第四章 寂寞 ⑨

 彼方と蒼衣はあれからすぐに仲良しになり、私と三人でよくつるむようになった。私たちは三人とも部活に入っていないので、放課後はそれぞれの家に遊びに行ったり喫茶店でお茶をしながらテスト勉強をしたりした。つまり、どこにでもいるような普通の女子高生をやっていた。けれどその当たり前の日常が、今の私たちにとっては特別な時間だった。
「二人はさ、将来やりたいこととかあるの?」
 彼方がいつになく真面目な声色でそう訊いてきたのは、蒼衣が転校してきて三か月が経過した冬の日の放課後、帰り道でのことだった。
「私はまだ決まってないなぁ。彼方と蒼衣は決まってるの?」
「うん、あたしは小学校の先生!」
 彼方が元気良く答える。小学校の先生か、確かに明るい彼方なら向いている気がする。
「ふふっ、カナちゃんならきっとなれるよ」
 彼方の元気の良さに思わず笑みを浮かべて蒼衣が言った。
「なれるかな~。あたし二人みたいに成績よくないからちょっと不安なんだ」
「そんなの、今から頑張ればどうにでもなるよ。少なくとも夢がない私よりはマシだって」
「そう言ってもらえると安心するな。でも高ちゃんだってこれから夢、見つかるよ」
 多分彼方は自分の夢を私たちに話して励ましてもらいたかったのだろう。いくら大丈夫と思っていても、不安になることってあるもんね。
「ところで、やっちゃんは夢ある?」
 彼方が蒼衣に話を振った。蒼衣の夢は私も今まで一度も聞いたことがなかったのでとても気になった。
「私は…カウンセラーになりたい」
「カウンセラー?」
「うん。私、小学校の時いじめられてて…ずっと相談に乗ってくれる人もいなくて…。でも六年生の時、美桜が私のこと気にかけてくれてそれからとても気が楽になったの。それで、私もいつか悩みを持った人の相談に乗ってあげられる仕事がしたいって思ったの。美桜が、私に夢をくれたんだよ」
「蒼衣…」
 知らなかった。彼女がそんなふうに思っていたなんて。
「へえ!それってすごいことじゃん」
 彼方も蒼衣の夢を聞いて感激したようだった。
「だからね、とりあえず私、県内の大学に行って心理学を学ぼうと思うの。そこから夢に近づいていけたらなって」
「そっかぁ、うん、やっちゃんならきっと素敵なカウンセラーになれるよ」
「ありがとう」

 いつものように浜辺駅で彼方と別れた私と蒼衣は二人で同じ電車に揺られている。車内はそれほど混んでおらず、仕事帰りの大人と、私たちと同じ高校生がちらほらと椅子に座っていた。目的の雲雀駅に近づくにつれて、電車の中に差し込む西日がいっそう強くなり私は思わず目を閉じる。いつも同じ側の椅子に座って眩しい思いをするのに、私は今日も同じ間違いをする。多分大抵の人が私と同じような経験をしていることだろう。
「蒼衣、また明日ね」
「うん、またね」
 青鳥川の橋の前で、もう何度繰り返したか分からない別れの言葉を言う私たちは、自分では昔と全然変わってないと思っているが、周りから見たらきっとちゃんと成長しているのだろう。
「ただいまー」
 私は玄関できちんと靴を脱ぎそろえてから自分の部屋に向かう。部屋に入ると、いつもと違って室内の空気が淀んでいるのを感じて、私は慌てて窓を開けた。どうやら今朝、私は窓を開けて換気するのを忘れて家を出てしまったようだ。
「はあーっ」
 冬なので窓を開けると冷たい風が吹き込んできて寒いはずなのに、外から帰ってきたばかりの私にはその冷たい風が心地よく感じられる。
「彼方も蒼衣も、夢があっていいなぁ…」
 部屋の窓から顔を出して外の空気を吸いながら私は独り言つ。進路調査票にはいつも県内で一番難しい大学を書いてはいるが、それは“何となく”の希望だ。もっとこう、二人みたいな確固たる目標がほしい。
 窓から見える、我が家の桜の木を眺めながら私は夢について考える。去年はまだ高校生になったばかりで、本気で将来のことを決められなかったけれど、私ももうすぐ受験生だ。できるだけ早いうちに意志をはっきりさせたい。
 けれど、考えれば考えるほど自分が何をしたいのか分からなくなる。いつもそうだ。私は私のことを一番分かりたいと思うのに、まるで片想いを始めたばかりの相手の気持ちを悶々としながら探っている時のように分からない。
 そのうち考えることに疲れた私は、ふと思い立ってずっと前から使わずに眠っていたスケッチブックを手に取り、そこに目の前の桜の木を描き始めた。
 冬の桜の木は肌寒そうで、初めて見る人は花をつけるまでその木がどんなに美しいかなんて想像できやしない。でも私は、その桜の美しさをずっと前から知っている。だから私は筆を持つ手が自然と動く。今私の目に映る桜の木は花を咲かせていないけれど、スケッチブックの桜の木にはいつの時代にも見る者を魅了してきた花が慎ましく、そして艶やかに咲き始める。
 私は何もかも忘れて夢中で花を描き続けた。たとえ目の前に本物の花がなくても、私の記憶の中には幼い頃から毎年見てきた桜が満開の花を咲かせている。今まで学校という社会で生きてきて、色んな経験をした。楽しいことだけでなく、苦しいこともたくさんあった。でも今はその全てを忘れて筆を動かし続ける。
 そうして絵を描くことに夢中になっていた私は、いつの間にかスケッチブック上に満開の桜を完成させていた。
「できた…」
 絵を描くのは久しぶりだったので、それほど上手いとは言えないが、私は描き上げた絵に満足していた。何により、描いている間とても楽しかった。
 そうだ、私は楽しんでいた。
 無心で手を動かし続けて一枚の絵画を完成させることが、こんなに楽しいなんて思わなかった。
 そして、絵を描くことに楽しさを感じた私の胸に、ある一つの気持ちが芽生えていた。

 翌日の土曜日、私は蒼衣の家を訪れた。
「突然ごめんね」
「あら、美桜。どうしたの」
「あのね、実は蒼衣に話したいことがあって…」
「それならうちに上がってよ。私の部屋で話しましょう」
 蒼衣は約束なしに訪れた私に対して嫌な顔一つせず家に入れてくれた。
「お邪魔します」
 実は蒼衣の家に上がるのは初めてで、私は少し緊張した。蒼衣の両親とも会ったことがなかったので私は挨拶の心構えをする。だが、
「あ、今日お母さんたちいないのよ」
 と彼女が言ったので、私は「ふぅ」と息を吐いて緊張を解いた。蒼衣の両親に会いたい気持ちもあったので少し残念だったけれど。
 蒼衣の部屋は二階にあった。ドアには「AOI」と書かれた木のプレートがかかっており、一目でそこが彼女の部屋だと分かった。
「お邪魔しまーす…」
「ふふっ。美桜ったら、『お邪魔します』ってさっきも言ったわよ」
 言われてみれば確かにそうだ。部屋に入る時に「お邪魔します」は少し違うか。それでも親友の部屋に入る時の私は、どこか新鮮な気持ちになっていた。
 蒼衣に誘導されて、私はテーブルの側に座った。
「お茶持ってくるから、ちょっと待ってて」
 蒼衣がそう言って部屋から出て行くのを見ると、なんだか申し訳ない気持ちになる。そういう気持ちとは反対に、私は彼女の部屋に来られたことを嬉しく感じてもいた。
 彼女の部屋は、白と水色の家具で統一されていた。大人っぽい彼女にぴったりな雰囲気の部屋だ。
「紅茶があったから淹れてきたわ」
 戻ってきた彼女はにっこり微笑んで私の向かい側に座った。そして紅茶の入ったお洒落なティーカップを私の前に置いてくれた。
「突然来たのに気を遣わせてごめんね、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 それから私たちはしばらく他愛のない会話をした。先週出た宿題が難しすぎて解けないとか、昨日の夜中の流星群を見逃したとか、そういったどうでもいい話を蒼衣とできるだけで、私の心の奥底が温まる。
「…それで、美桜が話したいことって?」
 私と蒼衣の紅茶がなくなりかけてきた頃、彼女がそう訊いてきた。
 いよいよ本題に入ろう。
「あのね…これを見てほしいの」
 私は鞄の中からスケッチブックを取り出して、昨日描いた桜の木を彼女に見せた。その絵を初めて目にした彼女は、「まあ!」と口に手を当てて驚いた。
「これ、美桜が描いたの?」
「う、うん。どうかな?」
「素敵だわ、こんな絵見たことない!」
 予想以上の彼女の反応に、私は少し照れくさくなった。
「ありがとう。それでね、私美大に行こうと思うの」
「それ、本当…?」
「うん。A県だから県外になっちゃうんだけど…それでも、将来絵を描く仕事に携わりたいなって思って…」
 私の志を聞いた蒼衣は、しばらくの間黙ってしまった。やっぱり、私の夢は無謀なんだろか。今まで通り、県内の大学を志望するべきなのだろうか…。
「やっぱり私――」
「美桜、すごいね‼」
「えっ」
 私が諦めの言葉を口にしようとした時、彼女がぱっと笑顔になってそう言った。
「美桜がこんなに絵が描けるなんて知らなかった。美大に行くの、応援してるわ」
「蒼衣……」
 彼女はやはり、私の親友だった。私が一番欲しい時に、私の一番欲しい言葉をかけてくれる。私が転びそうな時に、いつも手を引いてくれる。
「ありがとう、蒼衣」