんてもんじゃない、暴れる、だ。
女の子は女の子同士で席をくっつけ、雑誌を読んだりマニキュアを塗ったりしてキャーキャー言ってるし、男は男で教室内で野球を始めるわ壁に意味不明な落書きをするわで、てんやわんやもいいところだ。何度ぼくの頭にボールが当たったことか。ニンゲンの十歳とはこんなにも幼稚な行動をするものとは知らなかった。これは議題にあげなくては。しかし高山は注意もせずに授業を進めている。もちろんぼく以外誰も聞いていない。でも聞きたくても高山の声が聞こえない。
秩序がない。ルールがない。ここには何もない。ニンゲンはルールに縛られて苦しんでいる、とニンゲン学で習った。でも、ルールのないこの場所はもっとひどい。
その時、ガラスの割れる鋭い音が教室内に響き渡り、一瞬の静寂が訪れた。幸い窓際には誰もいなかったが、大小さまざまに砕けたガラス片が床や机の上に散らばった。高山がまず動き、
「その場にじっとして」
と叫んだ。掃除用具入れからほうきとちりとりを取り出して片付け始めても、誰も手伝わない。バットを持った男子が、
「やっべ、失敗しちまったな~」
と吐き捨てるように言い、ボールを投げた体の大きい男子は、
「ウザイ、ウザイ」
とガラスをかき集める高山に向かって言った。すると、教室中からウザイコールが起こり始めた。ぼくは立ち上がり、無言でバットを持って笑っている男子の頭をぶん殴った。ボールを投げた方も同様にした。反撃に出ようとした二人を高山が慌てて取り押さえ、ぼくに向かって、
「ガラスの散らばっているところで動くんじゃない。危ないだろう」
と言った。教室はまた水を打ったように静まった。高山がガラスを回収し、かけつけた他の先生に事情を話しているうちに終了のチャイムが鳴った。
高山の怒った顔が忘れられない。高山の言動は正しい。ぼくのしたことは間違っている。頭の中ではわかっているのに、どうしてかうまく飲み込めない。高山が怒ったのは当たり前のことで、理解するべきことなのに、どうしてこんなに悲しいんだろう?