第四章 寂寞 ⑪

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 美桜が家を出て行ったあと、私はさっきから黙ってご飯を口に運んでいる彼を見た。娘が家を出て行ったというのに、そのことには何の関心もなさそうな彼のことを、薄情だと思ってしまう自分がいた。
「あなた…美桜のことどうするの?」
 私が恐る恐る彼に訊くと、彼は食事を邪魔されたのが癪に障ったかのように怖い顔をしてゆっくりと箸を置いた。それから一言、
「何もしなくていい」
 とだけ言った。私はその言葉を聞いて、自分の中で張り詰めていた糸がプッツリ切れてしまったかのように、何か大事なものが壊れてしまうのを感じて叫んだ。
「あなたがいつもそんなだからっ‼美桜のこと、ちゃんと考えてあげてるの⁉あの子の気持ち、分かって言っているの。そりゃ確かに、美大に行くのは大変なことよ。でも、あの子だって自分なりに色々考えて決めたはずよ。それなのにあなたは、あの子の意見を何一つ聞いてあげないじゃないの!」
 ずっと堪えていたものが、私の中からどっと溢れ出す。目の前で私の主張を黙って聞いていた彼はいつになく厳しい表情で私を睨んで言った。
「お前だって、さっきは美桜の味方してなかったじゃないか。本当は美大なんて反対なんだろう。美桜の気持ちを聞いてあげなかったのはお前も同じだ」
 彼の容赦ない言葉が、私の胸に突き刺さる。
「そう…かもしれないけれどっ、でもさっきは突然のことで動揺してしまっただけよ…!私はあなたとは違う。いつも何にも言わずに仕事だけしてるあなたとは違う。美桜のことちゃんと考えてあげられるわっ」
「…勝手にしろ」
 彼が吐き捨てるようにそう言った。私はとうとう我慢できなくなって、さっきの美桜のように家を飛び出した。
 美桜を探してちゃんと話し合わなくちゃいけない。今美桜の味方をしてあげられるのは私しかいないのだから。

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 夜の公園というのは、想像以上に物寂しい。きっとそれは子供たちのにぎやかな声に包まれている昼間とのギャップがそう感じさせているのだろう。
「寒い……」
 冬を越したとはいえ、まだまだ夜に外にいるには寒い時期だ。私はブルッと体を震わせて縮こまった。こういう時、誰かと一緒にコンビニであったかい肉まんを食べられたら体も温まるんだろうな…と思いながら私は目を閉じた。
 こうしていれば、物寂しい公園で一人っきりで震えていることも分からなくなる。目を閉じれば否応なく自分だけの世界に行ってしまうのだから。
 どれほどの時間、そうしていただろう。何もない、暗闇の中で考えることもしなかった私はもはや時間の感覚すらなくなっていて、聞き慣れた声がして目を開けるまで、自分がどこにいるのかさえ忘れていた。
「美桜…!」
「…蒼衣?」
 目を開けてもなお暗闇だったその場所に立っていたのは、紛れもない親友の姿だった。私は一瞬、自分が夢でも見ているのではないかと思い、思わず何度も目を瞬かせた。
「どうして」
「美桜のお母さんから電話がかかってきたの。家の電話で、たまたま私が出たらおばさん、すっごい息切らして言うの。『美桜を探してください』って。多分おばさん、美桜のこと探し回っていっぱい走ったんでしょうね。それでも見つからないから私なら居場所が分かるかもしれないと思ったのかな。本当に、心配そうだったわ」
「そう、だったんだ……」
 さっき家で私が父とぶつかった時、母は私を庇ってくれなかった。だから母も、きっと私の夢に反対しているのだと思い込んでいたが、本当は違ったのかもしれない。
「蒼衣はどうして、私がここにいるって分かったの?」
「だって美桜、この場所が好きでしょう。それに、私は美桜の親友なんだから何でも知ってるのよ。美桜は辛い時、多分ここに来ると思ってた」
 蒼衣は私から一のことを聞いただけで、私の一〇を知ってしまう。だからきっと、私はずっと蒼衣には敵わないだろうと思う。
「さ、帰りましょう。美桜のお母さん、きっと気が気でない状態だわ。何があったか知らないけれど、今帰らなかったらきっと後悔するよ」
「嫌……今私が帰っても、何も変わらないよ。少なくともお父さんは」
 絶対頷かない。私の気持ちを聞いてないかくれない。あんなに頑なに否定されて、もう私には彼を説得する気力も自信もない。
「私、帰らない。ずっとここにいる。お父さんが私を認めてくれるまでここにいる。私、何か悪いこと言った?何も悪くないじゃん。ただ夢を見つけて、それを口にしただけなの」
「ええ、美桜が言いたいことは分かるわ。でも、美桜までそんな頑な態度をとってばかりで、お父さんに美桜の気持ちが伝わるわけない」
「蒼衣はっ…何とでも言えるじゃん。当事者じゃないんだから!いいよね…蒼衣のお父さんもお母さんも優しくて、蒼衣のお願いも何でも聞いてくれるんでしょう…。でも、私は違う。私の家族はそんなに優しくないもの」
 分かっていた。蒼衣は何も悪くない。むしろ私を探しに来てくれた心優しい親友で、私は彼女に感謝しなければならない。でもだからこそ、親友だからこそ、自分の夢を応援してくれる両親を持つ彼女が憎かった。
 でも彼女に八つ当たりしてしまった時、私は彼女の表情が悲し気に歪むのを見てしまった。そういえば蒼衣の家庭は複雑な事情を抱えていて…それで彼女は小学生の時いじめられもしていた。その事実を思い出した途端、私はしまった、と思った。蒼衣を傷つけてしまったと本気で思った。
「あ…ご、ごめんね…」
 上ずった声で咄嗟に謝罪の言葉を口にした私に向かって、彼女は全く予想外なことを言ったのだ。
「ばかじゃないの」
「え」
「私、美桜はもっと賢い人だと思ってたわ。優しいとか優しくないとか、そういうの、大事なの?優しければ認めてくれる?そんなわけないじゃない。伝えたいことがあるなら、ちゃんと自分の口で伝えなさいよ。そんなこともせずにただ認めてくれるのを待ってるだけなんて、そんなのおかしいと思う」
 いつもとは違う、厳しい口調の蒼衣は、私が知ってる彼女ではなかった。でも…それでも、私のことを必死に考えてくれていることだけは真っ直ぐに伝わってきた。
 そうか、これが「伝える」ってことなんだな――。
「美桜が、教えてくれたんじゃない。あの時、私がいじめられて一人ぼっちで公園にいた時、ちゃんと口にすれば気持ちが伝わるってことを教えてくれたのは美桜なのよ」

 ――ほんとは…ほんとはずっと、誰かに助けてほしかった。

「あの時私、ちゃんと自分の心の中にある気持ち、あなたに伝えられて良かった。だってあの言葉があったからこそ、私は今でもこうして美桜と友達でいられるんだもの」
「蒼衣…」
 彼女は今度はとても優しい口調で、温かい言葉を私にくれた。
 その言葉が、私の胸に深く深く突き刺さる。
「そう、だよね……。私、自分でちゃんと分かってたんだ。何かを伝えるには、はっきり言葉にしなくちゃいけない。そんなことさえせずに認めてもらおうなんて、私が愚か者だった。私、家に帰るね。帰って二人に私の本当の気持ち言うね。ただやりたいとか、夢だとか、そんなことじゃなくて、二人に言いたいことをちゃんと伝えるね」
「うん、それでこそ本当の美桜よ。私と一緒に戻ろう」