(冬季也のマンション、リビング)


泣きじゃくる私のおでこに、
4年も想い続けた冬季也さんの温かいキス。
それは悲しみを解きほぐし、潰れそうな心を救ってくれる。
しかし、彼の優しさに癒されながらも涙腺はさらに緩む。
今までの私なら4年も想い続けた彼に触れられることは、
心の底から望んでいたことなのに。
今は疼くような悲しみが全身を包み、この世のすべてを覆い隠してしまう。
ひっくひっくと喉を鳴らしてすすり泣き私は、
ニキさん当人ではないのに、彼をよく知る冬季也さんに、
途切れ途切れの言葉で必死に胸の内を明かした。
諦めよりも「解ってほしい!」その気持ちのほうが完全に勝っていた。


伊吹 「私のせいなのね。
   お兄さんのこと責めたりしたから。
   鴻美さんを助けてなんて、言ったから。
   だから、ひっくひっく、あの日何も言わずに帰っちゃったの……はぁ。
   私は、ニキさんの苦しみを解きほぐしたかっただけなの……ひっく。
   みんなを救えたらって……ただそれだけだったのにぃ」
冬季也「伊吹ちゃん」
伊吹 「私に惚れたって、言っってくれたじゃない。
   巻き込んで混乱させたのなら、責任持ちなさいよ……
   何も言わずに去っていくんじゃなくて、自分の言ったことを貫いてよ。
   ひっくひっく……勝手に現れたり逃げたり、
   人を喜ばせて持ち上げといて、急に落としたりしないでよ。
   私の心、ひっく……抱きしめてくれた手なら、
   簡単に離したりしないでよ……」
冬季也「伊吹ちゃん、辛いね。
   君の気持ち、分かるよ」
伊吹 「そんなに私、強い女じゃないんだから。
   私にだって感情があるんだから。
   アンコウじゃないし、アンコウのように強かじゃない。
   アンコウにみたいにたくさん抱えられるほど強くないわよ。
   ニキさんがここに居てくれなきゃ、
   私、駄目になっちゃうよぉ……ひっくひっく……」


5ヶ月前だったら考えられないくらいに、
ニキさんを好きになっている私がここにいる。
ハンカチで交互に両目から流れ落ちる涙を拭い、
声を引き飲み込むようにしゃくりあげる変わり果てた私。
冬季也さんはまるで幼子をあやす様に穏やかな笑みを浮かべ、
上下に小さく動き震える肩を力強く抱きしめる。
そして優しく擦りながら「よしよし」と宥めてくれた。
暫くの間、嘆きぼやいていたけれど、
胸の中にあった本心をはき出したからか、少しだけ落ち着いてきた。
そのとき、冬季也さんの携帯が鳴る。


冬季也「あっ。ちょっと待っててね。電話出るから」

私は頷いて涙を拭う。
冬季也さんは私の頭を撫でて、
立ち上がるとテーブルに向かい携帯をとった。


冬季也「もしもし、翔琉」
伊吹 「(翔琉って!)」
冬季也「どうした?……今からか……
   今来客中なんだよ……」 


私はニキさんのお兄さんの名前が聞こえた瞬間、
心臓が一瞬止まるかもと思うくらいドキッとした。
翔琉さんと会話する冬季也さんの口から、
これ以上ニキさんの名を聞く恐怖に耐えられず、
ふらつきながらゆっくりと立ち上がる。
ソファーに置いてあったバッグを手にすると、
夢遊病者のように無言のまま玄関に向かったのだ。
私が出ていく姿を見た冬季也さんは、
電話を持ったまま慌てて玄関に向かう。


冬季也「翔琉、ちょっと待って。伊吹ちゃん!」
翔琉 『冬季也、伊吹って誰だ』
冬季也「彼女は、いずれ翔琉も知る女性だ。
   すまん、後で掛けなおす」
翔琉 『あ、ああ。わかった』


揃えられたローヒールの靴を履くと、
私は泣きながら冬季也さんの家から出た。
アルコーブを出て共用廊下を走り、
エレベーターまで辿り着くと9のボタンを何度も押す。
表示されている数字が5、6、7、と、
左から右へゆっくりと点灯しているのを見上げながら、
早くここから逃げ出したいという感情に襲われて、
ドアが開くまで尚もボタンを押し続けた。
冬季也さんが追いかけてきて引き留められるかもしれないと思うと、
心臓は破裂しそうなほど脈打ち、更に涙が溢れてくる。
やっとドアが開いて、エレベーターに飛び乗ると慌てて閉のボタンの押した。
動き出したエレベーターのガラス窓の向こうに、
こちらへ向かって走ってくる冬季也さんの姿が一瞬だけ見えた。
間一髪この場を逃れた私は、下るエレベーターの壁に凭れ、
ずるずると力なくしゃがみ込んで、嗚咽を漏らしたのだった。