伊吹「チャコ。行ってくるからね。
今日は早く帰ってくるからお留守番お願いねー」
チャコ「ミャァーッ」
翌日。
いつものように出勤の支度をして、
ドアに鍵をかけバッグにカギをしまう。
私は渡り廊下を歩き階段を下りながら昨夜の出来事を思い返し、
アパート玄関のエントランスで立ち止まった。
<回想シーン>
(東京千代田区、騎士の自宅)
ニキさんは澄んだ眼差しで優しく見つめ、
柔らかい微笑みを浮かべてる。
そこに居る彼は堂々と胸を張り、
困難な戦いを目の前にして覚悟を決めた戦士のように、
私の目には大きく頼もしく映った。
伊吹 「いいねって……
そんなこといきなり言われても、私…」
沙都莉「そうよ。ニキさん、ちょっと冷静になりましょう」
向琉 「沙都莉さん。
僕は至って冷静だし、感情だけで言ってるわけじゃない」
沙都莉「そうかもしれないけど、あまりに唐突でしょ?」
向琉 「これは伊吹さんの自転車事件があった時から、
ずっと考えてたことなんだ」
騎士 「あのな、アダム。お前の気持ちは分からんでもない。
一緒にいれば何かあってもすぐ守れるし、
伊吹ちゃんもそのほうが安心していられるだろう。
それに伊吹ちゃんのことが好きだから、
お前は尚そうしたいと思うだろうが、
その選択はまだ早すぎると思うぞ」
向琉 「早い?じゃあ、時期をずらせばいいってことか?」
騎士 「時期だけの問題じゃない。
周囲のことも考えろって言ってるんだ」
沙都莉「そうよ。ニキさんだけじゃなく先輩もいるんでしょ?
同じ屋根の下で男性二人と女性ひとりが住むなんて。
しかもその先輩は、伊吹がずっと片思いしていた人でしょ?
少しは伊吹の立場や気持ちも考えてほしいの」
騎士 「それに、ユウと姫ちゃんのこともあるだろ。
ストーカー対策はそうすることで少しは安心かもしれないが、
お前たちはどんな理由があるにせよ、
あの二人の気持ちも考えてやらないといけない」
向琉 「僕だってちゃんと考えてるさ」
騎士 「いや、今のお前は考えてるふりしてるだけだ」
向琉 「は?」
騎士 「本気で考えてるなら、いきなりそんな無謀なこと言わんだろ」
向琉 「これが無謀なことか?
じゃあ、ナイトにはこのままの状態で、
彼女を守るいい方法があるっていうのか」
騎士 「だからそれを一緒に考えようと言ってるんだ」
伊吹 「(どうしよう。
このままだとニキさんとナイトさんまで仲違いしちゃう)」
沙都莉「今すぐここで良い結論は出ないわよ。
それぞれにどうしたらみんなのためになるか、
最善策を考えましょう」
向琉 「あの女の怖さを何もわかってないな。
そんな悠長なことはしていられないんだよ!
誰かが傷つけられてからでは遅いんだぞ!」
伊吹 「あっ…」
沙都莉「ん?伊吹、どうしたの?」
伊吹 「チャコに……餌やってなかった」
沙都莉「伊吹?」
伊吹 「沙都ちゃん、ナイトさん。それにニキさんも。
私のこと真剣に考えてくれてどうもありがとう。
みんなの気持ちがすごく嬉しいし、
私も逃げないでこの問題に立ち向かわなきゃって思える」
騎士 「伊吹ちゃん」
伊吹 「ニキさん。
一緒に生活するって今の私には心強い申し出だけど、
私はひとりじゃないの。小さな家族チャコもいる。
それに……姫ときちんと話をして許してもらうまで、
ユウさんとニキさんが今までみたく仲の良い関係に戻れるまでは、
ニキさんとの付き合いも今のままにしてほしいの」
向琉 「伊吹さん!」
伊吹 「私、ニキさんにも同じように、
私たちが二人にしたことを重く受け止めてほしい。
そして親友のユウさんと仲直りして、
また6人で楽しく会えるようにしてほしいのよ」
向琉 「そんなことは無理だな。
お子ちゃまのグループ交際じゃないんだよ。
それに、悠大とのことは僕の問題で君が心配することじゃない。
僕なりに時期がきたら悠大と話しするし、
これで駄目になるようなダチならなくてもいいさ」
騎士「アダム!」
向琉「ナイトは黙ってろ。
姫ちゃんのことだって、僕から気持ちを話せば、
君との仲もすぐ落ち着いてくるだろ。
だけど、そのことと僕らのことはまったく関係ないだろ?」
伊吹 「お願い。今の私は姫との時間がほしいの。
それができたら、ニキさんの気持ちしっかり受け止めようと思う」
沙都莉「伊吹」
騎士 「アダム、伊吹ちゃんの言うとおりだぞ」
向琉 「……」
感情的なニキさんを宥めて教え諭す騎士さんと、
冷静な沙都ちゃんの存在。
私には心強くありがたかった。
しかし皆の前でかっこつけて言ったものの、
私は姫やユウさんと仲なおりできるのだろうか。
もしも拗れたままなら、
ニキさんや冬季也さんとも以前のように関われなくなる。
重い溜息を何度もつきながら外に出ると、
大きな紙袋を持った洋佑が清々しい表情で立っていたのだ。
洋佑「おはよう!」
伊吹「洋佑。こんな時間に何故ここに居るの!?」
洋佑「えっ。お前、何言ってるの?
先週約束してただろ。
今日から幼稚園に出勤だし、
自転車を購入するまで一緒に通勤するって」
伊吹「あっ、そうだったわね。
(しまった!昨日の事件のことで、
洋佑のことすっかり忘れてたわ)」
洋佑「大丈夫か?
伊吹、朝からなんだか疲れてない?」
伊吹「えっ。あぁ、まぁ……
疲れてるというか、そうね」
洋佑「もしかしてまたあのストーカー女と何かあったの」
伊吹「え?それも気にはなるんだけど。
昨日さ、姫と喧嘩しちゃって、
連絡取っても出てくれなくてさ。
正直参ったなって思って」
洋佑「そうか。なんだか複雑そうだな。
その話、仕事終わってからゆっくり話してくれよ。
俺が聞いてもどうにもならないかもしれないけど」
伊吹「(どうしよう。鴻美さんのことは言えても、
流石にニキさんやユウさんのことは洋佑に言えない)
あぁ、姫とのことはいいわ。
そんなに大したことじゃないし」
洋佑「そうなのか?
見てるとそんな風には思えないけど」
伊吹「はぁ……」
洋佑「伊吹。
今は友達との揉め事や自分のことより3月14日の卒園式と、
受け持ちクラスの子供達のことだけ考えてろ。
そんな浮ついた気持ちで仕事してたら、
子供たちに事故が起きたらどうする」
伊吹「う、うん。そうだね」
そう、彼の言うとおりだ。
私は洋佑に喝を入れられて、なんだか情けない気持ちになる。
ニキさんに冬季也さん、ユウさん、そして姫のこと。
それからもうひとつ、私にはどうしても引っかかる鴻美さんの行動。
裕福な家庭に生まれ育ったお嬢様が何の理由があって、
心にどんな闇を抱えて、まるで全てを焼き尽くす荒ぶる炎のように、
次から次へとこんな問題を起こすのだろうと不思議でしかたない。
一方的に好意を持つ人を狙う、ただのストーカーではない気がした。
もしかしたら、彼女は周囲に何か訴えたい事があるのではないか。
きちんと向き合えば、案外話のわかる女性かもしれない。
本当は寂しくて、誰かに構ってほしいという気持ちの裏返しでは?
どんなに推測したって解る訳がない彼女の心理状態まで探って、
自らが新たな悩みの種を増やしている。
私が抱えられるキャパシティーを完全に超えているのに。
それから10日、二週間と時は過ぎ、
怖いくらい何もない平和な日常があった。
卒業式、クラス持ちあがりの園児達の準備を無事終える。
あの恐怖の鴻美さんの姿を見ることもなく、
ニキさんからの近況報告もない。
当然のことながら、ユウさんともあれっきりで、
流石に私から二人に連絡はし辛かった。
沙都ちゃんは、私を心配して毎日電話してくれるものの、
姫からまったく連絡はなく、
私や沙都ちゃんが電話やメールをしても音信不通。
今いちばん何が気がかりって、やっぱり姫のことだった。
故意ではなくても、彼女の純粋な恋心を私が傷つけて、
結果、長年の信頼を踏みにじったことには変わりはない。
謝ったって許してくれないと分かっているけど、
やっぱり姫のことが気にかかる。
沙都ちゃんとあれこれ話をする中で、明日金曜日の夜に、
ふたりで姫の自宅に行くことになった。
解決した訳じゃないのに少しだけ、
ほっとした気持ちになれた私だった。
翌日3月22日19時。
私は沙都ちゃんとファミレスで食事をした後、姫の自宅を訪ねた。
しかしそこで、私たちは衝撃的な事実を知ることとなる。
姫の住んでいた部屋は空き部屋になっていて、
私たちは互いの顔を見合わせた。
すぐさま、一階に住んでいる大家さんを訪ね、
彼女の引っ越しのことについて詳しく聞くことにした。
大家 「あぁ、矢木さんなら親御さんが倒れたとかで、
実家に帰るって先週ばたばた引っ越したわよ」
伊吹 「先週」
沙都莉「あの、他に何か言ってませんでしたか?」
大家 「そうねぇー。
そう言えば、お姉さんか妹さんだったのかしらね。
若い女性と一緒に菓子折り持って挨拶にきたくらいで、
他には何も言ってなかったけど?」
伊吹 「お姉さんか妹って……」
沙都莉「そうですか。
どうもありがとうございました」
私たちは深々と頭を下げお礼を言うと、
アパートの敷地から出る。
そして再度、姫の住んでいた部屋の真っ暗な窓を見上げた。
伊吹 「おかしい」
沙都莉「ん?何がおかしいの?」
伊吹 「だって、姫には姉妹はいないもの」
沙都莉「えっ?」
伊吹 「弟は二人いるけど」
沙都莉「じゃあ、誰と一緒にきたんだろ。
専門学校の人?
それとも私たちのほかに誰か友達がいたのかしら」
伊吹 「う……ん。分からないわ。
姫は中学の時から、
すんなりと友達を作るような子じゃなかったし、
専門学校の仲間とは個人的な付き合いはないって言ってた。
なんだか腑に落ちないんだけど、
自分が引っ越しする時に会社の人と一緒に挨拶する?
社宅ならまだしも普通はしないわよ」
沙都莉「確かに、言われてみればそうよね。
親御さんが倒れたって言ってたし、
もしかしたら親戚の人かもしれないわよ」
伊吹 「そうね……」
沙都莉「そんな大変な理由なら、
私たちが連絡したって出ないかもしれないわよ。
もう少し時間を置いて連絡してみましょう。ねっ!」
伊吹 「うん。
(まさか、若い女性って……彼女じゃないわよね)」
私の中で急に不安が込み上げてきた。
それは大家さんの話を聞いている時からで、
虫の知らせのようなざわざわ感。
ニキさんがナイトさんの家に向かう車の中で話してくれた、
お兄さんの彼女と親友の話をふっと思い出してから。
その内容と姫の状況が同じように感じる。
この一連の難問を解決するにはと私は真剣に考えた。
それは鴻美さんから逃げるんじゃなく、彼女の中に潜む“諸悪の根源”、
“真の解決の糸口”を突き止めなくちゃいけないってこと。
直接会って鴻美さんと話さなくてはいけないと私は強く思った。
沙都ちゃんと街頭の少ない小道を黙ったままとぼとぼと歩きながら、
彼女の車が停めてある100円パーキングに向かった。
(続く)