――朝起きたら、記憶がなくなっていた。
覚えていることといえば、「ハル」という自分の名前だけ。23歳だということと俺自身が何者なのかは、母親を名乗る人物が教えてくれた。もちろんその人の記憶はない。
「ハル、あなたはきっと疲れちゃったのよ。ゆっくり休めば、きっとすぐに記憶が戻るわ」
母親を名乗る人物が冷たい笑顔で言った。
「お前の記憶が戻り次第、結納の手続きを進める」
父親を名乗る人物が目も合わせずに言った。
「ハルー、俺達のこと覚えてないのかよ?ほんとに?早く記憶戻してまた飲みに行こうぜ」
俺の友達を名乗る奴らがゲラゲラと笑いながら言った。
「ハル様はみんなにお優しく、聡明で素晴らしいお方でしたよ。早く記憶が戻るといいですね」
家にいた家政婦さんが平坦な声で言った。
聞けば俺は、そこそこのお坊ちゃんだったらしい。まぁ記憶にはないが。周りが早く記憶を取り戻してほしいと思っているのは、何となく感じ取っていた。だが思い出そうとすればするほど、記憶の箱は固く閉ざされてゆく。枕の感触も、いつも食べていた料理の味も、自分の親の顔すら覚えていないのに。他人に等しい奴らが放つ上っ面の言葉なんかじゃ、何も響かなかった。思い出の地に連れてこられても、いくら友達が会いに来ても、いつまでたっても俺の記憶は戻らなかった。
誰の期待にも答えられず家にいるのが嫌になってきた頃、
「別に戻らなくてもいいんじゃない?記憶」
「……え?」
何でもないような顔をして、彼女はさらりと言ってのけたのだ。
彼女が背負っている太陽がやけに眩しくて、俺は思わず目を細めた。蝉の声がうるさく響く、とある夏の日の出来事だった。