どんどん辺りは薄暗くなり、
川面も一面淡いオレンジに染まっていく。
私は筆とパレットを持って絵を描いている彼の後姿を、
もどかしく悶々とした気持ちを胸の奥に秘めたまま、
ぼんやりと見つめていた。
すると、私たちの居るほうへすたすたと、
歩いてくる黒っぽいシルエットに気がつく。
始めは土手を散歩する人か、
この辺りの帰宅途中の住人だと思っていた。
けれどその人物がどんどん近づくにつれて、
鮮明になっていくと、その人物を見て私はどきっとする。
それは……
あの空気読めないうんちく鍋奉行、仁木向琉だったからだ。
伊吹 「へっ!?
(何故。彼がこんなところに居るのよ!)」
私がガン見していると向こうも私の存在に気がつき、
じっと目線を反らさないまま、尚も近づいてきた。
そしてニヤリとあしらうような薄笑みを浮かべる。
伊吹 「何故、あなたがこんなとこにいるのよ!
もしかして私をつけまわして、
昨日の憂さ晴らしでもしに来たの!?」
向琉 「は?
なんで僕がわざわざ君に会いにくるんだ。
だいたい君が何処に住んでるかも知らないのに、
人をストーカーみたいに言うなよ。
君の体にGPSチップが埋め込まれてるならまだしも」
伊吹 「はい!?
人をアイアンマンかハンコックみたいに言わないでよね!」
向琉 「アイアンマンもハンコックもチップなんか埋め込まれてない。
ロボコップならまだわかるけど、
知らないなら引用しないほうが君のためだよ。
恥をかかなくてすむ」
伊吹 「はぁ!?」
向琉 「それに。
つけられるのが心配ならボディーガードでも雇えば?
今では民間人でも彼らを雇う時代だから。
あぁー。そうか。
ボディーガードが君を守る前に、君から倒されそうだな」
伊吹 「ちょっと!
(こいつー。またもうんちく語ってくれちゃって!)
いったい私に何の用なの!?」
向琉 「だから!
僕は君じゃなく、そこに居る遠藤教授に用があるんだ!
それにこの道は僕の帰宅ルート」
伊吹 「へっ」
それまでキャンバスに向かっていたはずの冬季也さんは、
いつの間にか手を止め、私とニキさんの掛け合いを、
含み笑いしながら聞いていたのだ。
冬季也「ニキ(笑)やっときたな」
向琉 「ちょっと論文の添削に戸惑って、遅くなってすみません」
冬季也「なんだ。
お前、伊吹ちゃんと知り合いだったのか?」
向琉 「知り合いっていうか。
彼女とは昨日の夜、合コン」
伊吹 「(これはやばい!昨夜のことがバレる!)
はははっ(焦)そ、そうなんです。
いつも彼にはよくしてもらってて。
ねっ。ニキさん!(くそぉ……)」
向琉 「は!?いつもって」
冬季也「そう!世間は狭いなぁ。
まさか二人が仲よかったなんてな」
伊吹 「へっ!?
(冬季也さん、違うの!
私はこんな変わり者と仲良くなんかないわよぉー)」
向琉 「(なんだ、こいつ。
顔赤面してるし、声上ずってるし。
もしかして先輩に気があるのか?)」
冬季也「ニキは僕の親友の弟でね。
家も近所だからこいつが鼻たらしてた頃から知ってるよ。
兄貴と違って頑固で人見知りが激しいけど、
伊吹ちゃんと話してるの見てちょっと安心したな」
伊吹 「はぁ。そうですか……」
向琉 「そんな話はもういいんで、教授行きましょう!」
冬季也「大学外では教授っていうのやめろよ。
じゃあ、伊吹ちゃん。
気をつけて帰ってね。
今撮れた写真はまた見せるからさ」
伊吹 「はい。お願いします」
向琉 「もう!教授、早く片付けて行きますよ」
冬季也「おお、ごめんごめん。じゃあ、またね」
向琉 「はい。またぁ……」
冬季也さんは私に向かって笑顔で手を振ると、
彼と一緒に道具を片付け始める。
私は時々振り返りながら二人を見つめ、
自転車に跨ると家に向けてゆっくりこぎだした。
そしてふっと一抹の不安が浮かんでくる。
伊吹 「あっ!もしかしてこの後、
冬季也さんに昨日の合コンのこと話したりして。
ユウくんと連絡先交換したこととかあんこうの話とか!
そうなったら、絶対に軽蔑される。
うぅー。嫌われたらどうしよう!」
顔をひきつらせて叫びながら自転車を必死でこぐ私。
通りすがりの人たちは振り返り、
挙動不審者を見るように冷たい視線を送っていた。
(伊吹のアパート“ベルメゾン301号室”)
溜息をつきながら玄関のカギを開け、
部屋に入るとルーム照明をつけた。
すると「おかえり」と言うように泣きながら、
玄関までお出迎えしてくれたサイベリアンのチャコが、
私の足に甘えてまとわりつく。
この子は私のかわいい家族で飼ってもう6年目。
私はチャコの顎を撫でて靴を脱いだ。
伊吹 「チャコ、ただいまぁ」
チャコ「ミャーッ」
伊吹 「おりこうにしてた?ん?」
チャコ「ミャーッ」
伊吹 「あとでおやつあげようね。
はぁーっ。なんだか、今日も疲れたな」
溜息をつきながら部屋に入ると、
リュックとコンビニの袋を投げるようにどさっと置く。
そして大の字のまま倒れこむようにベッドへダイブした。
このまま横になってると、
眠ってしまいそうなほど睡魔に襲われている私を、
バッグの中で鳴りだした携帯が脅かすようにたき起こす。
私は寝ぼけ眼でガバッと立ち上がり、慌てて携帯を取り出した。
そして着信番号を確認すると、未登録の知らない番号が浮かんでいる。
躊躇いながらも人差し指で私は受話ボタンを押す。
受話器の向こうのちょっと低くハスキーな声を聞いた途端、
さっきまで私を襲っていた睡魔はぶっ飛んで、またも驚きに変えた。
伊吹「もしもし……」
向琉『あっ。もしもし。仁木だけど』
伊吹「えっ…」
(続く)