姫は立ち上がり手すりの隙間から、
二階と三階の薄暗い踊り場を見下ろし、
その上がってくる人物を待っている。
確かに階段を登ってくる黒い影の正体は、
私ではなくあの恐怖の女性、鴻美さんだった。
姫奈「あっ。貴女は昼間動物園でお会いした……」
鴻美「あらっ。奇遇ね(笑)
貴女も伊吹さんのお宅に?」
姫奈「ええ。山本さんもですか?」
鴻美「ええ。そうなのよ」
姫奈「伊吹ならまだ帰ってませんよ」
鴻美「そう……
貴女とわかれた後、動物園で彼女と少し話せてね、
今日会う約束をしたからここに来たのに」
姫奈「えっ。そうなんですか?」
鴻美「ええ。まだ帰ってないなんて」
姫奈「きっと伊吹は、すぐには帰ってこないと思います」
鴻美「すぐ帰ってこないって分かっててここで待ってるの?
どうして?
待ってるくらいなら彼女に連絡すればいいのに。
私から電話してもいいけど」
姫奈「いえ。電話はいいんです。
実はちょっと彼女と仲たがいみたいになってしまって」
鴻美「仲たがい。何かあったの?
仲のいい友達同志で動物園に行ったんじゃないの?」
姫奈「そうなんですけど。
あの後、伊吹は何も言わずに、
ニキさんと途中で帰っちゃったんです。
きっとまだ二人一緒にいると思うから、
電話しても出ないと思います」
鴻美「そう。んー。
それなら……こんなところで二人して、
いつ帰ってくるかわからない彼女を待ってるのもなんだから、
良かったら近くのお店でお茶でもしない?
私で良かったら話し聞くわよ。
今日二度も会うなんて、貴女とは縁がありそうだしね(笑)」
姫奈「いいんですか!?
ありがとうございます!
本当のこと言うと、今にも心が折れそうなんです。
ニキさんのお兄さんと仲良しって言われてたでしょ?
だったらニキさんとも仲いいんですよね。
私、山本さんにお話し聞いてもらえたら心強いです!」
鴻美「そう。
そういってもらえるなら、尚お話し聞かないとね。
仁木兄弟のことならよく知ってるから、
私は貴女の力になれると思うわよ。
えっと、貴女の名前は……」
姫奈「あっ、私は矢木姫奈と言います」
鴻美「姫奈さん。かわいい名前。宜しくね。
貴女とはいいお友達になれそう」
姫奈「はい!私も山本さんとお友達になれたら嬉しいです」
鴻美「私のことは鴻美でいいわ。
それじゃ、行きましょう」
姫奈「はい」
姫は、鴻美さんがニキさんのお兄さんの知り合いだと思い込み、
安堵の表情を浮かべて彼女の手を力強く握りしめた。
彼女の巧みなトークと表面上のソフトな対応に、
皮肉にも姫の心は救われ、オーバーアクションで喜びながら話してる。
鴻美さんの穏やかな微笑みの裏に隠された本性など疑いもしないまま…
姫はアパートの入口に待たせてあったタクシーに同乗し、
彼女と一緒に行ってしまったのだ。
そんな一大事が姫の身に起きてるなんて知らない私たち4人は、
今までに彼女が起こした数々の騒動の一部始終を、
ニキさんから聞いていた。
それは私の想像を遥かに超える悲惨な出来事で、
冬季也さんやニキさんのお兄さんカップル、そしてニキさんも、
長い間、心を痛めていたんだということを。
山本鴻美という人物の真の怖さを再認識させられる。
彼が“ユウさんでは私を守れない”と言った意味も、
何となくだけど分かった。
(東京千代田区、騎士の自宅)
沙都莉「えっ!?それで……そのお兄さんの彼女は?
親友とどうなったの?」
向琉 「今は誤解が解けたから交流してるけど、
しこりはできてしまったよ。
一時期は、兄貴の彼女は自殺まで考えてたことがあって、
冬季先輩はあの女が原因で婚約者と破局したんだよ」
伊吹 「ひどい」
沙都莉「まるでストーカーとフレネミーを合体させたみたいな女ね」
騎士 「沙都莉、フレネミーってなんだ?」
沙都莉「1990年代にアメリカで生まれた新語で、
フレンド・友達とエネミー・敵を合わせてできた造語よ。
意味は友人のふりをする敵対者。
親しくするように見せかけて、
相手を陥れようとする人のことを言うの。
まさに天使と悪魔の心を兼ね備えてるっていった感じよ」
騎士 「な、なんか怖いなぁー。
そういうやつが世の中にいるんだ!」
沙都莉「今、多いのよ。そういうの。
社会問題にもなってるくらいだもの」
向琉 「あの女の怖さはその辺のストーカーとは比べものにならない。
ターゲットを定めたら、その友達、同僚、関係者に近寄って、
まるでウィルスがじわじわ身体を侵略するように、
周囲まで攻めてじりじりと目当ての相手に迫ってくる感じだ。
気がついた時にはどこにも逃げ場がなくなってる。
兄貴も冬季先輩もそれで神経が参ってしまった」
騎士 「そんなひどい女なら、何故こうなる前に、
公的機関に相談して訴えたりしなかったんだ?
ストーカーなんだろ?
それこそ警察に被害届をだして」
向琉 「それがあの女の賢さなんだ。
実家は大規模な弁護士事務所を経営してて、
法律のことは僕らより詳しいから、ギリギリのラインを心得てる。
世間の目には育ちの良い、それこそいい所の御嬢さんで、
そうそう正体を周囲には簡単には明かさない」
伊吹 「あのケバい化粧や服装からは、
育ちのいい御嬢さんなんてまったく感じないわ」
向琉 「あれはあの女のカモフラージュで、
普段の彼女はナチュラルで眼鏡をかけた知的な女性を演じてる」
伊吹 「じゃあ、私たちが何をしても適いっこないじゃない!
何かあれば、彼女の弁護をする人はたくさんいるってことでしょ?
私たちが何人束になって抵抗してもどうにもならないじゃない」
騎士 「そうだな。相手が悪いな」
向琉 「いや、ひとつだけいい方法があるんだ。
それにはもう少し情報を集めないといけないけどね」
沙都莉「その人、伊吹の自転車を盗んで壊してるんでしょ?
それだけでも窃盗と器物破損で立派な犯罪じゃない」
騎士 「でも証拠がないだろ。
盗んで壊したって証拠がないとな」
伊吹 「証拠ならある。
証人がいるわ。
彼女が壊してるところを見てた友達がいる」
向琉 「それだけじゃ何も解決しないさ。
先輩と二人であの女のことを調べまくった。
そして突き止めたある弱点があるんだ。
こうなったら『目には目を、歯には歯を』だ」
沙都莉「ニキさん。
その弱点と情報で彼女のストーカーを阻止するのはいいけど、
その間に伊吹に被害が及ぶってことは?
私はそれがいちばん心配なの。
住まいも知られてるし、あちらこちらに手を回わす人なら、
伊吹の勤め先まで被害が及ぶなんてことも考えられるし、
これから何を仕出かすか予想がつかないわ」
騎士 「そうだな。
とにかく、伊吹ちゃんの身の安全を第一に考えないと」
私と沙都ちゃん、
ナイトさんは重いため息をついてマグカップを握り、
冷めたコーヒーを飲みながら、
これからどうすべきか考えて込んでいた。
しかし、ニキさんだけは違っていて、
私たちのその問いに力強い声で答えたのだ。
向琉 「僕が伊吹さんのことは守るから心配しなくていいよ」
伊吹 「ニキさん。あの、守るって」
騎士 「そうだ、アダム。そんなに簡単なことじゃない。
守るって言っても、お互い違う場所で生活してて仕事もある。
どうやっていつ来るかわからないその女の攻撃をかわすんだ?」
沙都莉「そうよ。ニキさん、どうするの?」
向琉 「冬季先輩とも話し合ったことなんだけど、
このことが落ち着くまで、
伊吹さんは僕と先輩とで守りながらルームシェアする」
沙都莉・伊吹「はぁー!?」
騎士 「アダム!お前、何馬鹿なこと言ってる!
ルームシェアなんて正気か!?」
向琉 「ああ。正気だ」
伊吹 「(えっ!ニキさんだけでなく冬季也さんとも一緒に住むの!?)」
向琉 「伊吹さん、僕らと一緒に生活すればいい。いいね」
伊吹 「いいねって……」
ニキさんの突拍子もない大胆発言に、沙都ちゃんは驚きの雄叫びを上げ、
ナイトさんは何度も念押しするように、ニキさんに本気なのか聞き直す。
私は面食らってしまってこの話にどう応えていいか、
ニキさんに対してどんな顔でどう反応をしたらいいのか判らずにいた。
一時の沈黙のあと、様子を伺うためにゆっくり顔をあげて彼を見た。
ニキさんは澄んだ眼差しで優しく見つめ、
柔らかい微笑みを浮かべてる。
そこに居る彼は堂々と胸を張り、
困難な戦いを目の前にして覚悟を決めた戦士のように、
私の目には大きく頼もしく映ったのだった。