第二章 雨雫 ③
その日の帰り、すっかり暗くなった家路を蒼衣と二人並んで歩いていた。そういえば最近、蒼衣は部活が終わってからも残って練習することが多かったので、久しぶりに一緒だな、と思った。
私たちはしばらく何も言わないまま足を動かしていた。私がちらっと横を見ると、蒼衣の通学鞄にいつかの白いウサギのストラップがぶら下がっていた。
「あ、そのウサギ」
私がウサギに気づいて立ち止まると、蒼衣は「ああ、これ」というようにふふっと笑った。
「小学校卒業してから、ランドセルにつけっぱなしだったの忘れてて、昨日思い出したの。懐かしいでしょう」
蒼衣がいつになく子供らしい表情でそう言ったので、私はおかしくてつい笑ってしまった。それから自分の鞄の中から筆箱を取り出して蒼衣に見せた。それにはもちろん、ピンクのウサギがぶら下がっている。
「美桜もちゃんと付けてくれてたのね」
「当たり前だよ。だってこれ、私の宝物なんだ」
「そっか、嬉しい」
「嬉しい」の一言でも、どんなに短い会話でも、私たちにはお互いの考えていることが簡単に分かる。私も蒼衣も、少なくともそれくらいには友情を深めてきたはずだ。
そして案の定、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
「ねえ美桜」
笑っていた蒼衣が私にそう呼びかけた時、私たちは青鳥川の橋の真ん中にいた。普段は橋の手前で別れるのに、今日は話をしている間にどうやらここまで来てしまったらしい。
「なに?」
蒼衣が立ち止まって橋の欄干に肘をのせたので、私も自ずと蒼衣の隣で欄干に手を添えた。
蒼衣は私を見るのではなく、すっかり日が落ちて暗くなった遠くの空を眺めている。だから私もどこともなく、ぼんやりと前方の景色を見ていた。
「碧役に推したの、怒ってる?」
ああ、なるほど。
蒼衣はそのことを気にして、わざわざここで立ち止まったのか。
「怒ってないよ。…ただ、ちょっと不安で。あと二週間で本当に私が演技できるようになるのかなって……」
私の「怒ってない」に、隣で蒼衣がほっとしたように胸を撫で下ろしたのが分かった。でもその後私が不安だと言ったので、彼女は申し訳なさそうに「そうだよね」と呟いた。
「私、美桜が不安になるの分かってて碧役に推したの…ごめんね。さっきは美桜が書いた脚本だから大丈夫だって言ったけど……本当はもっと特別な理由があるの」
「特別な理由?」
そんなものがあるのだろうか。私は今まで一度も演技なんてしたことはない。小学校の演劇発表会の時だって、舞台には上がらずバックミュージックでリコーダーを吹いたこと
しかない。
そんな私が碧役をする特別な理由なんて……。
「うん。だって、美桜は私の一番の友達だもの。私が朱音をするなら、美桜が碧をする。はっきり言って美桜以外の誰かなら、私だってあと二週間で息を合わせて演技できるようにしなきゃいけないんだから、とっても不安だよ。だから私にとっても、今から碧役をできるのは美桜しかいないの。美桜なら、私の親友ならきっと碧役を上手くできるわ。美桜が私の親友だっていうのが特別な理由よ」
「蒼衣…」
私は今まで、私の書いた脚本で蒼衣が主役を上手くこなしてくれることを信じて練習にも付き合っていた。蒼衣なら、きっと観客が息をのむような演技をしてくれると期待して。
だけど、蒼衣だって私を見込んで私を碧役に推してくれた。蒼衣もきっと私のことを一番の友達として信頼してくれていたから。そう思うと、嬉しさで胸がいっぱいになって涙が込み上げてくる。私は反射的に上を向いて涙が零れないように努めた。
そしてずずっと鼻水をすすると、私は蒼衣の方に向き直った。同時に、蒼衣も私を見つめた。
「一緒に頑張りましょう、美桜」
「うん…ありがとう蒼衣」
私たちは互いに手を取り合って笑った。
私は蒼衣を信じ、蒼衣は私を信じる。
いつの間にか私たちの間にはそんな信頼関係が築かれていた。
蒼衣の鞄にぶら下がる白いウサギが、私たちを見て微笑んでいるように見えた。
その日の帰り、すっかり暗くなった家路を蒼衣と二人並んで歩いていた。そういえば最近、蒼衣は部活が終わってからも残って練習することが多かったので、久しぶりに一緒だな、と思った。
私たちはしばらく何も言わないまま足を動かしていた。私がちらっと横を見ると、蒼衣の通学鞄にいつかの白いウサギのストラップがぶら下がっていた。
「あ、そのウサギ」
私がウサギに気づいて立ち止まると、蒼衣は「ああ、これ」というようにふふっと笑った。
「小学校卒業してから、ランドセルにつけっぱなしだったの忘れてて、昨日思い出したの。懐かしいでしょう」
蒼衣がいつになく子供らしい表情でそう言ったので、私はおかしくてつい笑ってしまった。それから自分の鞄の中から筆箱を取り出して蒼衣に見せた。それにはもちろん、ピンクのウサギがぶら下がっている。
「美桜もちゃんと付けてくれてたのね」
「当たり前だよ。だってこれ、私の宝物なんだ」
「そっか、嬉しい」
「嬉しい」の一言でも、どんなに短い会話でも、私たちにはお互いの考えていることが簡単に分かる。私も蒼衣も、少なくともそれくらいには友情を深めてきたはずだ。
そして案の定、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
「ねえ美桜」
笑っていた蒼衣が私にそう呼びかけた時、私たちは青鳥川の橋の真ん中にいた。普段は橋の手前で別れるのに、今日は話をしている間にどうやらここまで来てしまったらしい。
「なに?」
蒼衣が立ち止まって橋の欄干に肘をのせたので、私も自ずと蒼衣の隣で欄干に手を添えた。
蒼衣は私を見るのではなく、すっかり日が落ちて暗くなった遠くの空を眺めている。だから私もどこともなく、ぼんやりと前方の景色を見ていた。
「碧役に推したの、怒ってる?」
ああ、なるほど。
蒼衣はそのことを気にして、わざわざここで立ち止まったのか。
「怒ってないよ。…ただ、ちょっと不安で。あと二週間で本当に私が演技できるようになるのかなって……」
私の「怒ってない」に、隣で蒼衣がほっとしたように胸を撫で下ろしたのが分かった。でもその後私が不安だと言ったので、彼女は申し訳なさそうに「そうだよね」と呟いた。
「私、美桜が不安になるの分かってて碧役に推したの…ごめんね。さっきは美桜が書いた脚本だから大丈夫だって言ったけど……本当はもっと特別な理由があるの」
「特別な理由?」
そんなものがあるのだろうか。私は今まで一度も演技なんてしたことはない。小学校の演劇発表会の時だって、舞台には上がらずバックミュージックでリコーダーを吹いたこと
しかない。
そんな私が碧役をする特別な理由なんて……。
「うん。だって、美桜は私の一番の友達だもの。私が朱音をするなら、美桜が碧をする。はっきり言って美桜以外の誰かなら、私だってあと二週間で息を合わせて演技できるようにしなきゃいけないんだから、とっても不安だよ。だから私にとっても、今から碧役をできるのは美桜しかいないの。美桜なら、私の親友ならきっと碧役を上手くできるわ。美桜が私の親友だっていうのが特別な理由よ」
「蒼衣…」
私は今まで、私の書いた脚本で蒼衣が主役を上手くこなしてくれることを信じて練習にも付き合っていた。蒼衣なら、きっと観客が息をのむような演技をしてくれると期待して。
だけど、蒼衣だって私を見込んで私を碧役に推してくれた。蒼衣もきっと私のことを一番の友達として信頼してくれていたから。そう思うと、嬉しさで胸がいっぱいになって涙が込み上げてくる。私は反射的に上を向いて涙が零れないように努めた。
そしてずずっと鼻水をすすると、私は蒼衣の方に向き直った。同時に、蒼衣も私を見つめた。
「一緒に頑張りましょう、美桜」
「うん…ありがとう蒼衣」
私たちは互いに手を取り合って笑った。
私は蒼衣を信じ、蒼衣は私を信じる。
いつの間にか私たちの間にはそんな信頼関係が築かれていた。
蒼衣の鞄にぶら下がる白いウサギが、私たちを見て微笑んでいるように見えた。