私は恐怖からくる荒い息遣いで、
心臓の鼓動が異常に早くなっていることに気がつく。
ふらふらと蛇行しながら逃れるも、恐る恐る後ろを確認した。 
小道の曲り角のところまでは、
追いつかれるんじゃないかと思うほどの距離にいた鴻美さんの姿が、
突然消えたのだ。
私は足を止めて目を凝らし、じっと道の切れ間を観察していた。


伊吹「あれ!?はぁはぁはぁ……追って、こない。
  諦めてくれたのかな。
  うまく巻けたのかな。はぁはぁはぁ……」


ちょっと前かがみで安堵の溜息を貰らし、両手で額ににじんだ汗を拭う。
しかしその瞬間、いきなり背後から力強く肩を掴まれて、
ぐっと後ろに引っ張られる。


伊吹「キャッ!!!」


その掴んだ手はニキさんで、彼は思わず叫んだ私の口を塞ぐと、
森の奥にある管理小屋脇の茂みへ引っ張っていく。
その一分後、反対の小道からすごい形相の鴻美さんが、
きょろきょろしながらやってきた。
それはまるで、ホラー映画のジェイソンか、
フレディーのような残忍さを彷彿させる。
ニキさんは私の耳元で静かに囁く。

向琉「し…っ。動いちゃダメだ……」
伊吹「ん……」


ニキさんは私の腕を掴み、もう一方の手では私の口を塞いだまま、
強く抱き抱えるように後ろについて、
彼女の姿を窺いながら私を支えるかのように傍にいる。

鴻美さんは「くそっ!逃げられたわ」と捨て台詞を吐くと、
私が走ってきたタカ・ワシエリアへ向かって速足で歩いていった。
ニキさんは安全を確認すると、
やっと私の口を塞いでいた手を外してくれた。
安堵の表情で微笑むニキさんを見て緊迫感は解けたけれど、
先ほどの恐怖が急に蘇り、全身を小さな震えが襲ってくる。
私は泣きながら思わず彼に縋りついてしまった。


向琉「大丈夫?」
伊吹「怖かった。すごく怖かったよぉ……」
向琉「何もなく無事でよかった」
伊吹「あ、ありがとう、ニキさん。
  来てくれて、本当にありがとう」
向琉「うん。間に合ってよかった。
  でも、まだ安心できないよ。
  今から一緒に動物園を出よう」
伊吹「えっ!?で、でも、ユウさんと姫はどうするの」
向琉「悠大たちには園を出たら電話して事情を話せばいい」
伊吹「そうだけど、それじゃ二人に申し訳ないよ」
向琉「もしかしたらあいつ、
  園の出入口で待ち伏せしてるかもしれない。
  そうなったら、ここから出ることもできなくなる。
  今はここから出ること優先だ。
  後のことは僕に任せて、取り敢えず出よう」
伊吹「う、うん」


私はニキさんがさっき見せた優しい表情から一遍、
険しい表情に変わったのを見て、
ことの重大さを感じ取らずにはいられなかった。
従うことにしてその場から立ち上がえる。
そして彼に引っ張られるように、
鴻美さんが向かった方向とは反対の道を走った。


こもれびの森を抜けた私とニキさんは、
わき目も振らず出口へ向かった。
その時、私を探していたユウさんが、
私とニキさんを見つけ「アダム!伊吹ちゃん!」と叫ぶ。
西園の入口にはきょとんとする姫の姿もあった。
しかし、私とユウさんは呼び止める声には気づかず、
ニキさんに手を引かれて、足早に動物園を後にしたのだった。



ニキさんに言われるがまま、
駐車場に止めてあった彼の車に乗り込む。
早々に車を発進させたニキさんはずっと無言で、
何かを考えるように前を向いて運転していた。
コンソールボックスに置いた携帯のバイブ音が何度も響く。
着信の相手はユウさん。
上野から首都高に乗ると彼は冷静な声でやっと話し出した。


向琉「ここまでくれば大丈夫だな」
伊吹「ね、ねぇ、ニキさん。
  高速に乗ってどこにいくの?
  今から、ユウさんと姫と待ち合わせて食事に行くんでしょ?」
向琉「今日は悠大たちと合流するのは避けたほうがいい」
伊吹「なぜ?二人が心配するし、変な勘違いするわ」
向琉「あの女、今度は姫ちゃんをつけるかもしれない」
伊吹「えっ。それって、どういうこと……
  なんであの人が姫を知ってるの?」
向琉「僕が売店に行ってる間に姫ちゃんに近寄って、
  君がトラエリアに居ることを聞き出したんだよ。
  これで姫ちゃんのことも知られた。
  それに、あの二人が一緒にいるところを見つければ、
  僕たちと会うことも察して尾行するかもしれないからな」
伊吹「い、幾らなんでも、そんなことまでするかしら」
向琉「いろんな可能性を考えて、
  今日は安全の為に敢えて別々のほうがいいんだ。
  どうせ掻い摘んで話せる話じゃないんだし。
  それに……」
伊吹「それに、何?」
向琉「いや。なんでもない」
伊吹「……」


ニキさんの車は、お台場に向けて走り続けたのだ。
そのあいだも携帯は、
何度もブンブンとバイブ音を立てて揺れている。




(東京お台場、某ショッピングモール駐車場)


その頃、動物園を出たユウさんと姫は、
ナイトさんに連絡を取り、彼の自宅に向かっていた。
事情を聴いて心配したナイトさんもニキさんに電話をする。
明らかに何十回と着信の入ったニキさんの携帯。
再び鳴る携帯バイブ音。
彼が電話を取ったのは、
お台場のショッピングモールの駐車場に着いてからだった。



向琉「もしもし。ナイト?」
騎士『アダム。お前、何やってる!
  何度電話したと思ってるんだ』
向琉「すまん。切羽詰った事情があって」
騎士『今、伊吹ちゃんと一緒なのか』
向琉「ああ。一緒に居るけど」
騎士『だったらいいんだが、沙都莉もここで心配してる。
  さっき悠大から連絡あって、
  もうすぐ姫ちゃんとここに来るってさ。
  何故、二人に何も言わずに、
  伊吹ちゃんと動物園を出たのか事情を説明しろよ』
向琉「なんだ。悠大のやつ、もうお前に話したのか。
  それは説明すると長くなるんで、夜お前んちに行って話す」
騎士『僕はそれでもいいが、悠大と姫ちゃんに何と言えばいい』
向琉「……」


ニキさんは少し黙ったまま携帯を握っていたけれど、
冷静な声で答えた。


騎士『アダム、何とか言えよ』
向琉「悠大に……
  伊吹さんを渡したくなかったからだと伝えてくれるか」
騎士『は!?お前、何バカなこと言ってるんだ!
  それがどういう意味か解って言ってるんだろうな』
向琉「解って言ってる。
  とにかく夜詳しく話す。
  厄介なこと頼んで申し訳ない。じゃ……」


傍で電話のやり取りを聞いていた私は、
ニキさんがナイトさんに語った言葉に耳を疑う。
電話をポケットにしまった冷静なニキさんを見つめてると、
その言葉の真意を聞きたくなった。


伊吹「ニキさん、今ナイトさんに言ったこと。
  本心、なの?
  ユウさんにそんなこと言ったら、
  これから貴方たちの仲はどうなると思ってるの」
向琉「伊吹さんはそんな心配しなくていい。
  それは僕が考えることだから。
  それより申し訳ない。
  君と姫さんの仲を壊すかもしれない」
伊吹「そ、それって、ニキさんは私のこと本気で」
向琉「当たり前だろ。
  でなかったらそんなことナイトに言わないし、
  さっきだって君の所へ飛んでも行かない」
伊吹「でもそれは、あの女性のことがあるからでしょ?」
向琉「僕は君に惚れたって言ってるんだ。
  自分の惚れた女性を傷つけたくない。
  何かあったら守りたい。
  それがマジに惚れた相手に対する素直な気持ちだろ」
伊吹「そ、そうだけど」
向琉「それに、君が悠大と歩いてる姿を見て正直妬けてた。
  姫さんには悪いけど、やっぱり君を渡したくないって思った」
伊吹「ニキさん……」
向琉「伊吹さん。
  君はあの女性の恐ろしさを知らないだろ。
  悠大じゃ、あの女から君を守れない。
  それに関係ない姫ちゃんも巻き込むし、
  これ以上被害を被る人間を増やしたくない。
  ここらで、僕が蹴りをつけるつもりだから」
伊吹「ニキさん」
向琉「とにかく申し訳ないけど、
  姫さんともひと波乱あることだけは伊吹さんも覚悟しといて」
伊吹「……」


ニキさんが淡々と語る言葉は、
これから来るであろうユウさんとのバトル。
そして鴻美さんとの長きにわたる戦いに、
終止符を打とうとする覚悟を意味した。
彼のどんな状況でも立ち向かうと決めた力強い本心が、
その真剣な眼差しから窺えた。

(続く)