「身の程もわきまえず、よりによって男と帰ってくるなんて」

 静かな声が、かえって恐ろしい。身体がすくんで、床に這いつくばったまま動けなかった。目の前に、理香子さんの赤く塗られた足の爪があらわれる。その足元から、フローリングが凍りついていくようだった。

「はしたない子。やっぱりあんたは悪魔の子なんだわ。汚らわしい」

 吐き捨てられ、襟首を掴まれて引っ張り起こされた。

「来なさい」

 強引に腕を引かれてドアに身体をぶつけた。そんなことはお構いなしで、理香子さんは奥の自室に進んでいく。痛いほど腕を握られ、恐怖がこみ上げる。歯が震えて、うまく言葉にならない。

「ごめ、なさ」

「どうもわかってないみたいだから、あんたに教えてあげるわ」

 部屋のなかは異様な臭いが立ち込めていた。アルコールとタバコと体臭と、そのほかのいろんなものが混じった空気にむせそうになる。黄ばんだ壁に私を押し付けると、理香子さんは真正面から私を覗き込んだ。

 川崎七都を思わせる二重まぶたの目が、ぎょろっと見開かれる。何をされるのかと、恐ろしさに目を伏せたら、「こっちを見ろ!」と怒鳴られた。

 おずおずと、顔を上げる。そして自分がこれまでまともに理香子さんと目を合わせてこなかったことに気づいた。

 理香子さんの顔には、違和感があった。

 彼女の目は、よく見ると左右で虹彩の色合いが違っていた。ぱっと見ただけではわからない、ごくわずかな違いだ。それに右目だけ、どことなく動きがかたい。ふいに、彼女は人差し指で右目の下まぶたを引っ張った。



 息ができなかった。

 まるでコンタクトレンズを外すように、彼女は右の目を取り出した。彼女の右目だったものが、するりと手の中に落ちる。

「七都には見せたことがないのよ。ショックを受けるかもしれないと思って。さすがにもう気づいてるでしょうけどね」

 声が出ない。身体が痙攣したみたいにがくがく震える。理香子さんが、左目だけで私を睨みつけた。

「なに怖がってんのよ! 義眼よ! はじめて見たの? もっとよく見たら!? ほら!」

 たとえるなら、それは眼球を覆う大きさのコンタクトレンズだった。ただし透明ではなく乳白色で中央に理香子さんの左目にそっくりな黒目が浮かんでいる。それを私に押し付けて、彼女は力いっぱい叫ぶ。

「これはね、あんたの母親がやったのよ! あんたの母親のせいで、私は右目を失ったの!」

 言葉がぎざぎざの刃に変わり、胸に突き刺さる。吸い込んだ息を、吐き出すことができなかった。

 そんなはずはない、母は人を傷つけるような人間じゃない、と訴えたいのに、声にならない。

 私は母をかばえるような過去をなにも知らず、理香子さんは現実に右目を失っていて、私には川崎七都と同じ血が流れている。

「あんたの母親に突き飛ばされて私は……」

 ふっくらとした母の善良そうな笑顔が切り裂かれていく。理香子さんの恐ろしい言葉ばかりが私に巻きついて、ぎりぎりと心臓を締め付けた。

「あの女は悪魔よ! 私から何もかも奪った悪魔! あんたはね、そんな悪魔の娘なのよ!」

 金切り声に、目の前が真っ暗になる。崩れ落ちそうになる私の肩をつかみ、理香子さんは額がぶつかるほど私に顔を近づけた。



 義眼を外した彼女の右目は、空洞ではなかった。閉じかけた目のすきまに、まぶたの裏側と同じような粘膜がのぞいている。視力に影響しない形ばかりの代用品を握り締め、理香子さんは私を激しく揺さぶる。

「あんたみたいに、悪い血筋の子が、誰かとまともに関係を築けるわけないでしょう!」

 世界がひっくりかえったように視界がゆらいで、吐きそうだった。胃も、肺も、心臓も、身体のなかでバラバラに動いている気がする。

「私はあんたのために言ってるのよ!」

 左目から涙を流す理香子さんが恐ろしかった。失った瞳のぶんまで、残された瞳に憎しみが燃え上がっている。

「誰かを傷つける前に、あんたから離れなさい! あんたは誰にも優しくされる資格なんてないのよ!」

 理香子さんの声がだんだん遠のいていく。

「全部あんたの母親のせいよ――」

 痛い。

 肺が張り裂けそうで、呼吸ができない。あらゆる痛みがごっちゃになって私を締め付ける。

 怒りをすべてぶちまけて、理香子さんは崩れ落ちた。私の足元で、子どものようにうずくまって泣いている。

 すすり泣く声を聞きながら、肺に詰まった空気を切れ切れに吐き出した。喉が痙攣して、息が吸えない。

 とても寒かった。
 暗闇に置き去りにされたように、見えない。何も――












だからふたりは、
繋がった手を握りしめ







* * *

 すっかり緑に覆われた桜が、顔の上で木漏れ日を躍らせる。
 上空では風が吹き荒れているようだった。白い雲が、少しずつ形を変えながら競うように泳いでいく。そのなかに穴のあいた雲を見つけた。

 穴が三つ逆三角形の位置に並んでいると、なんでもかんでも人の顔に見える。でもそれは私にだけ起こるものではなく、人間の脳が引き起こす錯覚できちんと名前がついている現象らしい。それでも、人間の顔にまで穴があいているように見えるのは、きっと私だけだ。

 次々に流れていく雲を眺めながら、穴顔のほうがいいのかもしれない、と思った。

 人の顔は、ときどき感情を表に出しすぎる。いつ歪むか知れない顔にこわごわ接しているより、それ以上変化のしようがない穴顔を見ているほうが、心穏やかに過ごせる。

「ようやく見つけた!」

 ぱっつん前髪の女子生徒が屋根の上にひょっこり顔を出した。よいしょっと声をあげて、マリがのぼってくる。

「もう、瑞穂ちゃん、休み時間のたびにどっか行っちゃうんだもん」

「よく、ここがわかったね」

 寝転がったままつぶやくと、

「勘が冴え渡ってたの。さすが私!」

 得意げに言い、彼女は私のとなりに腰を下ろす。その顔は、どことなく嬉しそうだ。

「瑞穂ちゃんもなかなかアクティブじゃない。こんなとこにのぼるなんて」

「……前、ここで昼寝をしてる人を見たから」

 倉庫の屋根は桜の枝に隠されていて、寝そべってしまえば校舎の窓から見つけられる心配もない。桜の幹のこぶに足をかけて枝にのぼれば、あとは倉庫の窓を足がかりにして簡単に屋根までのぼれてしまう。
 もちろん白昼夢のなかで『僕』が使っていた方法を真似ただけだ。

 一度屋根の上に寝転がると、そこは想像以上に居心地のいい場所だった。これからの季節は毛虫や蝉に注意したほうが良さそうではあるけれど。


「瑞穂ちゃん、なにかあった?」

 あまり細かいことを気にしなさそうなタイプなのに、彼女は私を見て眉をさげる。

「元気ないみたい」

「そんなことないよ」

 心とは裏腹に、そう答えた。

 本当は、マリの生き生きした表情を見たくなくて、休み時間はなるべく顔を合わせないように校舎をうろついたり、職員用のトイレに行ったりして時間をつぶしていた。

 理香子さんの言うとおり、彼女から離れようと思ったのだ。これ以上一緒に過ごしていたら、私はいつか思いもよらないことで彼女を傷つけてしまうかもしれない。

 ふいに頬をぐにっとつかまれた。横たわる私にのしかかるようにしてマリは私の頬を上下にゆさぶる。

「瑞穂ちゃん、表情筋マヒしてる? ぴくりとも動かないけど」

 手を縦横にひっぱりながら、レントゲン画像を見入る医者のように真剣な表情で私を覗き込む。

「い、痛いよ」

「おかしいな。全然痛そうじゃない」

 そう言って指に力を込める。それがまた容赦のないつまみかたで、私は悲鳴をあげた。

「痛いってば!」

 振り払うと、マリは安心したように肩を下げた。

「あ、痛いって顔になった」

「なに、それ」

 頬をさする私に「ごめんごめん」と言って、彼女はポケットから野球ボール大のアルミ箔を取り出した。

「ねえ瑞穂ちゃん、お弁当交換しない?」

「え?」

 手をつけないまま放置されている私の弁当箱を見て、マリはにっこり微笑む。

「トレードしよう、トレード」

 ぐいっと押し付けられたアルミ箔の中身は、海苔で巻かれた大きなおにぎりだった。大きさも、ずしりとした重さも、自分でつくっていたものに似ていてなんだか懐かしい。
 食欲がまったくなかったのに、つやめく海苔の塊を見ていたらきゅるると胃が反応した。



 横目で見ると、彼女はどうぞ、というように頷く。

「じゃあ、いただきます……」

 一口かじると、海苔の風味が香った。ふっくらと炊き上がったお米は冷めていても甘みがあり、口の中にとろりとした濃厚な味わいが広がる。

「これって……」

「煮玉子だよ。我が家のとっておきの具材」

 つやつやした米の真ん中でオレンジ色の黄身は宝石みたいに輝いている。

 ふいに胸が詰まった。

 ツナマヨや高菜や明太子などの定番具材はもちろん、サバ缶や肉味噌やチーズなど、季節や食費事情によって、我が家のおにぎりは具材がさまざまだった。
 食べることが大好きな母は、どれも美味しいと褒めてくれたけど、特別に気合を入れたい日や、お祝いごとがあった日にリクエストする具材は、いつもこれだった。

 味付けの濃さもちょうどよく、コクのある黄身と白身の食感がごはんと海苔ととてもよくあう。

「マリちゃんちって、うちと嗜好が似てるのかな。同じ渡辺だし、もしかして遠い親戚だったりして」

「えーそんなわけないから」

 おかしそうに白い歯を見せていた彼女が、驚いたように笑いを引っ込めた。

「瑞穂ちゃん、そんなにおなか空いてたの?」

 いつのまにか頬を涙がつたっていた。私は口いっぱいにおにぎりを頬張りながら、涙の塩味が混じった懐かしい味を噛み締める。

「美味しいでしょ? うちのおにぎり」

 マリの声は優しかった。

「おい、しい」

 かぶりついて咀嚼して飲み込んで、私は鼻をすすりながらおにぎりを食べた。

 青い空も穴のあいた雲も、となりで優しく笑う彼女も、すべてが胸に沁みる。

 懐かしくて幸福だった時間を思い出しながら、温かさと切なさを一緒に飲み込むように、私はひたすら口を動かした。



 傷つける前に離れようと思っても、マリは暗闇を照らす太陽のように私を引き寄せる。あるいはブラックホールのように、あらがうことのできない引力をもって私を吸い込む。

「マリちゃんて、本当に変な人だね」

 教室に戻る途中の廊下は賑やかだった。いたるところでロッカーが開閉され、五時間目の授業に備える生徒たちが談笑している。といっても、ここでは談笑という言葉はふさわしくないかもしれない。私には彼らの笑った顔が見えないのだから。

「ちょっと瑞穂ちゃん、このあいだから私の評価ひどくない?」

「褒めてるんだよ」

「全然そんな気しないんだけど!」

 穴顔の生徒とちがって、マリはとても表情に富んでいる。ただでさえ目を引く外見をしているのに、言動がはっきりしているからますます目立つ。

 それに比べてすれ違う生徒たちは喜んでいるのか悲しんでいるのか、その胸に抱いている感情がまったくわからなかった。むしろみんな同じに見える。だからこそ、特別に興味を抱く対象にはなり得ない。

 そう考えると、となりを歩く彼女が今更ながら貴重な存在に思えた。

「ねえマリちゃん。いまから変なこと訊くけど、深く考えないで思ったことを言ってくれる?」

「なんだか難しい注文だなぁ」

 前を向いたまま、私は何気ないふりを装って話し始める。

「ひとりの女の子が、ある日突然人の顔を見分けられなくなったの。人間はみんな穴が三つあるだけの顔になって、誰が誰だかわからない。実際にはちゃんと顔があってみんな普通に暮らしてるのに、彼女にだけ見えないの」

 横目で見ると、彼女は眉間に皺を寄せながら、目を閉じて私の言葉をもごもごと反芻している。彼女の様子をうかがいながら、先を続けた。



「でもね、ごく数人だけ、顔がわかる人がいたの。表情が消えた世界で、ごくごく一部の人だけが笑ったり泣いたり、自在に表情をつくってる。それってどういうことだと思う?」

 マリがちらりと私を見る。

「それって、精神的な話? 女の子の心が疲れてて、そういう症状が出てるってこと?」

「うん。たぶん」

「じゃあ、原因があるわけだ」

 彼女の言葉で、私の頭も絡まった糸がひとつひとつ解かれていくように整理されていく。人に話したことで、自分のなかにわだかまっていたものが薄れたような気がした。たとえ問いかけに対する答えを得られなくても、言葉にするだけで気持ちは楽になるのかもしれない。

「女の子自身は、そうなった原因が大切な人に裏切られたせいだと思ってる」

 私が知っている母は、私が知らない過去を背負っていた。私には優しかったけど、外では違う一面を見せていたのかもしれない。私が見抜けなかっただけで、母は、本当は――

『あの女は悪魔よ!』

 理香子さんの恐ろしい怒鳴り声が、傷ついた人間の悲痛な叫びに変わる。

「目に見えるものだけが真実とは限らない」

 凛とした声に思わず振り返った。マリは遠くを見るようにつぶやく。

「一番大切なことは、目に見えない」

「え……」

 彼女ははっとしたように表情を緩めた。

「あ、受け売りっていうか。どっかで聞いた言葉なんだけど、何かに悩んだときに思い返すと結構的を射てるんだよね」

 彼女の言葉を頭のなかで繰り返す。

 見たものだけが真実とは限らないのなら、私が見てきた母は偽りの姿で、理香子さんの言う悪魔のような母が本来の姿だったということだろうか。それとも、私が見た理香子さんの姿も、真実ではないのか。

 こんなふうに考えていると、すべての物事を信じられなくなりそうだ。何が嘘で、何が本当なのかわからなくなる。