第四章 寂寞 ⑦
翌日の放課後、私に浮気現場を目撃されたことに気づいていないだろう矢野が、久しぶりに一緒に帰ろうと私のクラスまで迎えに来てくれた。
「最近一緒に帰れなくてごめんな。今日は一緒に帰ろう」
彼はいつもと変わらない優しい口調でそう言った。私は昨日の一件で目の前にいる彼の言葉が全て偽物に思えてならなかった。だから、
「…ごめん、今日は彼方と帰るから…」
と彼の誘いを断ってしまった。彼も、「そうか」とだけ言って「それじゃ、また明日」と先に帰ってしまった。
本当は今日、彼方と帰る日ではないので、彼方はもうすでに教室にはいなかったのだけれど。彼は彼方が近くにいないことに気づいていたのかいないのか不明だったが納得してくれた様子だった。
それから私は一人で一階まで降りて上靴から下靴に履き替える。何でもないいつもの放課後なのにどこか寂しいのは、きっと私の心の中だけなんだろう。
校舎から出て浜辺駅に向かって歩き出した時、背後から私の名前を呼ぶ声がした。
「おーい、高木!」
聞き覚えのある声だけど誰だっけ、と振り返るとそこにいたのは以外な人物だった。
「…紫野君?」
「はぁっはぁっ…高木、久しぶり」
息を切らして私を追いかけてきたのは、去年私の隣の席に座っていた紫野裕だった。
「久しぶり…って、急にどうしたの」
確か彼は今理系で、矢野や園田恵と同じクラスだ。二年に上がってから私は彼と一度も話していなかったのに、こんなふうに追いかけてくるなんて…何かあったのだろうか。
「どうしたのって…お前、まさか知らないのか?」
「知らないって、何が…」
「だからっ…その…」
「…矢野と園田さんのこと?」
私がそう言うと彼は驚いた様子で私を見た。そして、両手で私の肩をがしっと掴んで言った。
「知ってたのか!俺、あいつらと同じクラスだからいつも見てたんだ。あいつら、同じクラスになった時から馬が合うみたいで。でもそれは友達として、だと思ってたんだ。でも昨日…」
私は彼が何を言いたいのかが分かって彼からさっと目を反らした。彼の口から昨日のことを聞きたくなかったから。
「昨日…あいつらが手を繋いで帰ってるとこ、見ちまったんだ…!」
聞きたくないのに、私の意思とは関係なく彼の言葉が胸に突き刺さる。
「…そんなこと知ってる。私も見たから」
「み、見てたのか、お前も…!だったらあいつらどうにかしようと思わないのか⁉高木は矢野のこと好きなんだろう!」
柴野君はまるで自分のことのように私を真剣なまなざしで見つめて叱咤する。
「いいの、このままで…」
「いいって何でだよ!あいつの彼女は高木だろうっ?お前ら付き合ってて幸せそうだったじゃねえか!今ならまだ間に合うはずだ。それなのに、何で諦めるんだよ!」
私、分かってた。
彼がなぜ、クラスも違う私にここまで言ってくれるのか。
ここまで私のことを真剣に考えてくれるのか。
本当は全部分かってたのに。
「何で何でって…紫野君には関係ないじゃないっっ」
私は彼の両手を振り払ってそう言い放ち、彼に背を向けて一歩踏み出す。
私のことどんなに真剣に怒ってくれたって、触れられたくないことに触れられるのは、私だって嫌だよ…。
彼は、逃げる私を追いかけては来なかった。けれど代わりに、ありったけの声で
「高木、待てよ!」
と叫んだ。
私はビクッと肩を震わせ反射的に歩みを止めてしまった。
「…これ以上、何か言いたいの」
自分でも分かるほど、私は最低だ。自分を心配する人に優しくしてあげられない。
「関係、あるよ」
そう言う彼の声はどこか震えていた。
「どうしてそんなこと言えるの?私、紫野君とは去年クラスメイトだっただけでそれ以外関係ないと思ってるよ」
「高木っ…」
彼の私の名前を呟く声に、背を向けていても私の言葉で彼が傷ついてしまったことが分かった。それでも私は止まらない。
「もういいでしょう…。私には私のやり方があるの。だから紫野君にどうこう言われる筋合いはないっ」
「よ、よくねえよ!」
「だから何でよ‼紫野君には関係ないって言ってるじゃないっ!」
「何でってそれは…それは俺が、お前のことが好きだからに決まってるだろ‼」
躍起になって彼がそう言った時、私はどうしたらいいか分からなくなって、その場で固まってしまった。
『紫野君って高ちゃんのこと好きなんじゃない?』
去年彼方から聞いたことが本当だったことを知って、私は愕然とした。
知っていた。
本当は何もかも知っていた。
「た、高木…?」
私に告白した彼はきっと何も言わない私に戸惑っている。
私は、どうしたらいいのか分からなくなって、戸惑う彼を置いてその場から駆け出した。
「高木!」
彼は私の名前を呼ぶだけで、やっぱり逃げる私を追いかけてこない。
私は矢野と園田恵が一緒にいるところを見てしまった昨日と同じように訳も分からず見えないものから必死に逃げた。自分では縦横無尽に走ってるつもりだったのに、ちゃんと浜辺駅に着いて電車に揺られて雲雀駅で降りる。それからはもう走る気力もなくなって、とぼとぼと歩き続けた。普通に歩いても二〇分かかるのに、こんな足取りでは倍ぐらいかかるだろう。でも、そんなこと考えていられないくらい、私は心の中がぐちゃぐちゃになってしまっていた。
そうやって無心で歩いてようやく青鳥川の橋にたどり着いた時、私は歩く力さえなくなって、欄干にもたれかかり橋の上で膝を抱えて座り込んだ。小さい橋だからきっと人だってそんなに来ない。だから大丈夫…。
そう思った途端に私は涙が込み上げてきて、膝に顔をうずめ声を上げて泣いた。
「うぅっ…ああぁぁ」
何で私は泣いてるんだろう。
矢野が浮気をしていたから?
紫野君に責められたから?
泣きたいのは、きっと私じゃなくて紫野君の方なのに。
「ううぅっ…」
自分でも何でか分からないまま、私は泣き続けた。泣いて泣いて声も枯れて、そのうち寒くなっていっそうぎゅっと膝を抱え込んだ時。
「…美桜?」
声が、聞こえた。
しかもその声はとても懐かしくて、私がずっと聞きたかった声で。
私はすがる思いでゆっくりと顔を上げた。
「美桜、こんなところでどうしたの…?」
心配そうな顔をして私を見降ろしていたのは、唯一私のことを「美桜」と呼ぶ、彼女だった。
「…あ、おい…?」
消え入りそうに呟いた私を、蒼衣は眉根を寄せて見つめている。
いつの間にか日も暮れて薄暗くなった橋の景色の中で、まるで彼女だけが切り取られたみたいに私には見えた。
「久しぶりね、美桜」
彼女がいくらか明るい声でそう言ったのも、きっと今にも崩れてしまいそうな私を気遣ってくれたからだろう。
「蒼衣っ…」
なぜ彼女が今ここにいるのかとか、二年間どうしていたのかとか、聞きたいことはたくさんあった。でも今はそれ以上に、彼女にすがりたい気持ちでいっぱいで。こんな時に私の前に現れてくれた彼女に、私は迷わず手を伸ばした。
彼女はそっと私の手を握って私を立ち上がらせてくれた。
「美桜、ちょっと背伸びた?」
こんな時にそんなことを言う彼女は、やっぱり私のことを一番よく理解しているのだろう。彼女がこういったどうでもいいようなこと言う時はいつも、私を安心させるためだと知っていた。
だから私は二年ぶりに再会した彼女に気の利いた言葉をかけるよりも先に泣きついていた。まるで小さな子供みたいにすがりついてわんわん泣いた。ほんとほんと、バカみたいに泣きじゃくっていた。私がそんなふうに何も考えずに泣けたのも、きっと彼女がずっと何も言わずに側にいてくれたからだろう。
泣いて泣いて、もう流す涙もなくなってきた頃、ようやく彼女が口を開いて「もう大丈夫?」と訊いた。
「うん…」
と頷いた私はきっと泣きすぎてひどい顔していただろう。
「美桜、よかったら何があったか聞かせてくれる?」
蒼衣の優しい言葉に、私はこっくり頷いて事の次第を話し始めた。
高校でできた友達の彼方と、彼方が好きだった矢野。その矢野と私が付き合ったこと。
とても幸せだったけれど、一年半付き合って失恋してしまったこと。
去年同じクラスだった紫野君に想いを告げられ、どうしようもない気持ちになって逃げてしまったこと。
その全てを彼女に聞いてもらった。彼女は私が話し終えるまで、黙って私の手を握ってくれていた。
「私がいない間にそんなことがあったのね…。それで美桜は、その紫野君から逃げてきてここで膝を抱えていたの?紫野君に言われたことが、それほどショックだったの?」
「それは…」
多分少し違う。
私はずっと矢野のことを諦めようとしていた。昨日決定的な場面を見てしまった時から、彼のことを考えないようにしていた。目を閉じ、耳を塞いで、見たくないもの、聞きたくないことから心を背けていた。そうすることで心の平静を保っていた。
それなのに、紫野君に真っ向から事実をつきつけられて向き合わずにはいられなくなったことが無性に嫌だった。だから彼に、八つ当たりするみたいな態度をとって、そんな自分が許せなくて、彼からも自分からも逃げてしまった。
そして自分の中で今一番大きな気持ちは……。
「…私、寂しいよ」
矢野の心が、自分から離れてしまったこと。認めてしまえば簡単だった。
私は寂しい。
この上なく寂しいんだ…。
「寂しくて辛くて痛いよ……」
私は側で静かに私の話を聞いてくれる彼女に向かって、彼への思いのたけをぶちまけた。
「どうしてなの…あんなに楽しかったのに、好きだったのに、どうしてこんなことになっちゃったの…?矢野はもう、私のことなんて好きじゃないかもしれないけどっ…それでも私は矢野が好きなのに。もう…私の隣にいないよ…。こんなに痛くて辛いなら、矢野と出会わなければ良かった……」
出会って、恋をして、付き合って、別れる。
これほど無意味で心が抉られることが他にあるだろうか。
こんな思いをするぐらいなら、最初から何もなかった方が幸せだったんだ、きっと……。
私は蒼衣に向かって言いたいことだけ吐き出して、それから深く息を吸って吐いた。蒼衣と目を合わせるのが怖くて、自然と俯いてしまう。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。久しぶりに再会した親友の失恋話をどう受け取ったのだろう。
私は側で、彼女の息を吸う音を聞いた。
「そうね…大事な人が自分から離れて行っちゃった時、たまらなく寂しい。私は美桜と矢野君がどんなふうにお付き合いしてたか知らないけれど…美桜が今、とっても辛い気持ちだってことぐらいは分かる。私は美桜の親友だから」
「蒼衣…」
「でもね、美桜。心が痛くなる気持ちを知らなければ、他人の痛みも分からないままよ」
「他人の痛み…」
「そう。美桜は今、とっても辛い思いをしてる。だから美桜はこの先自分と同じ気持ちになった人の気持ちを分かってあげられる。今その辛い気持ちが、いつか優しさに変わるわ。そう考えたら、美桜の胸が痛いのも素敵なことだって思えてこない?」
そう言って私の親友はにっこり微笑んだ。
あぁ、そうか。
寂しくて当然だ。
痛くて辛いのも、私がちゃんと生きてるからだ。
息をして、恋をして、一生懸命歩いてきたからだ。
「蒼衣…変わったね」
昔の蒼衣はいつも寂しそうだった。笑ってても、寂しさに包まれているような表情をしていた。それが今、彼女は私の話に耳を傾け、温かい言葉に変えて返してくれている。
「言ったでしょ、美桜にまた会えるように笑って生きていくって」
「そっか…そうだね」
私は蒼衣との別れを思い出して懐かしくてふふっと笑った。あの時はとても必死だったのに、今では透き通った思い出になっている。
私は今度こそ、蒼衣の目を見て、それからずっと言いたかった言葉を言う。
「蒼衣、ありがとう。それから…おかえりなさい」
翌日の放課後、私に浮気現場を目撃されたことに気づいていないだろう矢野が、久しぶりに一緒に帰ろうと私のクラスまで迎えに来てくれた。
「最近一緒に帰れなくてごめんな。今日は一緒に帰ろう」
彼はいつもと変わらない優しい口調でそう言った。私は昨日の一件で目の前にいる彼の言葉が全て偽物に思えてならなかった。だから、
「…ごめん、今日は彼方と帰るから…」
と彼の誘いを断ってしまった。彼も、「そうか」とだけ言って「それじゃ、また明日」と先に帰ってしまった。
本当は今日、彼方と帰る日ではないので、彼方はもうすでに教室にはいなかったのだけれど。彼は彼方が近くにいないことに気づいていたのかいないのか不明だったが納得してくれた様子だった。
それから私は一人で一階まで降りて上靴から下靴に履き替える。何でもないいつもの放課後なのにどこか寂しいのは、きっと私の心の中だけなんだろう。
校舎から出て浜辺駅に向かって歩き出した時、背後から私の名前を呼ぶ声がした。
「おーい、高木!」
聞き覚えのある声だけど誰だっけ、と振り返るとそこにいたのは以外な人物だった。
「…紫野君?」
「はぁっはぁっ…高木、久しぶり」
息を切らして私を追いかけてきたのは、去年私の隣の席に座っていた紫野裕だった。
「久しぶり…って、急にどうしたの」
確か彼は今理系で、矢野や園田恵と同じクラスだ。二年に上がってから私は彼と一度も話していなかったのに、こんなふうに追いかけてくるなんて…何かあったのだろうか。
「どうしたのって…お前、まさか知らないのか?」
「知らないって、何が…」
「だからっ…その…」
「…矢野と園田さんのこと?」
私がそう言うと彼は驚いた様子で私を見た。そして、両手で私の肩をがしっと掴んで言った。
「知ってたのか!俺、あいつらと同じクラスだからいつも見てたんだ。あいつら、同じクラスになった時から馬が合うみたいで。でもそれは友達として、だと思ってたんだ。でも昨日…」
私は彼が何を言いたいのかが分かって彼からさっと目を反らした。彼の口から昨日のことを聞きたくなかったから。
「昨日…あいつらが手を繋いで帰ってるとこ、見ちまったんだ…!」
聞きたくないのに、私の意思とは関係なく彼の言葉が胸に突き刺さる。
「…そんなこと知ってる。私も見たから」
「み、見てたのか、お前も…!だったらあいつらどうにかしようと思わないのか⁉高木は矢野のこと好きなんだろう!」
柴野君はまるで自分のことのように私を真剣なまなざしで見つめて叱咤する。
「いいの、このままで…」
「いいって何でだよ!あいつの彼女は高木だろうっ?お前ら付き合ってて幸せそうだったじゃねえか!今ならまだ間に合うはずだ。それなのに、何で諦めるんだよ!」
私、分かってた。
彼がなぜ、クラスも違う私にここまで言ってくれるのか。
ここまで私のことを真剣に考えてくれるのか。
本当は全部分かってたのに。
「何で何でって…紫野君には関係ないじゃないっっ」
私は彼の両手を振り払ってそう言い放ち、彼に背を向けて一歩踏み出す。
私のことどんなに真剣に怒ってくれたって、触れられたくないことに触れられるのは、私だって嫌だよ…。
彼は、逃げる私を追いかけては来なかった。けれど代わりに、ありったけの声で
「高木、待てよ!」
と叫んだ。
私はビクッと肩を震わせ反射的に歩みを止めてしまった。
「…これ以上、何か言いたいの」
自分でも分かるほど、私は最低だ。自分を心配する人に優しくしてあげられない。
「関係、あるよ」
そう言う彼の声はどこか震えていた。
「どうしてそんなこと言えるの?私、紫野君とは去年クラスメイトだっただけでそれ以外関係ないと思ってるよ」
「高木っ…」
彼の私の名前を呟く声に、背を向けていても私の言葉で彼が傷ついてしまったことが分かった。それでも私は止まらない。
「もういいでしょう…。私には私のやり方があるの。だから紫野君にどうこう言われる筋合いはないっ」
「よ、よくねえよ!」
「だから何でよ‼紫野君には関係ないって言ってるじゃないっ!」
「何でってそれは…それは俺が、お前のことが好きだからに決まってるだろ‼」
躍起になって彼がそう言った時、私はどうしたらいいか分からなくなって、その場で固まってしまった。
『紫野君って高ちゃんのこと好きなんじゃない?』
去年彼方から聞いたことが本当だったことを知って、私は愕然とした。
知っていた。
本当は何もかも知っていた。
「た、高木…?」
私に告白した彼はきっと何も言わない私に戸惑っている。
私は、どうしたらいいのか分からなくなって、戸惑う彼を置いてその場から駆け出した。
「高木!」
彼は私の名前を呼ぶだけで、やっぱり逃げる私を追いかけてこない。
私は矢野と園田恵が一緒にいるところを見てしまった昨日と同じように訳も分からず見えないものから必死に逃げた。自分では縦横無尽に走ってるつもりだったのに、ちゃんと浜辺駅に着いて電車に揺られて雲雀駅で降りる。それからはもう走る気力もなくなって、とぼとぼと歩き続けた。普通に歩いても二〇分かかるのに、こんな足取りでは倍ぐらいかかるだろう。でも、そんなこと考えていられないくらい、私は心の中がぐちゃぐちゃになってしまっていた。
そうやって無心で歩いてようやく青鳥川の橋にたどり着いた時、私は歩く力さえなくなって、欄干にもたれかかり橋の上で膝を抱えて座り込んだ。小さい橋だからきっと人だってそんなに来ない。だから大丈夫…。
そう思った途端に私は涙が込み上げてきて、膝に顔をうずめ声を上げて泣いた。
「うぅっ…ああぁぁ」
何で私は泣いてるんだろう。
矢野が浮気をしていたから?
紫野君に責められたから?
泣きたいのは、きっと私じゃなくて紫野君の方なのに。
「ううぅっ…」
自分でも何でか分からないまま、私は泣き続けた。泣いて泣いて声も枯れて、そのうち寒くなっていっそうぎゅっと膝を抱え込んだ時。
「…美桜?」
声が、聞こえた。
しかもその声はとても懐かしくて、私がずっと聞きたかった声で。
私はすがる思いでゆっくりと顔を上げた。
「美桜、こんなところでどうしたの…?」
心配そうな顔をして私を見降ろしていたのは、唯一私のことを「美桜」と呼ぶ、彼女だった。
「…あ、おい…?」
消え入りそうに呟いた私を、蒼衣は眉根を寄せて見つめている。
いつの間にか日も暮れて薄暗くなった橋の景色の中で、まるで彼女だけが切り取られたみたいに私には見えた。
「久しぶりね、美桜」
彼女がいくらか明るい声でそう言ったのも、きっと今にも崩れてしまいそうな私を気遣ってくれたからだろう。
「蒼衣っ…」
なぜ彼女が今ここにいるのかとか、二年間どうしていたのかとか、聞きたいことはたくさんあった。でも今はそれ以上に、彼女にすがりたい気持ちでいっぱいで。こんな時に私の前に現れてくれた彼女に、私は迷わず手を伸ばした。
彼女はそっと私の手を握って私を立ち上がらせてくれた。
「美桜、ちょっと背伸びた?」
こんな時にそんなことを言う彼女は、やっぱり私のことを一番よく理解しているのだろう。彼女がこういったどうでもいいようなこと言う時はいつも、私を安心させるためだと知っていた。
だから私は二年ぶりに再会した彼女に気の利いた言葉をかけるよりも先に泣きついていた。まるで小さな子供みたいにすがりついてわんわん泣いた。ほんとほんと、バカみたいに泣きじゃくっていた。私がそんなふうに何も考えずに泣けたのも、きっと彼女がずっと何も言わずに側にいてくれたからだろう。
泣いて泣いて、もう流す涙もなくなってきた頃、ようやく彼女が口を開いて「もう大丈夫?」と訊いた。
「うん…」
と頷いた私はきっと泣きすぎてひどい顔していただろう。
「美桜、よかったら何があったか聞かせてくれる?」
蒼衣の優しい言葉に、私はこっくり頷いて事の次第を話し始めた。
高校でできた友達の彼方と、彼方が好きだった矢野。その矢野と私が付き合ったこと。
とても幸せだったけれど、一年半付き合って失恋してしまったこと。
去年同じクラスだった紫野君に想いを告げられ、どうしようもない気持ちになって逃げてしまったこと。
その全てを彼女に聞いてもらった。彼女は私が話し終えるまで、黙って私の手を握ってくれていた。
「私がいない間にそんなことがあったのね…。それで美桜は、その紫野君から逃げてきてここで膝を抱えていたの?紫野君に言われたことが、それほどショックだったの?」
「それは…」
多分少し違う。
私はずっと矢野のことを諦めようとしていた。昨日決定的な場面を見てしまった時から、彼のことを考えないようにしていた。目を閉じ、耳を塞いで、見たくないもの、聞きたくないことから心を背けていた。そうすることで心の平静を保っていた。
それなのに、紫野君に真っ向から事実をつきつけられて向き合わずにはいられなくなったことが無性に嫌だった。だから彼に、八つ当たりするみたいな態度をとって、そんな自分が許せなくて、彼からも自分からも逃げてしまった。
そして自分の中で今一番大きな気持ちは……。
「…私、寂しいよ」
矢野の心が、自分から離れてしまったこと。認めてしまえば簡単だった。
私は寂しい。
この上なく寂しいんだ…。
「寂しくて辛くて痛いよ……」
私は側で静かに私の話を聞いてくれる彼女に向かって、彼への思いのたけをぶちまけた。
「どうしてなの…あんなに楽しかったのに、好きだったのに、どうしてこんなことになっちゃったの…?矢野はもう、私のことなんて好きじゃないかもしれないけどっ…それでも私は矢野が好きなのに。もう…私の隣にいないよ…。こんなに痛くて辛いなら、矢野と出会わなければ良かった……」
出会って、恋をして、付き合って、別れる。
これほど無意味で心が抉られることが他にあるだろうか。
こんな思いをするぐらいなら、最初から何もなかった方が幸せだったんだ、きっと……。
私は蒼衣に向かって言いたいことだけ吐き出して、それから深く息を吸って吐いた。蒼衣と目を合わせるのが怖くて、自然と俯いてしまう。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。久しぶりに再会した親友の失恋話をどう受け取ったのだろう。
私は側で、彼女の息を吸う音を聞いた。
「そうね…大事な人が自分から離れて行っちゃった時、たまらなく寂しい。私は美桜と矢野君がどんなふうにお付き合いしてたか知らないけれど…美桜が今、とっても辛い気持ちだってことぐらいは分かる。私は美桜の親友だから」
「蒼衣…」
「でもね、美桜。心が痛くなる気持ちを知らなければ、他人の痛みも分からないままよ」
「他人の痛み…」
「そう。美桜は今、とっても辛い思いをしてる。だから美桜はこの先自分と同じ気持ちになった人の気持ちを分かってあげられる。今その辛い気持ちが、いつか優しさに変わるわ。そう考えたら、美桜の胸が痛いのも素敵なことだって思えてこない?」
そう言って私の親友はにっこり微笑んだ。
あぁ、そうか。
寂しくて当然だ。
痛くて辛いのも、私がちゃんと生きてるからだ。
息をして、恋をして、一生懸命歩いてきたからだ。
「蒼衣…変わったね」
昔の蒼衣はいつも寂しそうだった。笑ってても、寂しさに包まれているような表情をしていた。それが今、彼女は私の話に耳を傾け、温かい言葉に変えて返してくれている。
「言ったでしょ、美桜にまた会えるように笑って生きていくって」
「そっか…そうだね」
私は蒼衣との別れを思い出して懐かしくてふふっと笑った。あの時はとても必死だったのに、今では透き通った思い出になっている。
私は今度こそ、蒼衣の目を見て、それからずっと言いたかった言葉を言う。
「蒼衣、ありがとう。それから…おかえりなさい」