ドンドンドンドン!


息を殺して目を瞑り、耳だけで外の様子を伺っていたけれど、
暫くすると、力強くドアを叩く音が急に静かになった。
私は不思議に思いながら、
もう一度恐る恐るのぞき窓から外の様子を見る。
さっきあった不気味なシルエットはそこにはなく、
蛍光燈の明りに照らされたエントランスが見えるだけだ。
もしかして帰ったのかもと安堵し、
ほっと胸を撫で下し油断した瞬間に再び。


ピンポーン!



伊吹 「きゃーっ!怖いっ!!」
男性の声「ん。伊吹!大丈夫か!?何かあったのか!?」
伊吹 「へっ……」
男性の声「伊吹!?」

コンコン!コンコンコンコン!


ドアの向こうで私の名前を必死で呼ぶ声にまたも驚かされる。
何故ならその声は、元カレの遠藤洋佑の声だったから。
彼の幼稚園復帰を知らされてあれだけ悩んでいた私が、
皮肉にも彼の声に救われ安堵感を味わうなんて。


洋佑「俺、洋佑だよ!伊吹!大丈夫か!?」
伊吹「洋佑……洋佑ー」


私はドアチェーンを外して鍵を開け、泣きながら玄関のドアを押した。
そこには3年半ぶりに再会する洋佑が立っていて、
とても心配そうな表情を浮かべている。
洋佑はあの頃とまったく変わっていない。


洋佑「はぁー。良かったぁ、無事か!
  いきなり叫び声が聞こえるからびっくりするだろ!?」
伊吹「私だってびっくりよ!
  声かけても返事はないし、覗き窓見たら居たはずの人影はないしさ。
  そしたら洋佑、いきなり訪ねてくるんだもん」
洋佑「あぁ。ごめん。
  伊吹の携帯番号消しちゃったから連絡先わかんなくて。
  来週から八重子先生の代理で幼稚園に戻るから、
  その前に伊吹と話しておきたくてさ。
  周りの目もあるし、お互い蟠ったままじゃ仕事にならないだろ?」
伊吹「え、ええ。そうね。
  (それを考えるのは私のほうだって)」
洋佑「それよりさっきのケバイ女、誰?知り合いなの?」
伊吹「ケバい女……」
洋祐「それに伊吹の自転車。
  玄関エントランスでめちゃめちゃになってたけど、
  何があったのか?」
伊吹「えっ!?」



私は洋佑と一緒に階段を下り、アパートの玄関へ向かった。
そこにはサドルがなくなりハンドルはひん曲がって、
買い物籠もペッチャンコに潰された無残な姿の私の自転車がある。
恐怖からなのか急に背筋に寒気を感じて、
ただ茫然と自転車を見つめていた。


洋佑「俺さ、幼稚園に寄った後、夕方一度ここに来たんだ。
  伊吹留守だったからさ、時間潰そうと思って下に下りたら、
  厚化粧で茶髪の女が玄関に立っててさ。
  自転車を蹴っ飛ばしたり、
  鉄の棒みたいなもので何度も叩いてたから、
  『お前、何やってんの!』って怒鳴ったら走って逃げてって。
  変だなとは思ってたけど、さっきも居たからびっくりしたよ。
  風体見ても、いかにも怪しそうだったからな」
伊吹「あっ。私の家、知られたんだ……」
洋祐「えっ?」
伊吹「(どうしよう。今度のターゲットは私!?)」
洋佑「とにかくこんなとこで話してないで上で話そう。
  仕事のこともだけど、
  お前なにか厄介なことに巻き込まれてるんじゃないの?」
伊吹「あぁ。うん……」


(伊吹のアパート“ベルメゾン301号室”)


私は無言のまま洋佑を部屋に招き、
コーヒーを入れて彼に差し出した。
洋佑は部屋を少し見渡して、
何故だか穏やかに微笑んでマグカップを口にする。
そんな彼を見てるとなんだか照れくささと、
変な緊張感で複雑な心境。


洋佑「あのまんま。何も変わってないなぁ。
  伊吹も変わってない」
伊吹「し、失礼ね(焦)
  あ、あれから3年半も経ってるのよ。
  私だって少しは成長したわよ。
  部屋だってちゃんと模様替えして掃除もして」
洋佑「あはははっ(笑)相変わらずだなぁ。
  そんなこと言ってるんじゃなくて、
  伊吹から漂う空気が変わらないって言ってんの。
  あの時と同じように居心地いいっていうかさ……」
伊吹「あぁ。そういうこと」
洋佑「なんで別れちゃったんだろうな、俺たち。
  3年半経って再会しても、こんなに自然に話せるのにな」
伊吹「そ、それは洋佑が、
  あの時、嫉妬して私をフったからで……
  私は別に、洋佑を嫌いになったわけじゃなかったんだから」
洋佑「普通するだろ、嫉妬。
  自分の愛する彼女から、
  他の男を好きになったなんて聞かされれば。
  しかも相手は、俺より4歳も上のオタクっぽいおっさんだぞ。
  嫉妬したり怒って当然なんじゃないか?」
伊吹「そ、それはそうかもだけど……
  彼はおっさんじゃないわよ!」
洋佑「それで?さっきの女は。
  まさかそのおっさん絡みじゃないよな。
  その男と絡んだら、厄介な女が傍にいて逆恨み受けてるとか」
伊吹「あ、あははっ(苦笑)いや、それはそういうことじゃなくて。
   (相変わらず鋭い。
  駄目だ……私のこと、洋祐に完全に読まれてる)」
洋佑「伊吹。あの手の女は執念深いし、
   ひとつのことしか見えてない。
  一度思い込むと後先考えずに行動を起こすから気をつけろよ。
  あの女、またここに来るぞ」
伊吹「えっ!そうなの!?」
洋佑「うん。俺の勘」
伊吹「えーっ!
  ねえ、洋佑。そうなったらどうしたらいい!?」


そんな時、テーブルの上に置いていた携帯が鳴って、
その着信音にまたもドキッとする。
番号を見るとニキさんからだ。
さっきわかれたばかりなのに、
こんなタイミングよくかけてくるなんて不思議だった。
洋佑はちらっと私の様子を覗いながらコーヒーを飲んでる。
落ち着きなく携帯を手にして、出るべきか少し迷ってきたけれど、
ふーっと大きく息を吐くと受話ボタンを押した。


伊吹「もしもし」
向琉『伊吹さん。
  僕、仁木だけど、今いい?』
伊吹「え、ええ。少しなら」
向琉『帰りがけに言い忘れてたんだけど、
  自転車、一応盗難届出しておいたほうがいいよ。
  防犯登録してる?
  変な奴に盗まれて住所とか書いてるなら危ないし』
伊吹「盗難届……
  (もう十分変な奴に盗まれて危ない目に合ってるわよ)
  そ、それが、自転車は見つかったから」
向琉『そう!えっ?……
  あんな短時間でどうやって見つけたの?』
伊吹「あの、それは……
  親切な人が家までちゃんと届けてくれて、
  無事にもどってきたから盗難届は出さなくて大丈夫」
向琉『そう。それは良かったね。
  これで明日の通勤は困らないね』
伊吹「え、ええ。そうね(苦笑)」
洋佑「おい、伊吹。お前何言ってんの」
伊吹「(携帯を胸に押しあてて)
  ちょ、ちょっと、電話中なんだから黙っててよ!」
向琉『……えっ?』
伊吹「いえ、ニキさんじゃないのよ。こっちの話で」
向琉『ん?部屋に誰かいるの?』
伊吹「ええ。ちょっと友達が来てて」


私のこの言葉を聞いた洋佑は、いきなり無言で立ち上がり、
私の携帯を取りあげるとニキさんに話し出した。


伊吹「ちょっと洋佑、何するの!?
  私の携帯で私にかかった電話よ!」
洋佑「伊吹は黙ってろ!
  あ、もしもし。お電話変わりました」
向琉『はぁ?』
洋祐「俺、伊吹の元カレの遠藤洋佑と申します」
向琉『元カレ?……あの。
  すみませんが話の途中なんで、伊吹さんに変わってもらえますか』
洋佑「あなたもしかして、例の大学教授とかいう人?」
向琉『えっ?』
洋佑「伊吹の性格的に本当のこと言えないと思うから、
  俺から言わせてもらうけど、
  自転車は親切な人が届けてくれたんじゃない。
  さっきここにあんたの女が来て、伊吹の自転車壊して帰ったんだよ」
向琉『えっ!?』
洋祐「自分の女なら、
  人に迷惑かけないようにしっかり監視しとくんだな」
伊吹「洋祐、違うから!」
向琉『あいつ、伊吹さんちに行ったんですか!』
洋佑「ああ。やっぱりあんたの女か。
  俺が偶然訪ねたからよかったものの、
  もう少しで伊吹は危ない目に遭うところだったんだ。
  ちょっとは人の迷惑も考えてくださいよ」
向琉『……』
伊吹「もう、洋佑!
  お節介はやめて私の携帯返してったら!」


私は力づくで携帯を取り返し、洋佑を突き飛ばした。
突発的に起きてしまった予測不可能な状況に、
私の心拍数は、全速力で走った後のように、
ものすごい勢いで波打っている。
動揺で体中が震えていたけれど、
上擦る声で怖怖ニキさんに話しかけた。


伊吹「も、もしもし、ニキさん?
  あ、あの、洋、いや遠藤さんが、
  いきなり失礼なこと言ってごめんなさい」
向琉『ねぇ、伊吹さん。本当のこと言ってくれる?
  さっき遠藤さんが話してくれた通り、あの女がそこに来たの』
伊吹「えっ。ええ。多分来たと思う。
  私が見かけたわけじゃないけど、
  自転車は彼女が持ってきたのかも」
向琉『そう。僕、今から伊吹さんちに行くから、
  絶対に出かけないでね!』
伊吹「えっ!?今から来るって!ニキさん!?
  彼女は帰ってここにはいないから……
  切っちゃった。どうしよう。
  いきなりここに来るって言われても」


私は呆然と携帯を持ったまま、その場に立ちつくしていた。
次から次へと押し寄せる波みたいに問題が襲ってくるものだから、
まるで大波を顔面に受けてあっぷあっぷする、
泳げない子供のようにうまく呼吸できなくて息苦しさを感じる。
そして頭の中は白紙状態。
顔面蒼白の私を見た洋佑は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、
ソファーに座ると、コーヒーを飲み干して落ち着いた声で言う。



洋佑「あいつの声、33?にしては若い感じだったな。
  直接対決かー。それは面白い。
  3年半前の話に決着つけるかな」
伊吹「えっ!?」
洋佑「ここに来るんだろ?俺も待ってるよ」
伊吹「何バカな言ってんの!?
  冗談じゃないわよ、決着なんて。
  洋佑には関係ない話なんだからね」
洋佑「関係なくはないでしょ。
  俺たちの仲を駄目にした超本人なんだから。
  名前なんて言ったっけなー」
伊吹「違うわよ!
  洋佑、人違いしてる。
  ニキさんは3年前の彼じゃないわよ」
洋佑「ニキ?でもアイツ、否定しなかったぞ。
  あぁー。やっと名前を思いだしたよ。
  そうそう、冬季也だっけ。
  ニキって言うのも、そいつの関係者じゃないの?」
伊吹「……」


突如襲ったふたつの事件は私の平凡な日常を脅し、
俄かに悲劇の情景を連想させ、
その後訪れる劇的なバトルの予感を呈していた。
その時、私の中に芽生えたのは、
ニキさんに洋佑との過去を知られたくないという焦りと、
洋佑と会わせることで彼を傷つけたくないっていう保護本能。
私は洋佑に悟られないように表向きは極力冷静さを保っていたけれど、
心の中では煩悶を抱えていたのだ。

(続く)