第四章 寂寞 ⑩

 こうしてA県の美大に行くことを決めた私は学校の先生に相談し、絵画専門の塾に通うことを勧められた。
 そして、高三の春。
 朝目を覚まして部屋の窓を開けると、例によって桜の木が切られていた。
「なんで…」
 その事実があまりに受け入れがたく、私はごしごしと自分の目を擦ってみたが、やはり状況は変わらない。急いで母に教えても、母は「大変ねぇ」とさして大変でもなさそうに穏やかに言うだけだった。
 新学期早々悪い予感を抱えて、私は学校へ向かった。
「おはよう、美桜」
「高ちゃんおはよ!」
 学校に着くと昇降口で蒼衣や彼方と会った。
「おはよう、蒼衣、彼方」
 今日はクラス替えの日なので、私たちは三人で新クラスの名簿が張ってある掲示板を見に行く約束をしていた。掲示板は、一階の職員室のすぐ横にあった。
「あー、あたしだけクラス違うじゃん!」
 先に三人の名前を発見した彼方が悲痛な声を上げた。見ると、確かに私と蒼衣が二組で、彼方が三組になっていた。
「カナちゃん、残念だね…」
 蒼衣もしゅんとして落ち込んでいた。
「やっぱり桜が……」
「え、なに高ちゃん、桜がどうしたの?」
「あ、いや、何でもない!はは…」
 いけないいけない。何でも桜のせいにしちゃだめだ。
「そろそろ始まるし、行こっか」
 私と蒼衣は二組の、彼方は三組の教室にそれぞれ向かった。と言っても、隣のクラスなので、そんなに離れるわけでもなかった。
「彼方と離れたのは寂しいけど…これからもよろしくね、蒼衣」
「私の方こそ」
 私と蒼衣はいつかの日のように顔を見合わせてふふっと笑った。
 高校生活残り一年。ようやく将来やりたいことも決まったことだし、後悔しないように精一杯頑張ろう。まずは今日、家に帰ったら両親に美大のことを打ち明けようと思う。

「私、やりたいこと見つけたんだ」
 その日の晩、いつものように両親と私で囲う食卓。私は開口一番、ずっと言おうと思っていたことを打ち明けた。
「あら、美桜もやっと夢が見つかったのね」
 普段から私のことを応援してくれていた母は、次に私が言うことを心待ちにしているように期待のまなざしで私を見つめた。
「……」
 父は相変わらず黙ってご飯を口に運んでいたが、私はそんな父に構わず続けた。
「私ね、絵を描くのが好きだって最近気づいて…それで、美大に行こうと思うの。県外になっちゃうけど…でも、私本気で頑張りたい」
 私は精一杯、思いのたけを口にした。両親に自分の本音を告げるのは少々照れ臭かったが、きっと二人とも自分の夢を応援してくれると思うと自然と言葉が出ていた。
 しかし、両親の反応は私の予想とは全然違っていた。
 私は先程まで微笑みながら私を見ていた母の表情が、みるみる強張ってゆくのを見た。
 それから、父は動かしていた箸を静かに茶碗の上に置いて、たった一言、
「だめだ」
 と言った。
 私は一瞬、二人の反応が信じられなかった。
 母はいつも私の味方で、一度だって私を怒鳴ったことがない。
 父は寡黙ではあるけれど、きっと心の中では私たち家族のことを一番に考えてくれていると思っていたからだ。
 そんな二人が、はっきり見てわかるほど、私の夢に反対している。
「ど、どうして…?」
「どうしても、だ。美大なんて、行くまでも行ってからもお金がかかる。それに、そんなところへ行ったって将来役に立つ仕事に就けないじゃないか。芸術家の道がどんなに不安定か、お前は知らんだろう」
「そ、そんなことないよ…!私は別に、画家になりたいって言ってるわけでもないじゃない。ただ絵が好きで…」
「そんな中途半端な気持ちなら、なおさらよくない。お前には県内の大学に行ってもらうからな」
「……」
 私は断固として私の希望を受け入れない父を見て、食事の席にいることも忘れて茫然とした。わずかな期待を込めて母の方を見ても、母はずっと下を向いて、いつものように優しい表情で私を見てはくれなかった。
 ああ、そうか。
 あの桜は、私にとって、私たち家族にとって、大事な絆の証だったんだ。
 だからその絆が切られてしまった今、私たちを繋ぐものはもう何も残っていないんだ。
「分かった…聞いてくれないなら、こんな家出て行くから」
 徐に立ち上がった私は、淡々とした声でそう言って黙って玄関に向かい、靴を履いて外に出た。
「み、美桜…」
 玄関の扉を閉めた後で、母が蚊の鳴くような声で私の名を呟くのが聞こえた。
 私は少し良心が痛んだが、歩き出して家から少し遠ざかっても、父と母は私を追いかけては来なかった。だから私も、一歩一歩踏み出して行くあてもなく前に進んだ。歩いているうちに青鳥川の橋まで辿り着いたが、橋を渡らずにそのまま直進する。渡ればきっと、無意識のうちに親友のもとに行ってしまうと思ったから。今彼女に会ってしまえば、私は彼女に弱音を吐いてしまうだろう。そうしたらまた彼女に迷惑をかけてしまう。今までだって、彼女には何度も助けてもらったのだから。
 何も考えずに歩き続けた私は、気が付くと隣町の雲雀駅まで来ていた。多分心の中で、無意識に自分の家からできるだけ遠ざかりたいと思っていたのだと思う。
 私はやって来た電車に乗り込んで、浜辺駅で下車した。「できるだけ遠くへ」と思っていたのに、浜辺駅で降りてしまう自分は、やっぱりまだどこにも行けない子供なんだと思う。
 浜辺駅を出ると、そのまま浜辺第一公園の椅子に座った。辺りはもう暗く、小さい子供はおろか、学生も大人も一人もいなかった。私はそこでようやく一人になった。私だけの世界で、もう誰も私に構わない。本当はそんな時間を、私は必要としていたのかもしれない。