第四章 寂寞 ⑬

「美桜、私合格したわ!」
 卒業式から五日後、私は携帯電話を握りしめた手を震わせてそんな親友の歓喜の声を聞いた。
「ほんと⁉おめでとう蒼衣!」
「うん、ありがとう美桜。美桜はどうだった?」
「待ってね、今探してるとこ…」
 そう、私はたった今第一志望のA県の美大で人ごみにのまれながら必死に掲示板に張り出された番号を目で追っていた。そんな私の周りでは合格して喜びに満ちた声を発する人や、不合格ですすり泣く人がごちゃごちゃになっていて。できることなら早くこの場から逃げ出したい気持ちに駆られながらも、私は掲示板とにらめっこしていた。
「百一一、百一五、百一六、……百二〇、あ、あった…!」
 私は掲示板にしっかりと記された「百二〇」という数字と、受験票に書かれた数字を照らし合わせて、心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「あった、番号あったよ蒼衣‼私、合格だ!」
 感極まって携帯越しに私の結果を待っていた彼女にすぐに報告した。
「おめでとう美桜。本当に本当におめでとう……!」
 電話の向こうで蒼衣が嬉し涙を流している様子がありありと伝わって来て、私も気が付くと涙が止まらなかった。
「うぅっ…ありがとう蒼衣…私、頑張って良かった」
 夢を見つけるまで、自分が何のために勉強しているのか分からなかったけれど。両親に希望を打ち明けて反対された時、目の前が真っ暗になって逃げ出したくもなったけれど。
 彼女が私に道を示してくれたおかげで、私は最後まで頑張ることができた。
 ありがとう、蒼衣。
 何度でも言うよ。私の手を引いてくれて、本当にありがとう。

 家に帰って結果を両親に報告すると、二人ともとても喜んでくれた。母は泣きながら私の頭を撫で、父は相変わらず不愛想だったが一言「良かったな」と言ってくれた。私は二人に塾代を出してくれたことを感謝しながら、照れ臭かったが「ありがとう」と言った。
 そしてA県に行く前日、私は最後に思い出の場所を見て回ろうと一人で家を出た。雲雀駅まで歩いて、いつものように電車に乗る。浜辺駅で下車した私が改札を抜けた、その時だった。
「美桜ちゃん!」
 懐かしい声がして私は振り返る。
「ひ、陽詩…!」
 そこに立っていたのは自然な茶髪がふわりとしたオーラを漂わせる、私のもう一人の親友、西野陽詩だった。
「久しぶりだね、美桜ちゃん」
「ほんと、すっごい久しぶり」
 そらから私たちは二人でゆっくり話したいと思い、最寄りの浜辺第一公園に移動した。
「三年になって全然会えなくなったから、どうしてたか気になってたんだ。会えて嬉しい」
「そうだね。私も陽詩のこと時々思い出してたよ。陽詩は進学先決まった?」
「うん、おかげさまで第一志望に合格しました」
「そっか、よかった。おめでとう」
「ありがとう。美桜ちゃんは?」
「私はA県の美大に行くことになったんだ。実は明日この町を出ようと思ってるの」
「え、美桜ちゃん美大に行くの?」
「うん。色々あって絵を学びたいなって思ってね。受験は大変だったけどなんとか合格してほっとしたよ」
「そっかぁ…。じゃあ、もうあんまり会えなくなるんだね……」
 陽詩は少し寂しそうに空を見上げた。そうだ、明日ここを発つということは皆とお別れするということ。そんなこととっくに分かってはいたが、いざ目の前で寂しそうな顔をされると私は胸をきゅっと掴まれたような気がした。
「会えなくなる…けど、会えなくても私は陽詩と友達でいたい」
 気が付けば素直な気持ちが口から漏れて、私は少し恥ずかしくなってはっと口をつぐんだ。
「そんなの、当たり前じゃん。あたしは今も昔もこれからも、美桜ちゃんの友達だよ。だから遠くに行っても元気で頑張って」
「ありがとう、私頑張るよ。陽詩も大学生活楽しんでね」
 私たちはそこで手を振って別れた。陽詩とは次いつ会えるか分からないけれど、でも次合った時は笑顔であいさつしようと心に誓った。
「さて、次は…」
 どこに行こう、と考えながら選択肢は一つしかないなと、私は浜辺高校に向かって歩き出した。
 卒業式の日に最後に来てから二週間が経過したが、浜辺高校は二週間前から何も変わっていない。そりゃそうだ。二週間で何かが変わる方がおかしい。
 でも…校舎の中に足を踏み入れた私はどこか違和感を覚える。違和感というか、何だろう。このどこかよそよそしい感じは。廊下からふとグラウンドを見ると春休みにもかかわらず野球部やサッカー部の生徒が練習に励んでいた。
 ここは自分の母校なのに、私を包む空気が私を疎外しているような…そんな寂しい気分に襲われながらも私はある教室の前でふと足を止めた。その教室の中に人影があったからだ。そこは私が一年生の時に過ごした一年三組の教室だった。
「失礼します…」
 恐る恐る、といった感じで私が教室の扉を開けると、中にいたのは意外な人物だった。
「え」
 私が驚いて声を上げたので窓際で外を見ていたその人は私に気づいて振り返った。
「……高木」
 凛とした声で私の名を呼んだのは、私のかつての恋人、矢野だった。
 明日この町から離れようという私にとって何の因果だろうか。確かに彼には多少未練もあるが、最近は彼のことさえほとんど忘れていたというのに。
「どうして、ここに…」
 戸惑いを隠せない私はしどろもどろになりながら彼に訊いた。
「いや、別に特に用はないんどけどさ…。何となくもう一度学校に来てみたくなったんだ」
 彼も少し気まずそうにそう答えた。
「そっか…私も、そんな感じ」
 私は彼と何か話すべきか悩んでだが、今度は彼の方から質問してきた。
「高木、大学はどうなった?」
「あ、えっと…A県の美大に。だから明日A県に引っ越すんだ」
 そう言うと彼は驚いて目を丸くした。それから自然と優しい表情になって言う。
「そうか、おめでとう。夢が見つかったんだな」
「う、うん。ありがとう…」
 そういえば一年生の時、彼に進路のことで相談をしたのを思い出す。あの時の私は何をするにも矢野といられれば幸せで、その先の運命も知らず楽しんでいたな。でもそれも、今となってはいい思い出だ。
「矢野は…大学合格した?」
「いや、俺は不合格だった。だからあと一年頑張ろうと思う」
「そうなんだ。大変だと思うけど、私応援してるよ」
 そんなありきたりな言葉を交わしてから、私は「じゃあ、そろそろ行くね」と言って矢野に背を向けた。けれどその時、
「た、高木!」
 矢野が今まで聞いたことのないような大きな声で私を呼んだ。
 私はその声にびくっとして立ち止まったが、あえて振り返りはしなかった。
「どうしたの」
「俺、高木に酷いことしたのに謝ってなくて、ずっと言いたかったんだ。あの時は本当にごめん!高木のことは本気で好きだった。でも、その、魔が差したっていうか…。とにかく俺が悪かった。本当に申し訳ない。だからどうか…これからたくさん幸せになってほしい」
 彼の言葉を聞いた時、私の心の中で何かが動いた。
 確かに彼に辛い思いをさせられたけれど、でも今この瞬間私に向けられた彼の言葉は、きっと本物だ。
「俺は、お前に会えて本当に良かった」
 さーっと、開いた窓から心地よい春風が教室の中に吹き込み、私の背後でカーテンが風邪に揺られているのが分かった。そして、気が付くと私の頬に一筋の涙が零れていた。
「私も…矢野に会えて幸せだったよ。ありがとう」
 彼は私の言葉を聞いて、どう思っただろうか。
 どんなふうに思ってくれてもいい。でも背後で私の背中を目にしている彼が、笑ってくれてるといい。