第四章 寂寞 ⑥
この世に運命という言葉があることを私は知っていた。知ってはいたものの、私はまだその言葉を現実で使うような場面に巡り合わせたことがなかった。
しかし、矢野とデートをした翌日の月曜日、私はまさに運命的な瞬間を見てしまったのである。
その日の放課後、私は所属している風紀委員の集まりがあったので矢野には先に帰ってもらうことにしていた。委員会は一時間ほどで終わり、私もようやく帰り支度を始めて一人浜辺駅まで歩いている時だった。
「なぁ、姉ちゃんこっち来なよ」
「一緒に楽しいことしようぜ~」
「い、いやです。私、急いでるので…」
「そんなこと言わずにさぁ~」
「悪いようにはしないからさ」
どうやら女の子が不良っぽい二、三人の男の人に絡まれて困っているようだった。
しかもよく見ると、その女の子は私の通う浜辺高校の制服を着ていた。
「や、やめてくださいっ‼」
女の子が不良の手を振り払って逃げようとするが、その行為が男の怒りを買ってしまったようで、
「んだとコラァッ!」
男のうちの一人が女の子に向かって拳を振り上げる。
危ないっ、と見ていた私が反射的に目を瞑った時だった。
パシっという軽い音がして私は恐る恐る目を開くと、私は見てしまった。
「おい、お前ら女の子に手を挙げるのはやめろ」
そこには女の子の前で不良の拳を掴む矢野がいた。女の子は突然目の前に現れた救世主の背中を見て目を丸くしていた。そう、彼らはまさに運命的な出会いをしたのだ。
「や、矢野…?」
私はなぜそこに彼がいるのか、そして女子生徒を庇っているのか分からなかった。
「誰だオマエ。ああそうか、この女の連れかぁ」
そう言って不良は立ちはだかる矢野の頬に一発パンチをくらわせる。
「うっ…」
私は矢野が殴られたことでドクン、ドクンと心臓が跳ねるのを感じた。
矢野は殴られた後も一歩も引かずに不良たちを睨みつけていた。不良たちも、不屈な彼の様子を見て観念したのか「覚えてろよ」とだけ吐き捨てて去っていった。
「ふぅ…きみ、大丈夫?」
「え…あ、はい、私は大丈夫です。それよりあなたの方が…」
「このぐらい何ともないさ」
「私のせいで…ごめんなさい。あの、これ、良かったら」
女の子は鞄から絆創膏を取り出して矢野にわたす。よくよく見ると殴られた矢野は口を少し切ったようだった。
「さんきゅ」
矢野は差し出された絆創膏を受け取ると女の子に別れを告げ、私がいる方に歩いてきた。
ま、まずい、こっちに来る!
私は反射的に走って矢野から遠ざかる。べつに、矢野の元へ行って正直に見ていたことを話して殴られたことを心配すればいいのに、この時の私はなぜか矢野に会いたくないと思ってしまった。
私は矢野から逃げるようにして浜辺駅の改札をくぐった。そう、多分私は悔しかったんだ。矢野が、私以外の他の女の子を助けるところを見て嫉妬したんだ。彼が善意で彼女を守ったことは分かっている。けれどそのことが無性に悲しかった。
月日って永遠じゃない。
私が今日家で何もすることがなく退屈な一日を過ごしても、大好きな人とデートをして最高の一日を過ごしても、どっちも同じだけ時間が流れている。時間の流れには誰も逆らうことなんてできない。
浜辺高校に入学してから一年と半年が過ぎた。矢野と付き合いだして一年とちょっとだろうか。それだけの時間を一緒に過ごしていると、彼との思い出も私の心のアルバムには収まりきれないくらいに膨らんでいる。
彼と付き合い始めた夏、初めてのデートで菜畑公園に行った。そこで見た噴水のショーは今でも一番心に残っている。
秋、少し肌寒くなってきた頃彼の家に遊びに行った。彼には素敵なお兄さんがいて、私は彼が嫉妬するくらいお兄さんと仲良くなった。
冬、クリスマスを一緒に過ごして初詣にも行った。人が多くてはぐれないか心配だったけれど、彼がずっと私の手を引いてくれていた。
春、高校二年生になってクラスが別々になった。寂しいけれど、私も彼も新しいクラスで友達をつくって上手くやれていた。勉強もちゃんとしなきゃって、時々二人で図書館に籠もって勉強した。
再びやって来た夏、去年は行きそびれた花火大会に足を運んだ。彼に新しく買ってもらった浴衣を褒められて嬉しかった。
そして現在、高校二年生の秋。私は今も、矢野のことが好きだ。その気持ちは付き合い始めた頃から少しも変わっていない。最近矢野は来年の受験に向けてかなり勉強を頑張っているらしく、成績も常に理系で五位以内に入るようになった。彼の頑張りが結果となって表れていることに私は嬉しく思っている。けれどその反面、放課後塾で忙しくなった彼と一緒に帰る回数が減って、私は最近彼と少し疎遠になっていた。
「高ちゃん、今日矢野君は?」
「あ、うん。今日も塾だって。だから一緒に帰ろう、彼方」
彼方とはまた同じクラスになった縁で以前のように仲良くしている。私と彼方は文系クラス。対して矢野は理系クラスなので、矢野とは学校でほとんど会うこともできなくなってしまった。
私は今日も塾で忙しい彼の代わりに彼方と一緒に下校する。代わり、と言ったら失礼になるが、もともと週に二回は彼方と一緒に帰る日をつくっていた。それが今では週四回とか、五回になっているだけだ。
浜辺駅まで私たちは今日の授業の話とか、来月行われる文化祭の話をした。いたって普通の友達同士の会話。でも、彼方とこうしてまた自然に話ができるようになるまでかなりの時間がかかったのだ。きっともう簡単には崩れたりしないだろう。
「じゃあね、彼方。また明日」
「うん、また明日ね!」
浜辺駅の改札前で私たちはさよならを言う。彼方の家は私の家と反対方向で、矢野の家と同じ方向だった。
私はそのまま改札を抜けて階段を上りホームに上がる。反対側のホームには私と丁度同じタイミングで階段を上ってきた彼方がいた。私が気づいて彼方に大きく手を振ると、彼方も私に手を振り返してくれた。ふふっ、こういうのって青春っぽい。
そして、彼方の方の電車がやって来た。彼方はそれに乗り込み、電車が出発する。反対側のホームにいた私まで電車が走り抜ける際の風が吹いて、私は慌ててスカートを抑えた。
電車が走り去った後、私はもう一度彼方のいなくなったホームを見た。
そこで、見てしまった。
「あっ…」
反対側のホームに彼がいた。
彼の隣には女の子がいて、二人は手をつないで楽しそうに話している。
「嘘…」
私は信じられない、というふうに呆然としてその場に立ち尽くす。しかもよく目を凝らして見ると、相手の女の子は一年前に彼が不良から庇った女の子だった。
私はその子の名前を知っていた。彼女は私たちと同じ浜辺高校の二年生。理系で成績トップの園田(そのだ)恵(めぐみ)。確か彼とは同じクラスだったはず。
彼らは私の存在に気づいていないらしい。私は茫然自失のままま階段を下り、入ってきた改札を抜けてそのまま無我夢中で走った。
ああ、あの時と同じだ。
彼が彼女を助けるのを目撃したあの時と同じ。
彼らの運命は、あの時からすでに決まっていたんだ。私は見てしまったものをなかったことにしたくてがむしゃらに走って走って走って……。
「はぁっ…はぁっ」
そのうち呼吸をするのが苦しくなって走るのをやめてしまった。
家に帰り着くまでに一時間かかった。最初は彼のことを考えていたが、途中から考えるのも辛くなって、ひたすら無心で歩き続けた。辛いのに、なぜか涙は出てこない。私の中の彼の価値って、そんなに薄っぺらいものだったのだろうか。いや、そうじゃないはずなのに、私は泣けなかった。
この世に運命という言葉があることを私は知っていた。知ってはいたものの、私はまだその言葉を現実で使うような場面に巡り合わせたことがなかった。
しかし、矢野とデートをした翌日の月曜日、私はまさに運命的な瞬間を見てしまったのである。
その日の放課後、私は所属している風紀委員の集まりがあったので矢野には先に帰ってもらうことにしていた。委員会は一時間ほどで終わり、私もようやく帰り支度を始めて一人浜辺駅まで歩いている時だった。
「なぁ、姉ちゃんこっち来なよ」
「一緒に楽しいことしようぜ~」
「い、いやです。私、急いでるので…」
「そんなこと言わずにさぁ~」
「悪いようにはしないからさ」
どうやら女の子が不良っぽい二、三人の男の人に絡まれて困っているようだった。
しかもよく見ると、その女の子は私の通う浜辺高校の制服を着ていた。
「や、やめてくださいっ‼」
女の子が不良の手を振り払って逃げようとするが、その行為が男の怒りを買ってしまったようで、
「んだとコラァッ!」
男のうちの一人が女の子に向かって拳を振り上げる。
危ないっ、と見ていた私が反射的に目を瞑った時だった。
パシっという軽い音がして私は恐る恐る目を開くと、私は見てしまった。
「おい、お前ら女の子に手を挙げるのはやめろ」
そこには女の子の前で不良の拳を掴む矢野がいた。女の子は突然目の前に現れた救世主の背中を見て目を丸くしていた。そう、彼らはまさに運命的な出会いをしたのだ。
「や、矢野…?」
私はなぜそこに彼がいるのか、そして女子生徒を庇っているのか分からなかった。
「誰だオマエ。ああそうか、この女の連れかぁ」
そう言って不良は立ちはだかる矢野の頬に一発パンチをくらわせる。
「うっ…」
私は矢野が殴られたことでドクン、ドクンと心臓が跳ねるのを感じた。
矢野は殴られた後も一歩も引かずに不良たちを睨みつけていた。不良たちも、不屈な彼の様子を見て観念したのか「覚えてろよ」とだけ吐き捨てて去っていった。
「ふぅ…きみ、大丈夫?」
「え…あ、はい、私は大丈夫です。それよりあなたの方が…」
「このぐらい何ともないさ」
「私のせいで…ごめんなさい。あの、これ、良かったら」
女の子は鞄から絆創膏を取り出して矢野にわたす。よくよく見ると殴られた矢野は口を少し切ったようだった。
「さんきゅ」
矢野は差し出された絆創膏を受け取ると女の子に別れを告げ、私がいる方に歩いてきた。
ま、まずい、こっちに来る!
私は反射的に走って矢野から遠ざかる。べつに、矢野の元へ行って正直に見ていたことを話して殴られたことを心配すればいいのに、この時の私はなぜか矢野に会いたくないと思ってしまった。
私は矢野から逃げるようにして浜辺駅の改札をくぐった。そう、多分私は悔しかったんだ。矢野が、私以外の他の女の子を助けるところを見て嫉妬したんだ。彼が善意で彼女を守ったことは分かっている。けれどそのことが無性に悲しかった。
月日って永遠じゃない。
私が今日家で何もすることがなく退屈な一日を過ごしても、大好きな人とデートをして最高の一日を過ごしても、どっちも同じだけ時間が流れている。時間の流れには誰も逆らうことなんてできない。
浜辺高校に入学してから一年と半年が過ぎた。矢野と付き合いだして一年とちょっとだろうか。それだけの時間を一緒に過ごしていると、彼との思い出も私の心のアルバムには収まりきれないくらいに膨らんでいる。
彼と付き合い始めた夏、初めてのデートで菜畑公園に行った。そこで見た噴水のショーは今でも一番心に残っている。
秋、少し肌寒くなってきた頃彼の家に遊びに行った。彼には素敵なお兄さんがいて、私は彼が嫉妬するくらいお兄さんと仲良くなった。
冬、クリスマスを一緒に過ごして初詣にも行った。人が多くてはぐれないか心配だったけれど、彼がずっと私の手を引いてくれていた。
春、高校二年生になってクラスが別々になった。寂しいけれど、私も彼も新しいクラスで友達をつくって上手くやれていた。勉強もちゃんとしなきゃって、時々二人で図書館に籠もって勉強した。
再びやって来た夏、去年は行きそびれた花火大会に足を運んだ。彼に新しく買ってもらった浴衣を褒められて嬉しかった。
そして現在、高校二年生の秋。私は今も、矢野のことが好きだ。その気持ちは付き合い始めた頃から少しも変わっていない。最近矢野は来年の受験に向けてかなり勉強を頑張っているらしく、成績も常に理系で五位以内に入るようになった。彼の頑張りが結果となって表れていることに私は嬉しく思っている。けれどその反面、放課後塾で忙しくなった彼と一緒に帰る回数が減って、私は最近彼と少し疎遠になっていた。
「高ちゃん、今日矢野君は?」
「あ、うん。今日も塾だって。だから一緒に帰ろう、彼方」
彼方とはまた同じクラスになった縁で以前のように仲良くしている。私と彼方は文系クラス。対して矢野は理系クラスなので、矢野とは学校でほとんど会うこともできなくなってしまった。
私は今日も塾で忙しい彼の代わりに彼方と一緒に下校する。代わり、と言ったら失礼になるが、もともと週に二回は彼方と一緒に帰る日をつくっていた。それが今では週四回とか、五回になっているだけだ。
浜辺駅まで私たちは今日の授業の話とか、来月行われる文化祭の話をした。いたって普通の友達同士の会話。でも、彼方とこうしてまた自然に話ができるようになるまでかなりの時間がかかったのだ。きっともう簡単には崩れたりしないだろう。
「じゃあね、彼方。また明日」
「うん、また明日ね!」
浜辺駅の改札前で私たちはさよならを言う。彼方の家は私の家と反対方向で、矢野の家と同じ方向だった。
私はそのまま改札を抜けて階段を上りホームに上がる。反対側のホームには私と丁度同じタイミングで階段を上ってきた彼方がいた。私が気づいて彼方に大きく手を振ると、彼方も私に手を振り返してくれた。ふふっ、こういうのって青春っぽい。
そして、彼方の方の電車がやって来た。彼方はそれに乗り込み、電車が出発する。反対側のホームにいた私まで電車が走り抜ける際の風が吹いて、私は慌ててスカートを抑えた。
電車が走り去った後、私はもう一度彼方のいなくなったホームを見た。
そこで、見てしまった。
「あっ…」
反対側のホームに彼がいた。
彼の隣には女の子がいて、二人は手をつないで楽しそうに話している。
「嘘…」
私は信じられない、というふうに呆然としてその場に立ち尽くす。しかもよく目を凝らして見ると、相手の女の子は一年前に彼が不良から庇った女の子だった。
私はその子の名前を知っていた。彼女は私たちと同じ浜辺高校の二年生。理系で成績トップの園田(そのだ)恵(めぐみ)。確か彼とは同じクラスだったはず。
彼らは私の存在に気づいていないらしい。私は茫然自失のままま階段を下り、入ってきた改札を抜けてそのまま無我夢中で走った。
ああ、あの時と同じだ。
彼が彼女を助けるのを目撃したあの時と同じ。
彼らの運命は、あの時からすでに決まっていたんだ。私は見てしまったものをなかったことにしたくてがむしゃらに走って走って走って……。
「はぁっ…はぁっ」
そのうち呼吸をするのが苦しくなって走るのをやめてしまった。
家に帰り着くまでに一時間かかった。最初は彼のことを考えていたが、途中から考えるのも辛くなって、ひたすら無心で歩き続けた。辛いのに、なぜか涙は出てこない。私の中の彼の価値って、そんなに薄っぺらいものだったのだろうか。いや、そうじゃないはずなのに、私は泣けなかった。