ロッカールームの片隅で、冷たい壁に身を預けながら、僕はスマートフォンを握りしめていた。

試合が終われば、緊張から解き放たれ、軽くなった心と共にすぐに仲間の輪へと入っていくのがいつもの僕なのに、今日ばかりは平然とその輪に潜り込める自信はなかった。見え透いた気休めも、まるで腫れ物に触れるかのような慰めも、今の僕には必要ない。
スマホの画面だけを見つめて、君の電話番号を引っ張り出して、通話ボタンをタップする。

どうか、出て欲しい。そう願う気持ちとは裏腹に、君が出たらどうしようと思う自分が居る。プルルという耳慣れたコール音が、僕の耳元を軽く刺激してから、やがて途切れる。その、ほんの一瞬だけ僕の時間が止まった。

数秒置いて聞こえてきたのは、「稲地(いなち)くん?」と問い掛ける、君のいつも通りの怪訝そうな声で。僕はその声を聞いただけで、どうしてか、とても救われた気分になったんだ。

どうして、君はこんな時に限って、電話に出るのだろう。本当は嬉しいくせに、ついそんな憎まれ口が飛び出そうになる。
思えば、僕が天才スイマーともてはやされた中学生の頃から、君はずっと僕のことなどまるで興味がなさそうだった。それは、僕がオリンピックに行こうが、メダルを取ろうが、変わることなどなくて。どんなに有名になって、周りがチヤホヤしてくれても、君だけは絶対に僕に振り向いてくれなかった。電話だって、いつもはまるで出てくれない。むしろ、僕がいい成績を出して結果を残した分だけ、君は逃げていくようだった。


それなのに。
どうして君は。
今、僕の電話に出るんだろう。