第四章 寂寞 ③

 浜辺駅に着くと、私と矢野は反対方面なので改札の前で手を振って別れた。
「じゃあまた明日ね、ばいばい」
「おう、また明日」
 昔は蒼衣と、こんなふうに毎日青鳥川の橋の手前でさよならを交わしていた。
 今は蒼衣がいなくて、代わりに彼がいる。
 時間は動いていないようで、確実に私たちを過去から未来へ連れ去っている。
 大好きな彼といられる今が楽しくて幸せなはずなのに、蒼衣と過ごした日々がどんどん遠ざかっていくようで、私は電車に乗った後ちょっぴり切なくなった。
「次はー雲雀町、雲雀町。お降りの方はお忘れ物のないよう…」
 家から最寄りの雲雀駅に着くと私は鞄の中からウォークマンを取り出してイヤホンをつける。最寄駅とはいえ、雲雀駅から私の家まで二〇分ほど歩かなくてはならないので、ウォークマンは必須アイテムだ。
 飲食店や本屋などそれなりに店の多い雲雀町とは違って、私の住む青鳥町は店と言えば小さなスーパーぐらいしかなく、ほとんどが一戸建ての住宅街。私の家もよその家と変わらない一軒家なんだけれど、一つだけ他の家にはないものがある。
 それは家の目の前にある大きな桜の木だ。
 その木は私がここに引っ越してきた一三年前には既にそこにあって、以来春になると美しい桃色の花を咲かせる。
 花が咲いている時期に部屋の窓を開けると、はらはらと花びらが部屋の中に舞い込んできて、ほっとくと部屋中花弁で埋め尽くされてピンクの絨毯を敷いたようになる。
 この桜の木は、まるで私たち高木家のためにあるようなもので、私はこの桜に見守られて今まで育ってきた。
 名前に“桜”が入っている私は、成長するにつれてどんどん桜の美しさに惹かれてゆく。
「あら、美桜。帰ってたのね、早く家に上がりなさい」
 今は緑色の葉を光らせている桜の木の前で、物思いにふけっているかのように立ち止まっていた私を見つけた母が、玄関を開けて私を家に入れてくれた。
「ただいま。今日の夕飯なに?」
「今日は鯖の味噌煮よ」
「えー、魚なの」
「文句言わない」
「はいはーい」
 そんな、どこの家庭でも当たり前にやっているような会話をして、私は二階の自分の部屋に上がった。
「えーっと、今日の宿題はっと…」
 早速課題をやるべく宿題をメモした手帳を開いたとき、鞄の中の携帯がピロリンと鳴った。
 見ると、矢野からのメールだったので私は迷わずメールを開いた。
『今日は初めて一緒に帰れて良かった。…なんか恥ずかしいとこ見られたけど(笑)
 席替えもして高木と席が遠くなったのは残念だけど、よくよく考えたらそんなのほんのちっぽけなことだしな。しばらくは授業に集中するわ(笑)それで、よかったら今度の日曜日デートしないか?』
 矢野からのメールは以前よりずっと素直な言葉が連ねられていて、私は嫌でも彼と交際していることを意識させられる。あ、もちろん嫌じゃないけどね。
 特に最後の文を見て、私は一気に気持ちが高ぶった。
『こちらこそ、今日は何だかいろんなことが新鮮だったよ。
次の席替えまでに矢野よりうんと成績上げるから!(笑)
日曜日なら空いてるからもちろんおっけーだよ』
 送信。
 二分後。
『お互い勉強も頑張ろうな!
 良かった~。俺の友達がさ、お洒落なカフェ教えてくれたからそこ行こう。カフェだけじゃなくて、きっと高木が気に入る場所もあるから』
『本当に!それは楽しみだな。矢野が連れてってくれるカフェってどんなとこだろ!
 “私が気に入りそうな場所”、期待しとくよ~(笑)』
『…なんか、しれっとプレッシャーな気が…(笑)まあ期待しといて!日曜日楽しみにしてるな。んじゃ!』
 こんな感じで矢野とのメールも前より板についてきて、自然と会話が弾む。お互いの顔を見ないで話す分、いつもより素直になれている気がする。
「ふふっ」
 私は矢野とメールでやりとりしながら、思わず笑みがこぼれた。
 誰もいない部屋で一人で笑っているので、もし誰かいたら気味悪がられること間違いなしだが、今の私にとってはそんなことはどうでもよかった。
 少なくとも今この瞬間、私の世界には彼がいて、彼の世界には私がいる。
 この世でこれ以上幸せなことがあるだろうか。
 そう思うぐらい、私はメールのやりとりという単純なことでさえ何か特別なことのように感じられた。
 メールを終えて、宿題にとりかかってからも、私は言いようのない幸福感に満たされていた。
「美桜、ご飯できたわよー。おりてらっしゃい」
「は~い」
 ちょうど英語の宿題をやり終えた時、一階にいる母が私を呼んだので、私はいつものように返事をして階段を下りた。
「あ、お父さんいたんだ」
 食卓にはいつもは仕事で帰っていない父がいたので、私は驚いて声をかけた。
「なんだ美桜。俺がいたら困ることでもあるのか」
「いや、誰もそんなこと言ってないじゃん」
 父はあまり冗談が通じないタイプの人間なので、私は父と話すのが少し苦手だった。そんな父相手でも、母はやはり温厚で、私は二人が喧嘩しているところを見たことがない。
 いや、むしろそんな母がいるからこそ、家族が円満に暮らしていけているのかも。
「そういえば美桜、進路調査票出したの?」
 母が不意にそんなことを言ったのは、私が食卓について「いただきます」を言い、ちょうど鯖の味噌煮に箸を伸ばした時だった。
「しんろちょうさひょう…?」
 私は何か、異国の言葉でも聞いたかのようにその単語を復唱した。
「あら、知らないの?昨日美桜の鞄に入ってたの見たわよ」
「あ…」
 そういえば、先週の金曜日、坂井先生が「来週末までに出してください」って言ってたの忘れてた!
「美桜ったら、すっかり忘れてたでしょう」
「うぅ…」
「全く…配られたものはちゃんと確認せないかんぞ」
「は、はい…」
 これにはさすがの母も呆れ顔で、父にもたしなめられる始末だ。
「それで、美桜は志望校決めてるの?」
「全然決めてない」
「あらまあ、やりたいことは?」
「やりたいことねぇ…」
 進路に関する母の質問に全然答えられない私を見て、父が言った。
「美桜、目標の一つや二つぐらい持っておかなきゃだめだぞ。時間はあっという間に経つんだからな」
「そう言われても…」
「まあまだ一年生なんだから、いくらでも変更利くわよ。今行きたいと思う大学とか、やりたいと思う職業を書いとけばいいのよ」
「はぁーい」
 その後も何の考えもない私を父が注意し、母が宥めるという会話が続いた。途中から私が生返事をするだけで、二人がお互いの考えをひたすら言い合うだけになったけれど。
 私はいつまでも進路の話をされて耳が痛くなってきたので、いつもより早く夕飯を食べてそそくさと食卓から退散した。
 それから部屋に戻ると鞄の奥底から進路希望調査票と書かれたおぞましいプリントを発掘し、ペンを握って将来のことについて考え始めた。
 明確な将来の夢がない私は、専門学校に進学するという道はない。となれば、大学に進学するか就職するかだ。とはいえ、私の通っている浜辺高校は進学校なので、就職するという人は少数派で、実質大学進学の一択になるだろう。
「大学かぁ…」
 まだ高校に入ったばっかりなのに、もう大学のことを考えなきゃいけないなんて、息が詰まる。第一、高一の私が行きたい大学なんて決めているわけがない。
「提出、今週の金曜日までだし…もうちょっと考えよ」
 そうひとりごちて、私はお風呂に入ることにした。