(伊吹のアパート“ベルメゾン301号室”)


ピンポーン!


玄関チャイムの音とニキさんの声で、
夢から覚めたように我に返る。
私はドアノブを握り「はい」と返事した。
すると「僕。仁木です」というニキさんの声。
私はまた別のドキドキを体感しながらドアを開けた。
とても心配そうな表情で立っている彼に声をかける。


伊吹「ニキさん。
  あ、あの、中へどうぞ。
  お茶入れますから」
向琉「いや、ここでいいよ。
  要件はここで話すから」
伊吹「えっ。なぜ?せっかく来てくれたのに」
向琉「もう遅いし。
  夜遅くに女性ひとりの部屋にお邪魔するのは僕の意に反する」
伊吹「じゃあ、何故来たの?電話だって話せたじゃない」
向琉「心配だったからだよ。
  あの女が来て自転車壊されたって聞けば、尋常じゃない。
  僕らが君を巻き込んだんだ。責任がある」
伊吹「責任なんて、そんな言い方」
向琉「ごめん。僕が間違ってたよ。君を混乱させた。
  伊吹さんは初めから悠大を気に入ってたわけだし」
伊吹「そ、それはまだ決まってたわけじゃ」
向琉「それってお互いの親友を裏切る行為だから良くない。
  それに……」
伊吹「それに、何?」
伊吹「君には守ってくれる人が他にも居そうだから、
  僕の出る幕じゃないしね」
伊吹「え?洋佑(焦)あっ、遠藤さんのこと言ってるの?
  もしかして下で遠藤さんと会ったの!?」
向琉「だけど、それとあの女の件は別物だから。
  あの女がまた来たときは隠さずに僕に連絡して。
  今後もし身の危険を感じることがあったら、警察に通報するんだよ。
  その時は連絡くれる?僕も一緒に警察に行って経緯を説明するから」
伊吹「あ、あの」
向琉「話はそれだけ。僕が帰ったらしっかり戸締りしてね。じゃあ」
伊吹「ニキさん!」


ニキさんは自分の用件だけ伝えると、小さく手を振って階段に向かう。
彼の紳士的な対応に、今までの彼が本当の彼なのか、
それとも目の前の彼が本当の彼なのかと、あまりのギャップに考え込む。
でも今は、このまま帰したくないという気持ちと、
無性に悲しい気持ちと訳の分からないもやもや感が入り乱れる。
どうしても彼の言動に納得がいかない私は、
慌ててサンダルを履くとドアを開けて外に出た。


伊吹「ちょっと待ってよ!」
向琉「ん?何?」
伊吹「本当にあなたっていつも一方的!
  言いたいことだけ言って、こっちのことなんてお構いなしで」
向琉「だから、それはごめん」
伊吹「今更ごめんじゃ済まないわよ!」
向琉「えっ」
伊吹「私に惚れたって言ったじゃない……
  ニキさん、私に惚れたって言ったじゃない。
  そういうことはもっと私のこと知ってから言いなさいよ。
  それに、巻き込んで混乱させたなら、
  謝って去っていくんじゃなくて、
  自分の言ったことを貫きなさいよ!
  それが責任ってもんでしょ!?」
向琉「……」
伊吹「勝手に現れたり逃げたりしないでよ。
  人を喜ばせておいて持ち上げといて、急に落としたりしないでよ!
  しっかり繋いでくれた手なら離したりしないで。
  そんなことするんだったら、
  いっそそっとしておいてくれたほうが、
  私の心は平和だったわよ!!」
向琉「伊吹さん?」
伊吹「そんなに私、強い女じゃないんだから。
  私にだって感情があるんだから……
  私はアンコウじゃないし、
  アンコウみたいにたくさん抱えられるほど強くないわよ。
  あっちもこっちもって、
  ホイホイ行ける女じゃなんだからね!」


泣きながらの訴えに、呆気に取られていたニキさん。
しかし情緒不安定な私を気にかけるように、私の傍に戻ってきた。
そしてポケットからハンカチを出すと、
私の頬を伝う涙を拭ってハンカチを握らせ渡す。


向琉「今度の日曜日の動物園。
  僕は必ず行くから、伊吹さんも来てほしい。
  悠大は僕と違っていい奴だから大切にしてやって」
伊吹「どうして、そんなこと言うの」
向琉「もう中へ入って。
  しっかり戸締まりするんだよ」
伊吹「……」


物静かにそう言うと、ニキさんは私の髪を優しく撫でたあと、
ゆっくり離れ、階段を下りていった。
私はニキさんが渡してくれたハンカチを両手で持ち、
しゃがみ込んで涙の零れ落ちる両目をぐっと押さえた。
仄かに、ニキさんの使ってる香水の香りがハンカチに移っていて、
甘くセクシーで包み込んでくれるような清潔感の漂うその香りは、
私の崩れそうな感情をもっと切なくかき立てたのだった。 




そんな怒涛のような日々が過ぎ、
一夜明けると何も変わらない日常が始まった。
自転車を失ってしまったせいで、いつもより1時間早く出かけ、
泣きはらした腫れぼったい目で「おはよう!」と、
園児たちや同僚に声をかける。
この真っ赤に腫れた瞼は、午後になってもなかなか治まらず、
とうとう歯に衣着せぬ子供たちのターゲットになる。



(幼稚園の園庭)


けんた君「あー!なんだか今日の伊吹先生の目、
    “マリオのプクプク”みたいな目だったな」
リオちゃん「きゃはははっ(笑)ほんとだ。プクプク!」
伊吹  「え?ケンタ君にリオちゃん、どうしたの?」
けんた君「伊吹先生。プクプクと一緒」
リオちゃん「プクプクはマリオに、
    クルクルパンチされたら倒れちゃうんだよ」
伊吹  「はい?プクプクって何?」
だいご君「伊吹先生、知らないの?
    プクプクは真っ赤なフグだよ。
    先生の顔がプクプクそっくりだから」
伊吹  「フグ、ね(苦笑)
    あんこうとかフグとか……私は深海魚か!」
だいご君「先生。
    フグは深海魚じゃなくて浅海魚だよ。
    伊吹先生は先生なのに、そんなことも知らないの?」
伊吹  「うっ。可愛くない……
    (子供のくせになんでそんなこと知ってるの。
    なんだかこの喋りかた、仁木向琉みたい!)」


お蔭で至らないことを考える間もなく、
子供にからかわれながら、責務に追われる毎日を過ごす。
あれからあの女性の姿も見かけることもなく、
帰る時間になると園の外にはいつも洋佑が待っていた。
彼もあのストーカー女性のことが気になってたようで、
私が自転車を買うまでの間は送ってくれることになる。
そんな状態だから、
いつもの荒川の土手で冬季也さんを見かけることもなく、
もちろんニキさんの姿も見ることはない。
一日一日、虚しく時間だけが過ぎる日々が続いたのだ。





そして例のダブルデート約束の日、3月3日日曜日。
今日は晴天でデート日和。
朝から落ち着かない私はクローゼットからあれこれ服を出して、
決まらない服にイライラしながら、ばたばたと着替え化粧をする。
朝ごはんも食べずにバッグとカギをもち出かけた。


現地集合ということだったから遅れるかもと思い、
電車の中からメールを書いて下書き保存していたが、
時間ぎりぎりだったけど間に合った。
動物園の入口を見ると、
いつもと違ってお洒落した姫とニキさんが居て、
パンフレットを見ながら楽しそうに話していた。
そして、その横で私を待ってくれていたユウさんの姿がある。
私が傍に行くと、
ユウさんは笑顔でチケットとパンフレットを渡してくれた。


(都内某動物園表門前)


悠大「動物園なんて何年ぶりだろう。めったにくることないしな」
伊吹「ごめんなさいね。姫のリクエストだったから。
  もう少し大人のデートの方がムードでるのにね」
悠大「いや。久しぶりにこういうのもいいかもしれないよ。
  逆に新鮮だしね」
伊吹「そっか(笑)」
悠大「なんだかさ、
  あの飲み会から一週間しかたってないのに、
  すごく長い時間会ってなかったみたいだな」
伊吹「そうね。電話では話してたのに」
悠大「伊吹ちゃんに逢えて本当に嬉しいよ。
  今日は楽しいデートにしようね」
伊吹「え、ええ」



私とユウさんはペンギンのエリアを見ながら話していたけれど、
視界に入るニキさんと姫のことが気にかかる。
いつも冷静沈着な姫が携帯のカメラで動物を撮りながら、
ニキさんに笑いかけている姿を遠目に見る。
その子供のようにはしゃいでいる姫を、
優しい眼差しで見守りながら、無意識にニキさんへ視線は移る。
姫に対しては「うまくいって良かったなぁ」って素直に思う。
なのにニキさんの姫に対する態度には、
何故かハラハラしたり落ち込んでしまうのだ。
そして時間が経つにつれ、
ユウさんの話にも集中できなくなってる私がそこに居る。
二人が私たちの横にやってくると、
その得体のしれない感情は尚エスカレートしてきた。


姫奈「ねぇ、伊吹」
伊吹「ん。何?」
姫奈「こうやって4人で回ってもゆっくり話ができないでしょ?
  せっかくのデートなんだから、時間と待ち合わせ場所決めて、
  お互い別々で交流を深めない?」
伊吹「えっ……」
姫奈「だって、ユウさんも伊吹とラブラブデートしたいでしょ?」
悠大「まぁ、そうだね。
  じゃあ、2時間後に、
  表門の前のパンダのところで待ち合わせようか。
  それから合流して食事に行けばいいしね」
姫奈「ええ。いいわ。
  いいよね?ニキさん」
向琉「えっ。あ、ああ。それでいいよ」
悠大「伊吹ちゃんもそれでいい?」


明らかに嫉妬し俯き気味な私を直視するニキさんの視線が、
何かを訴えているように見えて切ない。
そして縮まらない距離はジレンマを感じさせ、
ニキさんのことで頭が一杯になり締め付けられるように息苦しい。
しかしそんな複雑な心を直隠して平気な顔でさらりと答えた。


伊吹「うん。いいわよ……」
悠大「よし!
  それじゃ、おふたりさん。楽しんで来いよ」
姫奈「ええ!ユウさんと伊吹もね!」
悠大「ありがとう。
  じゃあ、ニキ後でな。何かあったら電話くれな」
向琉「ああ。後で」


姫はニキさんの左腕にしがみつき、
少し彼を引っ張るように園の西側に向かって歩き出した。
私は、立ち去っていく二人の姿を無言で見送る。
ううん。離れたくない私の心は、
ニキさんの後姿を寂しい気持ちで見つめていた。
パンフレットを見ながら話しかけるユウさんのことなど裏の空で。


悠大「さて。今度はどこを見ようか。
  この奥にライオンとトラエリアがあるから行ってみよう」
伊吹「……」
悠大「伊吹ちゃん、どうした?
  もしかして気分でも悪い?」
伊吹「えっ。い、いいえ(焦)大丈夫です。
  じゃあ、ライオンエリアに行きましょうか」
悠大「うん。バッグ持ってあげるよ」
伊吹「あぁ。ありがとう……」


私のバッグを肩にかけたユウさんは、私の手を繋ぐと歩き出す。
横に並んだユウさんの姿を改めてみてふっと思い浮かんだ。
荒川で並んで歩いて自転車を探しに行ったニキさんのこと。
そうだ……
あの時は私の横にはニキさんが居た。
夕日に照らされたニキさんの姿は何故か頼もしく写ってて、
ほんの瞬間だけこのまま時が止まればいいって思った。


伊吹「(今の私の横にニキさんはいない。
  ふっ。当たり前ね
  駄目。駄目よ、伊吹。
  私のこの感情は姫とユウさんを傷つけるだけでしょ)」
悠大「伊吹さん、大好きだよ。僕の彼女になってほしい」
伊吹「えっ」


揺れ動いている自分をもう一人の冷静な自分が宥める。
そんな心の格闘をしている私の前にゆっくり影が近寄ってきた。
その影はユウさんで、いきなり私にキスをしたのだ。
緑が生い茂る動物園の森で、私の時間は完全に停止したのだった。

(続く)