第二章 雨雫 ⑧
七瀬いつきによってウサギが川に投げ捨てられてから一週間が経った。
「今日も…休みなんだ」
テスト期間が明けてから、私は以前のように演劇部の活動に参加していたが、蒼衣は一向に部室に来なかった。
文化祭の発表が終わり、三年生が引退するということで新しく今の二年生から部長やら副部長やらを決めないといけないのに、部長候補で肝心の蒼衣がやって来ない。
後輩たちも、いい加減別の人に部長を任せればいいじゃないですか、と抗議の目で二年生を見る。彼女が来ないこの一週間、とりあえず皆宙ぶらりんのまま各々の練習や作業に明け暮れた。
それから一日、二日…と日が経っても、蒼衣は一向に部活に来る気配がなかった。
「お疲れさまでーす…」
その日も彼女が来なかったせいで、私は肩を落としたまま部室を後にした。いや、彼女が来ないのはきっと私のせいなんだ。それは分かっている。でも、だからと言って私に何ができるんだろう。彼女が私を避けている限り、彼女を迎えに行くことも話し合うこともできない。私は無力だ。
通学鞄を肩に提げ、銀杏並木を歩く。吹きつける秋風が妙に冷たい。まるで、世界中のあらゆるものが私を嫌ってるみたいによそよそしく感じられた。
私が見えないものからの疎外感を覚えつつ、そろそろ銀杏並木を出るところまで歩いた時だった。
「美桜ちゃーん!」
後ろから大声で名前を呼ばれた私は咄嗟に振り返った。
久しぶりに聞いた陽詩の声はどこか切迫した感じで、走って私を追いかけてきた彼女は肩でゼエゼエ息をしながら、私の前に立ちはだかった。
「ど、どうしたの、陽詩」
私はなぜ彼女がこんなにも険しい顔をして突然自分の前に現れたのか分からなくて、思わずそう訊いた。
「行っちゃうっ…早くしないと…!」
「行っちゃうって、誰が…」
「蒼衣ちゃんだよ。お、追いかけないと!」
「蒼衣が、行っちゃう…?」
「そうだよっ。美桜ちゃん、早く行ってあげて!」
「待って陽詩、ちゃんと説明して!蒼衣が行くってどういうこと…?」
陽詩のあまりに慌てた様子と口走る言葉に困惑した私は、陽詩に詳しい事情を訊くことにした。彼女も彼女でいったん深呼吸して話し始める。
「美桜ちゃんが蒼衣ちゃんと仲違いしてから…あたし、蒼衣ちゃんの様子をずっと見てたんだけど…蒼衣ちゃん、ずっと寂しそうで…。でもあたしが話しかけても全然しゃべってくれなくて…。常に上の空っていうか、心ここにあらずの状態だったの。そんな状態がずっと続いてて、あたしもじっとしてられなくなって…それで、昨日の昼休みに蒼衣ちゃんを問い詰めたの。なんで美桜ちゃんのこと避けてるの?なんでそんな辛そうにして何も話してくれないの?って」
陽詩は胸の辺りを手で押さえながら真剣なまなざしを私に向けて話す。
私が蒼衣と顔を合わせていなかった間蒼衣がずっとどんな表情をしていたか、陽詩は一人で気にしてくれていたのだ。
「そしたら…そしたらね、蒼衣ちゃん教えてくれた。『ひなちゃんにだけ教えてあげる。私ね…家族で引っ越さなくちゃいけなくなったの。このことは絶対誰にも言わないで』って……」
「それって…そんな、まるで夜逃げみたいな――」
夜逃げ…?
そうだ、蒼衣の父親は確か数年前に多重債務者になって、それで……。
「……そう。多分蒼衣ちゃんもそのつもりで言ったんだと思う……。それでね、本当は明日引っ越す予定だったらしいの。でも、さっきうちに電話がかかってきて、急遽今日引っ越すことになったって!だからあたしにお別れをしたかったって……。でもあたしは、蒼衣ちゃんがこのまま美桜ちゃんと喧嘩したままでいいわけないって思ってるから、だから」
『蒼衣ちゃん…そのこと、美桜ちゃんは知ってるの?』
『…知らないと、思う』
『それなら、早く美桜ちゃんに教えなよ!』
『…それはいいの。お別れするのはひなちゃんだけで…』
『どうして?蒼衣ちゃんは美桜ちゃんのこと本当に嫌いなの?』
『私は……』
「美桜ちゃん、今すぐ蒼衣ちゃんのところに行って。お願い」
何かを思い出しているようだった陽詩が、普段より強めの口調でそう言った。私は彼女がここまで自分たちのことを考えてくれていたなんて思わなかった。私が蒼衣から離れていても、彼女がずっと蒼衣のことを見ていてくれた。
でも、それでも私は分からない。
蒼衣はもう、私とは関わりたくないと言った。
私が目障りなんだと、冷たい声で言った。
本当に蒼衣のことを考えるなら、私は蒼衣の気持ちを邪魔してはいけないんじゃないのか。
そうだ、このまま蒼衣と縁を切るのが彼女のためなんだ。
「…ごめん。私、やっぱり行けない。蒼衣は私が嫌いなの。だから私は蒼衣の気持ちを邪魔できない」
わがままだろうか。
自己中だろうか。
息せき切って私と蒼衣のためにわざわざ走って来てくれた陽詩に、私は詫びなければいけない。
陽詩は私の言葉を聞いた途端、信じられないというふうに呆然としていた。それから両目をぎゅっと瞑ってこう叫んだ。
「み、美桜ちゃんのバカ!!蒼衣ちゃんの気持ち、美桜ちゃんは全然分かってないよ!蒼衣ちゃんは……蒼衣ちゃんは……美桜ちゃんの投げ捨てられたウサギのストラップだって必死に探して見つけてくれてたんだよ」
「ウサギ……」
まさか、まさかまさか、そんなことがあるわけない。
だってあの時、七瀬いつきは思いっきりウサギを青鳥川に捨てたじゃないか。
川は流れも速くて、とてもじゃないが子供が入るには危険で。
そんな中大嫌いな私のために体を張ってウサギを探してくれただなんて。
「そんなの……」
「あるわけない?」
「うぅ…」
違う、違う、違う。
蒼衣は、本当(・・)の蒼衣ならきっと。
「美桜ちゃん、蒼衣ちゃんが本当に美桜ちゃんのことを嫌ってるって思う?もし本当に、美桜ちゃんのこと嫌ってるなら、蒼衣ちゃんの鞄についてるあのウサギだって、とっくに外してると思うよ」
陽詩の真っ直ぐな瞳が、私を見据えて動かない。
最後に蒼衣に会った時も紺色鞄にしっかりついていたピンクのウサギが私の頭をよぎった。
「……わないよ。思わない…いや、思いたくないよ」
そうだ、これが本当の私の気持ち。
私は蒼衣から嫌われてるなんて絶対思いたくない。このまま、蒼衣とすれ違ったまま終わりたくない。
陽詩はそんな私の本音を聞いてほっとしたように優しい目をして言った。
「そうだよ美桜ちゃん。蒼衣ちゃんが何を言ったって、美桜ちゃんだけは信じてあげて。美桜ちゃんだけが、蒼衣ちゃんの本当の気持ちを分かってあげられるから」
「うん、ありがとう陽詩」
それから陽詩は「さあ」と言って私を前に進むよう促した。
行こう、蒼衣の家に。
今ならまだ間に合う。まだ蒼衣を裏切らずに済む。
出会った時から胸にいっぱい寂しさを抱えて生きていた蒼衣の気持ちを今慰められるのは、私しかいないのだから。
七瀬いつきによってウサギが川に投げ捨てられてから一週間が経った。
「今日も…休みなんだ」
テスト期間が明けてから、私は以前のように演劇部の活動に参加していたが、蒼衣は一向に部室に来なかった。
文化祭の発表が終わり、三年生が引退するということで新しく今の二年生から部長やら副部長やらを決めないといけないのに、部長候補で肝心の蒼衣がやって来ない。
後輩たちも、いい加減別の人に部長を任せればいいじゃないですか、と抗議の目で二年生を見る。彼女が来ないこの一週間、とりあえず皆宙ぶらりんのまま各々の練習や作業に明け暮れた。
それから一日、二日…と日が経っても、蒼衣は一向に部活に来る気配がなかった。
「お疲れさまでーす…」
その日も彼女が来なかったせいで、私は肩を落としたまま部室を後にした。いや、彼女が来ないのはきっと私のせいなんだ。それは分かっている。でも、だからと言って私に何ができるんだろう。彼女が私を避けている限り、彼女を迎えに行くことも話し合うこともできない。私は無力だ。
通学鞄を肩に提げ、銀杏並木を歩く。吹きつける秋風が妙に冷たい。まるで、世界中のあらゆるものが私を嫌ってるみたいによそよそしく感じられた。
私が見えないものからの疎外感を覚えつつ、そろそろ銀杏並木を出るところまで歩いた時だった。
「美桜ちゃーん!」
後ろから大声で名前を呼ばれた私は咄嗟に振り返った。
久しぶりに聞いた陽詩の声はどこか切迫した感じで、走って私を追いかけてきた彼女は肩でゼエゼエ息をしながら、私の前に立ちはだかった。
「ど、どうしたの、陽詩」
私はなぜ彼女がこんなにも険しい顔をして突然自分の前に現れたのか分からなくて、思わずそう訊いた。
「行っちゃうっ…早くしないと…!」
「行っちゃうって、誰が…」
「蒼衣ちゃんだよ。お、追いかけないと!」
「蒼衣が、行っちゃう…?」
「そうだよっ。美桜ちゃん、早く行ってあげて!」
「待って陽詩、ちゃんと説明して!蒼衣が行くってどういうこと…?」
陽詩のあまりに慌てた様子と口走る言葉に困惑した私は、陽詩に詳しい事情を訊くことにした。彼女も彼女でいったん深呼吸して話し始める。
「美桜ちゃんが蒼衣ちゃんと仲違いしてから…あたし、蒼衣ちゃんの様子をずっと見てたんだけど…蒼衣ちゃん、ずっと寂しそうで…。でもあたしが話しかけても全然しゃべってくれなくて…。常に上の空っていうか、心ここにあらずの状態だったの。そんな状態がずっと続いてて、あたしもじっとしてられなくなって…それで、昨日の昼休みに蒼衣ちゃんを問い詰めたの。なんで美桜ちゃんのこと避けてるの?なんでそんな辛そうにして何も話してくれないの?って」
陽詩は胸の辺りを手で押さえながら真剣なまなざしを私に向けて話す。
私が蒼衣と顔を合わせていなかった間蒼衣がずっとどんな表情をしていたか、陽詩は一人で気にしてくれていたのだ。
「そしたら…そしたらね、蒼衣ちゃん教えてくれた。『ひなちゃんにだけ教えてあげる。私ね…家族で引っ越さなくちゃいけなくなったの。このことは絶対誰にも言わないで』って……」
「それって…そんな、まるで夜逃げみたいな――」
夜逃げ…?
そうだ、蒼衣の父親は確か数年前に多重債務者になって、それで……。
「……そう。多分蒼衣ちゃんもそのつもりで言ったんだと思う……。それでね、本当は明日引っ越す予定だったらしいの。でも、さっきうちに電話がかかってきて、急遽今日引っ越すことになったって!だからあたしにお別れをしたかったって……。でもあたしは、蒼衣ちゃんがこのまま美桜ちゃんと喧嘩したままでいいわけないって思ってるから、だから」
『蒼衣ちゃん…そのこと、美桜ちゃんは知ってるの?』
『…知らないと、思う』
『それなら、早く美桜ちゃんに教えなよ!』
『…それはいいの。お別れするのはひなちゃんだけで…』
『どうして?蒼衣ちゃんは美桜ちゃんのこと本当に嫌いなの?』
『私は……』
「美桜ちゃん、今すぐ蒼衣ちゃんのところに行って。お願い」
何かを思い出しているようだった陽詩が、普段より強めの口調でそう言った。私は彼女がここまで自分たちのことを考えてくれていたなんて思わなかった。私が蒼衣から離れていても、彼女がずっと蒼衣のことを見ていてくれた。
でも、それでも私は分からない。
蒼衣はもう、私とは関わりたくないと言った。
私が目障りなんだと、冷たい声で言った。
本当に蒼衣のことを考えるなら、私は蒼衣の気持ちを邪魔してはいけないんじゃないのか。
そうだ、このまま蒼衣と縁を切るのが彼女のためなんだ。
「…ごめん。私、やっぱり行けない。蒼衣は私が嫌いなの。だから私は蒼衣の気持ちを邪魔できない」
わがままだろうか。
自己中だろうか。
息せき切って私と蒼衣のためにわざわざ走って来てくれた陽詩に、私は詫びなければいけない。
陽詩は私の言葉を聞いた途端、信じられないというふうに呆然としていた。それから両目をぎゅっと瞑ってこう叫んだ。
「み、美桜ちゃんのバカ!!蒼衣ちゃんの気持ち、美桜ちゃんは全然分かってないよ!蒼衣ちゃんは……蒼衣ちゃんは……美桜ちゃんの投げ捨てられたウサギのストラップだって必死に探して見つけてくれてたんだよ」
「ウサギ……」
まさか、まさかまさか、そんなことがあるわけない。
だってあの時、七瀬いつきは思いっきりウサギを青鳥川に捨てたじゃないか。
川は流れも速くて、とてもじゃないが子供が入るには危険で。
そんな中大嫌いな私のために体を張ってウサギを探してくれただなんて。
「そんなの……」
「あるわけない?」
「うぅ…」
違う、違う、違う。
蒼衣は、本当(・・)の蒼衣ならきっと。
「美桜ちゃん、蒼衣ちゃんが本当に美桜ちゃんのことを嫌ってるって思う?もし本当に、美桜ちゃんのこと嫌ってるなら、蒼衣ちゃんの鞄についてるあのウサギだって、とっくに外してると思うよ」
陽詩の真っ直ぐな瞳が、私を見据えて動かない。
最後に蒼衣に会った時も紺色鞄にしっかりついていたピンクのウサギが私の頭をよぎった。
「……わないよ。思わない…いや、思いたくないよ」
そうだ、これが本当の私の気持ち。
私は蒼衣から嫌われてるなんて絶対思いたくない。このまま、蒼衣とすれ違ったまま終わりたくない。
陽詩はそんな私の本音を聞いてほっとしたように優しい目をして言った。
「そうだよ美桜ちゃん。蒼衣ちゃんが何を言ったって、美桜ちゃんだけは信じてあげて。美桜ちゃんだけが、蒼衣ちゃんの本当の気持ちを分かってあげられるから」
「うん、ありがとう陽詩」
それから陽詩は「さあ」と言って私を前に進むよう促した。
行こう、蒼衣の家に。
今ならまだ間に合う。まだ蒼衣を裏切らずに済む。
出会った時から胸にいっぱい寂しさを抱えて生きていた蒼衣の気持ちを今慰められるのは、私しかいないのだから。