第二章 雨雫 ④

 翌日から、私は碧の台詞を覚えるのに全ての時間を費やした。学校の宿題を早く終わらせて寝る時間を削り、学校に行っている間も昼休中台本とにらめっこしていた。
「今日も美桜ちゃん、来ないんだね」
「うん、美桜は演劇の練習するって」
「そっか、寂しいけど本番近いもんね。あたし絶対見に行くよ」
 蒼衣のクラスでは陽詩が最近の私の不在を寂しがっていたそうだが、蒼衣が演劇部の一大事のことを話してくれたようで、陽詩も応援してくれている。
 放課後の部活では早速舞台練習に参加した。最初はちゃんと台本を覚えられているか不安で自信がなかったが、実際に舞台に上がってみると自分でも不思議なくらいスルスルと台詞や動作が出てきてびっくりした。舞台下で見ていた部員たちも、短期間で台本を覚えた私のことを褒めてくれた。
「すごいね、美桜。もう台本覚えちゃったなんて。さすが私の親友ね」
「えへへ、ありがとう。多分今までずっと蒼衣と部長の練習を見てきたから自然と覚えてたんだと思う」
「そっか。じゃああとちょっと、頑張ろ!」
「うん!」
 そうやって私たちは互いに助言をしながら本番前の練習に励んだ。そうして一週間…二週間が過ぎて、とうとう文化祭の本番前日となった。
「今日は最後の練習なので、リハーサルをします。リハーサルは本番と同じ緊張感で練習できる最後のチャンスだから、皆気を引き締めて頑張るわよ」
「「はい」」
 副部長の富岡先輩の言葉で皆の表情が一気に真剣なものに変わった。
 そして私と蒼衣が中心となって、リハーサルは進められた。私はいつも通り、蒼衣と息を合わせて演技した。蒼衣はいつも以上に生き生きとした表情で舞台の上を二人の世界に包み込んでいた。
 リハーサルが終わると、今日は本番前日ということでいつもより早く部活を終えることになっていたので、部室に戻ると早々にミーティングが始まった。
「皆リハーサルお疲れさま。いよいよ明日が本番ね。いつも通りでいいから、本番楽しみましょう。特に山里さんと高木さん、二人で思いきり納得のいく演技をして」
 富岡先輩の励ましに私たちは深く頷いた。
「それと、今日実は応援に来てくれた人がいて……」
 富岡先輩はそう言うと部室の扉の方に目を向けた。つられて私たち全員がそこに注目する。
 ガラッと扉が開いて部室の中に入ってきたのは、松葉杖をついた部長だった。
「部長…」
「皆、久しぶり。ずっと練習に来られなくてごめんなさい。こんな大変な時に怪我して本番に出られなくなるなんて…あたしは部長失格ね」
 佐山部長は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。よく見ると部長の肩は震えていて、彼女が今までどれほど怪我のことを後悔して自分を責めてきたのかが見て取れた。
「そ、そんなことないですよ部長。怪我は部長のせいじゃないですし、部長が謝ることはないです」
「そうそう、元気出して」
「…ありがとう、みんな」
部長は部員の皆を一通り見渡すと、器用に松葉杖をつきながら最後に私の前に来て、私の肩に片方の手を置いた。
「富岡から聞いたの。あたしが碧役をやれなくなったから、美桜がやってくれるって。美桜は蒼衣の一番の友達だし、二人なら絶対大丈夫よ。頑張って、明日楽しみにしてるわ」
「佐山先輩…」
 部長の応援の言葉を聞いて、私は胸が熱くなった。
 部長だって本当は、文化祭の舞台に出たかっただろう。だってこの舞台が三年生にとって最後の舞台だから。もしかしたら心の底では私に役を取られて悔しい思いをしているのかもしれない。
 それでも応援してくれた。頑張れと言ってくれた。
 だから私は明日何があっても舞台を成功させる。心に誓う。

 ***
 
その日蒼衣は家に帰ると明日の本番に備えて早く寝るために、お風呂もいつもより早めに入った。お風呂からあがって頭の上の方でくくっていた髪をほどくと、長くしなやかな黒髪からポタポタと水が垂れた。
 美桜と出会った時から一度も切っていない髪は、今では胸の下一〇センチほどまで伸びていて、いつもドライヤーで乾かすのに二〇分もかかる。正直言ってかなり面倒だが蒼衣は自分の髪を気に入っている。それに、美桜が自分の髪を褒めてくれるのでなかなか切る気にもなれなかった。
 今日も早速ドライヤーを手にして電源を入れようとした時、リビングから声が聞こえた。
「蒼衣ちょっとこっちに来てー」
 母の声だ。どうせまたテレビで好きな俳優さんが出てきて、自分を呼んだのだろう。
「はあい」
 蒼衣はいったんドライヤーを置いて、リビングに出た。
 蒼衣はてっきり母がテレビの前で眼を光らせて、父はふてくされているのだろうと思っていたが、実際は母と父が深刻そうな顔をして向かい合わせでテーブルに座っていた。
 蒼衣は今から何が行われるのだろうと訝し気に両親をちらちら見ていたが、どちらも蒼衣とは目を合わせようとせず父の方が、
「蒼衣も座りなさい」
 と言ったので大人しく母の隣に座った。この家ではここが蒼衣の定位置なのだ。
「あのね蒼衣。お母さんたち、蒼衣に話したいことがあって…」
 そう切り出して始まった両親の話を聞いた蒼衣は呆然としていた。
「そんな…」
「ごめんな蒼衣。でも分かってくれ」
「お父さん…」
 蒼衣はテーブルの下でぎゅっと握りしめた自分の手をじっと見つめた。それから二人の顔を交互に見比べて、溜息をついた。二人とも申し訳なさそうに顔を伏せていた。
 自分に対して引け目を感じているような様子の両親を見て、蒼衣は決心した。
「分かったよ。私ずっとついていくから」

 ***

「んー」
 朝日が眩しくて目を覚ました私は一番に部屋のカーテンと窓を開けて、外の空気を吸った。
「ふうぅぅ、はあぁ。…よし!」
 深く息を吸って新鮮な空気が自分の肺をいっぱいに満たしていくのを感じてから、私は学校に行く準備を始めた。リビングに行くと母が私の大好きなフレンチトーストをつくってくれていて、飛びつくようにして食べる私を見ると、母は「まあまあ」と相変わらずのんびりした口調で言っていた。
 朝ごはんよし。
前髪よし。
 寝ぐせなし。
 忘れ物なし。
 よし、これで準備万端。
「行ってきまーす!」
「いってらっしゃい、演劇頑張るのよ~」
 家を出た瞬間、私は駆け出していたので母の「いってらっしゃい」は随分遠く聞こえた。
 学校に着くと、文化祭ということで皆どこか浮き足立っているのが分かった。私はまず自分の教室に向かった。一応うちのクラスも喫茶店をやるので教室は綺麗に飾り付けられていた。私はクラスの友達にシフトに入れないことを詫びてから隣の二組を覗きに行く。教室を出る時、七瀬いつきが私を睨んだような気がしたが、今は気にしてられない。
「蒼衣、陽詩、おはよう」
 私はそう言って二組の教室を見回す。二組はお化け屋敷をするそうで、教室には暗幕が張られていて結構不気味だ。
「おはよう、美桜ちゃん」
 出てきたのは陽詩の方で、蒼衣の姿は見当たらなかった。
「おはよう。蒼衣いる?」
「蒼衣ちゃんなら三〇分くらい前に演劇部の方に行ったよ。美桜ちゃんも行くよね?」
 さすが、蒼衣は気合の入り方が違う。私も負けてられない。
「うん、今から行く」
「そっか、今日は頑張ってね。一番前の席で見るから!」
「ありがとう、頑張る。じゃまたあとでね」
 陽詩の応援の言葉にさらに背中を押してもらい、私は部室に向かう。本番は一二時半から。それまでは自由時間だけど、ほとんどの部員は最後の練習をしたり、打ち合わせをしたりする。
 私が部室に到着すると、部員がそれぞれ集まって話をしている中、蒼衣は衣装合わせをしていた。
「おはよう蒼衣」
 私が蒼衣に近寄って手を振ると、蒼衣も私に気づいて手を振り返してくれた。
「…美桜、おはよう」
 心なしか少し元気がないような気もしたが、蒼衣はすぐにぱっと明るい表情になって「美桜も衣装着ようよ!」と言ったので、私はほっとして頷いた。
 衣装と言っても、それほど煌びやかなものではなく、私は深い緑色のワンピースで蒼衣はワインレッドのワンピース。衣装をどうするかという話し合いの時に、富岡先輩が、
「それぞれの名前に合わせてみるのはどう?朱音は赤で、碧は緑」
 と言ったので、それぞれの色のお揃いワンピースになったのだ。なんだかダジャレみたいだけど、お客さんは気がつくだろうか。
 衣装合わせをし終えると私たちはいったん衣装を脱いで制服に着替えた。
「ずっと着ていたら緊張しちゃうじゃない」
 というのが蒼衣の言い分だった。
 それから本番前まで、文化祭を満喫するという選択肢もあったが、私は初めての役者だから不安で落ち着かず、結局ずっと部室で台本をめくり続けていた。
 本番一時間前、台本を凝視している私の横に蒼衣が来て、私におにぎりを差し出した。
「はい、これ。お昼食べないと本番倒れちゃうよ」
「あ、ありがとう蒼衣」
 蒼衣は役者に慣れているので、私とは違って随分落ち着いている。一時間前から緊張しまくりの私を見た彼女はふふっといつものように笑っておにぎりをぱくっと齧った。
「あ、このおにぎり美味しい。さっきね、お惣菜売ってるクラスがあったから買ってきたの。美桜も食べてみて」
「う、うん。……ほんとだ、美味しいね」
 おにぎりの具は私の大好きなエビマヨだった。蒼衣は私のことならなんでも知っている。
「私ね、美桜が演劇部に入ってくれて嬉しかった。小学校の時、私のせいで美桜もハブられちゃって、本当は胸が痛かったの。私は中学で部活の仲間ができて前より楽しい生活が送れるようになったから、美桜にも仲間をつくってあげたかった。だから、今は美桜も同じ輪の中に入ってくれてとっても嬉しい」
「蒼衣……」
 私は二人だけで生きていくのでも良かった。蒼衣以外の誰に何と言われたって、蒼衣がいてくれれば十分楽しかった。
 でも、蒼衣が陽詩を紹介してくれて、友達が増えることが楽しみに繋がることを知った。蒼衣は、そんな楽しさを私にもっと分かってもらえるように、細谷先生を通じて私を
劇部に入れようとしたのだ。多分蒼衣は私がどんなに大丈夫と言っても、私が周囲から冷たい眼で見られることにかなり責任を感じていたのだ。
「私も…入って良かったよ、演劇部。細谷先生に感謝しなくちゃね」
 そう言って私は蒼衣の目を見て笑う。
 蒼衣が隣で話しかけてくれることで私の緊張もほぐれた。それから私たちは時間まで二人の掛け合いの場面を練習した。そうこうしているうちにいつの間にか本番一〇分前になり、皆がスタンバイの位置につく。
 体育館の舞台袖で始まるのを待っていると、ガヤガヤとした話し声でたくさんの観客が体育館に来てくれたことが分かった。本番が一分近付くごとに私の緊張が高まる中、蒼衣はずっと私の手を握ってくれていた。
 そして、幕が上がった。
 私と蒼衣はお互いの目を見つめて頑張ろう、と心の中で励ましてから舞台に飛び出したのだった。