朝が早かったのもあっていつもより早く幼稚園に出勤した私。
園の門前には、私よりもっと早くに出勤していた仁王立ちする洋佑が居て、
今にもかみついてくるかと感じさせるような怖い形相をしていた。
恐る恐る朝の挨拶をして洋佑をみたけれど、
私の顔を見た途端、その表情は一変し急に悲しそうな相貌になったのだ。
そして、私の手を取ると幼稚園裏にある道具倉庫前に連れていき、
向かい合わせになった瞬間、倉庫の壁に私の体を押し付けた。
洋佑は私の両肩を押さえたまま、
今にも爆発しそうな何かをこらえて下を向く。
彼の掴んだ両手は微かに震えてる。
(伊吹の職場、ほのぼの天使幼稚園)
伊吹「洋佑!?い、痛いよ。お願いだから放して」
洋佑「ふっ(笑)あの時、あいつに会わなかったら、
今朝、こんな伊吹の顔を見なくて済んだのにな」
伊吹「えっ……何を言ってるの」
洋佑「お前の彼氏だった男だぞ、俺は。
分からないと思うか?」
伊吹「……」
洋佑「マジに惚れて結婚まで考えてた女だぞ……
こんなに綺麗になった伊吹に、
昨日何があったのか、分からないと思うか?」
伊吹「洋佑」
洋佑「分からないと思うか!?」
伊吹「洋佑。ごめんね」
洋佑「はぁーっ。
『ごめん』なんて簡単に言うなよ。
俺が言ってることが図星ってことになるだろ」
伊吹「洋佑……」
洋佑「はーっ。完敗だわ。仁木向琉に。
くっそぉ……」
伊吹「ごめんね。本当にごめん……」
涙を拭うと洋佑は息苦しく骨が軋むほど、
ぎゅっと私を強く抱きしめる。
私は無抵抗でただ彼の震える身体を感じていた。
ぐっと涙を堪える洋佑は私の顔を見つめてキスすると、
振り向かず足早にその場を立ち去っていく。
私の心に再び“別れ”という大きく切ない傷を刻んで。
彼が見えなくなった瞬間、足に力が入らない。
私はそのままずるずるとその場に座り込み、
天を仰ぎながら「洋佑も幸せに」と心で呟き涙を流したのだ。
終日、あれから洋佑とも会話をかわすことなく一日の業務をこなし、
相変わらず自転車に乗って土手の道を通って帰る。
そこには、いつものように左手にパレットを抱え、
筆を握る冬季也さんの姿があった。
昨日の件もあり、なんだかばつが悪くて、
自転車を降りた私はゆっくり冬季也さんに近づいた。
彼はいつもと変わらず、何事もなかったように接してくれる。
やっぱり、冬季也さんは大人だ。
(東京、荒川河川敷)
冬季也「やぁ。おかえり」
伊吹 「ただいま。
あの……先日といい、昨日といい、
本当にすみませんでした。
お騒がせしてご迷惑かけてしまって」
冬季也「ああ(笑)いいよ。気にしないで」
伊吹 「でも、ニキさんのお兄さんにもご迷惑を」
冬季也「そのことなら、翔琉にも詳しく話したから大丈夫だよ。
それよりニキから聞いたよ。良かったね」
伊吹 「は、はい」
冬季也「ん?なんだか浮かない顔だね。
まるで“悲しみのマリア”みたいな表情だ」
伊吹 「えっ。悲しみのマリア」
冬季也「うん。
『どうしてあげることもできない悲しみ』
『ただ見ていることしかできない無力さ』を感じる絵画だよ。
今の伊吹ちゃんはそのマリアのような顔してる」
伊吹 「はぁ……それがちょっといろいろあって」
冬季也「ん?それってニキとのことじゃないよね?」
伊吹 「はい。冬季也さんなら男性だから気持ちがわかるかも。
ニキさんの親友なのに、こんなことお話しするのって、
すごく失礼かもしれないんですけど、失礼を承知でお話を……」
私は隠しきれなかった切ない思いの丈を打ち明け、
今朝あった洋佑との出来事を冬季也さんに話した。
冬季也「そっかぁ。あのね、伊吹ちゃん。
遠藤さんがいくら君を愛してるといっても、
彼は過去にその期を逃したんだよ。
昨日、彼と4年前の話をした。
その時にも彼に話したことなんだけどね。
僕がいたから君が去っていったって彼は言うけど、そうじゃない。
伊吹ちゃんが本当に彼を必要と思っていたら、
僕の存在があっても、彼の前から去ったりはしなかったはずだ」
伊吹 「はい」
冬季也「それに本気で愛してるなら、
その時に物わかりのいい男を演じちゃダメだ。
しっかり掴んで、相手が去っていくようなセリフを言っちゃダメなんだ。
自分の気持ちを殺して去っていくなんて、彼女の為なんかじゃない。
自分の為でもない。
それはただ、二人の間に“後悔”という傷を刻んだだけなんだよ。
僕のようにね」
伊吹 「えっ」
冬季也「実は、僕も後悔してるんだ」
伊吹 「冬季也さんもって?」
冬季也「僕も過去、彼のように元カノの希未(のぞみ)を失ってね。
その傷が時々ズキズキと疼く。この胸の真ん中で。
その度に自分の不甲斐なさを嫌ってほど知らされるんだ」
伊吹 「そうなんですね。
でもそれだけ、希未のことが好きだったんですね」
冬季也「まあね(笑)
だから、伊吹ちゃんはそうならないようにニキを大切にしろよ。
本気で愛してるなら、意地を張っては駄目だよ」
伊吹 「冬季也さん……
はい。大切にします」
夕日が眩しかったからか、それとも冬季也さんの姿が眩しく見えたからか、
私の心は喜びと失った悲しみが入り混じり、大きく揺さぶられて涙が溢れた。
私と冬季也さんを、西の空に沈みゆく淡いオレンジの夕日が染めていく。
まるで「幸せはくるんだよ」と諭すような温かで。
そんな黄昏た私たちに、グレーの影が靴音と共にゆっくり近づいてくる。
近づく影に視線をやると、
その影法師は穏やかな微笑みを湛えたニキさんだった。
(続く)