翌朝、私は頭痛で目が覚めて、
頭を押さえながら気怠い体をゆっくり起こした。
精神的ストレスからくる緊張性頭痛。
原因は解ってる。
洋佑と別れた時にも味わったことがあるから。
昨夜はどの道を通り、どうやって家に帰ったか記憶は定かではない。
はっきりと覚えているのは、暗い道を歩きながら、
止めどなく溢れる涙を冬季也さんのハンカチで拭い、
帰宅するとバッグをぽんと投げて、そのままベッドに潜り込んだこと。
布団をかぶってワンワン泣きし、そのまま寝入ってしまったんだ。
伊吹「チャコ、おはよう。昨日はごめんね」
いつもより長い一日の始まり。
布団の上でゴロゴロと喉を鳴らしながら眠っているチャコを抱きかかえ、
重たい身体を引きずるようにしてベッドから出た。
センターラグの上に散乱したバックの中身を見て、
瞬間、何が起きたのか想い出せなかった。
チャコを下ろして、床に落ちている携帯を拾う。
画面を見ると、何件もの着信が入っていた。
冬季也さんはもちろん、沙都ちゃんと姫、そしてユウさんからも。
でもその中に、ニキさんからの着信は入っていない。
伊吹 「ユウさんが私に電話?何故……
でもニキさんは、ない。
当たり前か……もう結婚するんだもんね。
連絡なんかあるわけない」
部屋の壁時計を見てぶつぶつと言いながら洗面所に向かい、
ボサボサ頭のままドレッサーの前に立った。
鏡に映ってる顔は最悪だ。
両瞼は浮腫んで赤くはれ上がり、化粧を落とさずに眠ったせいで、
肌は所々かさかさに乾燥している。
伊吹 「あぁ……酷い。最悪。
瞼、思いっきり腫れてる。
また子供たちにからかわれるな。
プクプクみたいって。
今日の仕事、休みたい」
そう呟きながら蛇口を開いて、
思い出し泣きして崩れそうになる顔を流水で何度も何度も洗う。
無気力にだらだらと着替えを済ませ、朝食も摂らず、
すっぴんのままチャコに水と餌を与えると、
いつもより一時間も早いのに私は自転車で職場に向かったのだ。
(伊吹の職場、ほのぼの天使幼稚園)
園の門までたどり着くと、カギが開いていて既に誰か出勤している。
自転車を停めてゆっくり職員室に入ると、
デスクに向かって資料を作っている洋佑がいた。
洋佑は私の顔を見るなり、びっくりした顔で立ち上がる。
洋佑「伊吹!早いな……どうした!?その顔!
目が真っ赤じゃないか。
また何かあったのか?」
伊吹「おはよう、洋佑」
洋佑「おはようって、俺の質問に答えろよ。
何があったんだろ。
両目は腫れてるし、顔色は悪いし、
まるで魂が抜け落ちたみたいな表情だぞ。
しかもふらふらしてる」
伊吹「いいの。洋佑には関係ないことだから」
洋佑「いや、関係あるね。
担任のお前がそんな腑抜け状態で保育するなんて、
副担の俺としては見て見ぬふりはできないな。
もし子供たちが怪我でもしたらどうする!?」
伊吹「大丈夫よ」
洋佑「大丈夫じゃないよ。
……なんだ。
もしかして、仁木って男と喧嘩でもしたのか」
伊吹「その名前は言わないで!!」
洋佑「伊吹!?」
ニキさんの名前に直ぐ反応してしまった私。
傍にきた洋佑に思い切り掴みかかり、ぼろっと涙を流し叫んでいた。
洋佑は驚いて、私を反射的に抱きしめる。
私は懐かしい洋佑の胸の中で、またも号泣した。
(ほのぼの天使幼稚園園庭)
お弁当の時間が終わり、園児が園庭で遊び始める。
私はカラータイヤ遊具に座り、子供たちが遊ぶ姿をぼんやりと見ていた。
もちろん洋佑は子供たちの相手をしながら、
少し離れた場所から私の様子を観察している。
砂場でおままごと遊びをしていたけんた君が、
スコップを持ったまま私に近づいてきて、俯き気味の私の顔を覗き込んだ。
同僚である真知子先生にメイク道具一式を借り、
瞼の腫れを必死で誤魔化してたんだけど、
好奇心旺盛な子供たちの目は誤魔化せない。
けんた君 「あーっ!伊吹先生の目、
また“マリオのプクプク”みたいな目」
リオちゃん「ほんとだー!伊吹先生、プクプクー!」
伊吹 「あぁ。バレたか。
(君たちはまたも私をフグ扱いするのか)」
けんた君 「伊吹先生はふぐのプクプクー。
プクプクはお尻パンチでやっつけてやる」
リオちゃん「もう。けんたパパったら、
プクプクが怖がってるでしょ!
お弁当作ったから早く会社に行きなさいってば。
今日は給料日なんだから、
帰るとき子供たちにおみやげ忘れないでよ!」
伊吹 「へっ。
(もしかして私、
いつの間にかおままごとに参加させられてる?
しかもペット役で」
大悟君 「これはふぐじゃない。
あんこうだ。
おい、プクプクに餌やっといたぞ」
伊吹 「あんこう……あぁ、聞きたくないフラグ。
(あんこうは水槽で飼えないだろうが!)」
大悟君 「リオちゃん、飯!」
リオちゃん「リオちゃんじゃないの!
『ママ』でしょ?
それに飯じゃなくて、『ご飯』って言いなさい。
もう!へんなところケンタパパにそっくりなんだから。
はい、ご飯。これ食べたら、学校に行くのよ。
お勉強して東大に行って、アンパンマンになるんでしょ?」
伊吹 「(えっ、アンパンマン?東大を知ってるってどういう……
あぁー。リオちゃんのお兄ちゃんは受験生か。
リオちゃんママって、普段はこんな感じなのかしら。
まるで日常生活の再現フィルム見てるみたい)」
大悟君 「僕はアンパンマンより、仮面ライダーウィザードになるんだい!
『シャバドゥビタッチヘンシーン。プリーズ!』
たぁーっ!魔法使いだぁー!」
リオちゃん「もう、大悟ったら!またお弁当忘れてるわよ!」
伊吹 「ぷっ!しかしリアルすぎる、この会話。
(これって完全にリオちゃんの家庭、再現フィルムよね)」
洋佑は子供たちと遊具で遊んでいたけれど、
思わず笑ってしまった私の顔をみて、笑みを浮かべて傍までやってきた。
そしてカラータイヤの上に腰をおろし、私と向かい合わせに座った。
洋佑「伊吹、どうした?」
伊吹「え?ああ(笑)
リオちゃんとけんた君のおままごと見てたら笑えてきちゃって。
きっと、両親やお兄ちゃんとの会話を聞いてるのね。
洋佑も下手なこと言えないわよ。
気をつけないと親御さんたちの前で言われちゃうからね」
洋佑「そっか(笑)この子たちは素直だからな。
大人の言うことをそのままストレートに受け取るし。
でも良かった。
伊吹が今日初めて笑った」
伊吹「えっ、あぁ……子供っていいね、無邪気で。
きっと泣くような悩みなんかないんだろうな」
洋佑「そっかなぁ。
きっと子供は子供なりにあるんじゃない?
俺は幼稚園の頃はあったな。悩み」
伊吹「えっ(笑)どんなことで悩んでたの?」
洋佑「お遊戯会の時に、シンデレラをやってさ。
俺、主役だったんだ」
伊吹「へーっ」
洋佑「お姫様役は好きだった女の子だったんで、
とにかく恥ずかしくて、どうしても手が繋げなくてさ。
もじもじしてたらラストのラブシーンで、
『もう!ようくんなんか大嫌い!』って、
みんなの前で突き飛ばされてさ。
お芝居真っ最中に泣いちゃって、お遊戯ぶち壊し」
伊吹「おはははっ(笑)それは大変だったわね」
洋佑「しかも、その子の名前もなんと“いぶき”ちゃん」
伊吹「うそ!」
洋佑「ほんと。
俺は“いぶき”という名前に一生泣かされる運命なんだな」
伊吹「一生なんて失礼な言い方ね。
泣かされるなんて過去をぶり返す気?」
私が、洋佑の左腕を叩いた途端、
それまでは笑いながら話していた洋佑の顔色が、
急に険しくなり口調まで変わった。
そして、私の両腕を掴んで自分に引き寄せて耳元に顔を近づけた。
伊吹「よ、洋佑、やめて。
ここは幼稚園で職務中よ。
子供たちもいるし先生たちだって」
洋佑「今は伊吹が泣かされてるよな。あいつに」
伊吹「洋佑」
洋佑「大切な伊吹のこと、両目が腫れあがるほど泣かせやがって。
俺はあの時あいつに面と向かって、
『泣かしたら許さない』って言っておいたんだけどな」
伊吹「えっ。洋佑、いつそんなことを……」
(続く)