自転車の後ろに乗って、坂道をおりる。泣いたせいで火照った顔を、風が冷やしてくれる。遊馬は何も言わないまま、私を川崎家まで送り届けてくれた。

 塀の前に立つシルエットに一瞬ぎくりとしたけれど、玄関ポーチの明かりで七都だとわかり、遊馬は自転車を門扉の前に停める。

「おせえ!」

 焦れたように七都が私の腕を掴んだ。

「今なら玄関から入れる。はやく」

「う、うん、待って」

 私は遊馬を振り向いた。ハンドルを握った手に、両手をかぶせる。風を受けたせいか、彼の手はしっとりと冷えていた。

「今日、ごめんね」

 遊馬は固まったように私を見ている。いつも朗らかに笑っている彼からしたら、めずらしい表情だ。

「来てくれてありがとう。嬉しかった」

「え、い、いや」

 目をきょときょと動かしている彼に「おやすみなさい」と告げて、私は七都と玄関をくぐった。

 音を立てないように扉を閉じ、スニーカーを脱いで下駄箱にしまう。七都が「しいっ」と人差し指を口元に立てて、先に廊下を進んだ。手招きをされ階段まで急ぐ。すぐ脇の脱衣所からドライヤーの音が聞こえていた。

「七都ぉ?」

 声がして、ふたりで固まる。一瞬遅れて、七都が「何?」と声を張り上げた。脱衣所のほうを見ながら、早く行けというように手を動かす。私は息を殺しながら階段をのぼった。

「お風呂空いたわよぉ」

「わかった、入る」

 答えながら、わざと音を響かせるようにして七都が階段をのぼってくる。私が部屋に入ると、彼は目配せをするように私を見て、扉を閉めた。かちゃん、と鍵のかかった音がする。

 それを聞いて、一気に力が抜けた。それから私は、部屋の中に人影を見つけた。








 花火の音が消えて、あたりには静かな闇が広がっている。窓の外にはいつのまにか月が見えていた。月明かりを背負うように、彼女は窓際に立っている。

「マリちゃん……?」

 制服姿の彼女は、にこっと表情を崩した。

「やっほ、瑞穂ちゃん。やっぱり来ちゃった」

「え、なんで、どこから」

 言いかけて、カーテンがわずかに揺れていることに気づく。

「まさか、窓から?」

 にこりと笑って、彼女は近づいてくる。

「花火、見れた?」

「うん、マリちゃんは、どうして」

「なんか急に、瑞穂ちゃんに会いたくなって」

 そう言ってから、声を落とす。

「なんだか、心配になって」

 風が吹き抜けた気がした。ひとつきりの窓は、風を呼びこむはずがないのに。

 制服姿のままのマリは、家に帰らなかったのだろうか。もしかすると、彼女にも、人には言えない悩みがあるのかもしれないと思った。だからこそ、私が抱えている後ろ暗さを敏感に察知する。

 何かに思い悩むなんて強い彼女からは想像もつかないけれど、私はもう、見えるものがすべてだとは思わない。

 月明かりに、マリは青白く浮き上がる。

「瑞穂ちゃん。顔は見えるようになった?」

 いつだか彼女に話したことがある。顔が見えなくなった女の子の話だ。

「私のことだって……気付いてたの?」

 見抜かれていると思った。きっと彼女には、私の心の揺れがすべて伝わっている。その証拠に、いつもハツラツとしている彼女の表情が、さっきから優しい。

 私はベッドに腰を下ろし、首を振った。公園の見晴台にいたカップルたちも、自転車ですれ違った花火帰りの親子連れも、みんな揃って穴顔だった。

「私、ダメなんだ」

 やっぱり、信じることが恐い。

 気持ちは少しずつほどけて、遊馬や七都と繋がれたような気になっていたけれど、私の根底にある不信感はぬぐえていない。



「自分のことが、信じられない?」

 となりにマリが座った。優しい口調で、いたわるように私を見る。

「自分の感覚が、正しいのかどうか……わからない」

 私の価値観は、母が小さい頃から時間をかけて植え付けたものだ。それを疑っている私は、母を信じていないということになる。

「こわい」

 ――恐怖心はなくならないよ。だから、コントロールするしかない。

 遊馬の声を思い出す。だけど、私には、どうしてもそれを制御することができない。

「いつか、遊馬も七都も、マリちゃんも、穴顔になっちゃったら、どうしよう」

 声が震えた。

 穴顔のほうがいいなんて嘘だ。たしかに他人の表情ひとつで落ち込んだり悲しくなったりすることもあるけれど、それ以上に喜びだって得られる。

 浮かんだ表情ひとつで、人とのつながりを強く感じられる。
 だから私は、彼らの笑った顔や怒った顔を、失いたくない。

「でも、どうしても、お母さんのこと、信じられなくて」

「大丈夫」

 マリの手が、ふわりと私の頭に触れる。遊馬がそうしてくれたように、彼女も、私を優しく撫でてくれる。

「瑞穂ちゃん、眠って」

 私をベッドに横たわらせて、彼女は横から顔を覗きこむ。

「心が疲れてると、全部悪いほうに考えちゃうから」

 横になった私の額に、マリの冷えた指先が触れる。その温度が心地いい。

「おやすみ、瑞穂ちゃん」

 大丈夫だよ、とまるで子守唄のように彼女はささやく。

「私は瑞穂ちゃんのこと、ちゃんと信じてるから」

 不安をぜんぶ包み込んでくれるような、安心できる声だった。

 私は目を閉じる。全身がぬかるみに沈んでいくように、少しずつ、意識が薄れていった。












そして、この世界は崩れ落ちる。











◆ ◆ ◆







 これまで順風満帆な人生だった。

 大人が聞いたら、十六年しか生きてないくせに何を言ってるんだと笑いそうだけど、実際にそうなのだ。

 それなりに裕福な家庭に生まれ、欲しいものはなんでも手に入れることができたし、外見も恵まれているせいか、親からも周りからも可愛いと愛されながら育ってきた。

 それなのに、私の心は空っぽだ。おもちゃもお菓子も、愛情ですら、欲しがる前に与えられてしまった私には、渇望するほど手に入れたいと思うものがない。

 無欲、無感情、無気力。私のなかにあるのは『無』ばかりで、表面上は友達と笑い合っていても、心が満たされることはなかった。

 毎日がつまらない。そんな思いで高校に通っていたある日、あのふたりを見たのだ。

 最初は下校途中のグラウンド脇で。その次は一階の渡り廊下で。彼らはいつも私の視界に飛び込んできた。全校集会の体育館でも、生徒で賑わう生徒玄関でも。

 リボンとネクタイ、そして上靴のラインカラーから、ふたりが上級生であることはわかっていた。

 微笑み合い、静かに視線を交わす彼らは、それだけで世界が完結していた。お互いが足りないものを補い合い、尊敬しあい、喜びに満たされている。

 それは強烈な幸福感だった。私が持っていないもの。ひとりでは、手に入れられないもの。

 あれが、欲しい。

 それはたぶん、私が感じた、最初で最後の強い渇きだった。






・ 

 夏休みが明け、過ごしやすい季節になった頃、委員会の集まりを終えた放課後の校舎には薄暗い影が忍び寄っていた。

『君は、俺じゃなくて、『彼女』のことが好きなんじゃないの?』

 手に入れようと思って接触した片割れの雪春先輩は、あっけなく私を拒絶した。

『悪いけど、俺はアクセサリーじゃないんだ』

 去っていく背中を呆然と見つめる。

 私が欲しいのは、空洞を満たしてくれるものだ。彼と彼女がまとっている空気なのだ。

 差し込んでいたオレンジ色の光が、いつのまにか消えていた。窓ガラスに映った自分を見て、喉の奥を冷えたものが圧迫しながら落ちていった。

 私はカバンからハサミを取り出した。背中までのびたまっすぐの黒髪に、刃を当てる。そのまま、力を込めた。切れ味の悪いハサミでは、髪の束をまっすぐに切れない。引っ掛かって不揃いに切断された毛髪が、ばらばらと床に散らばった。


 それ以来、彼らを見かけると言いようのない感情が胸に迫った。それは、拒まれたことでより強固になった欲求だったのかもしれない。

 地面に降り積もる雪のように少しずつ時間をかけて、私の心にはふたりへの思いが蓄積されていった。真っ白だった感情は時間が経つごとに変色し、黒く濁っていく。

 しばらくして、雪春先輩が大学の推薦入試を終えたことを知った。教室で告白をしてから一年と少しが経過し、二回目の冬が訪れた頃だった。大学に進学する彼と違い、彼女のほうは就職をするらしい。

 あと三ヶ月も経てば、ふたりはこの学校からいなくなってしまう。

 それは恐怖にも似た感情だった。私はなにひとつ、彼らの幸福感を手にしていないのに。






「先輩、ちょっといいですか」

 三年の教室に出向いた私は、今度は彼女のほうに接触した。最初に見たときと変わらない長い黒髪は、まるで意志の強さを表しているみたいにまっすぐで艶やかだ。

 私は彼女を家庭科室に連れて行った。家庭科部の活動は週に一回だけで、今日は使われない日だとわかっていた。忘れ物を取りに行くという名目で借りてきた鍵を使い、私は彼女を伴って中に入る。

 冬休み直前のこの時期、放課後の校内は閑散としている。ひんやりとした空気に包まれながら、私は彼女を見つめた。

「私、あなたのことが嫌いなんです」

 彼女は大きな目を丸めた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、「ああ、そうなの」となんでもないように答える。

「それで?」

 嫌いだと告げたのに、彼女は落ち込むどころか生き生きと目を光らせている。そういうところは嫌いじゃないけれど、私は彼女とは違う。

「あなたに憧れてなんかいない」

 私は隠し持っていた裁縫用の裁ちばさみを胸の前に掲げた。小さなハサミでは切れ味が悪いけど、これならあらゆるものを一刀両断できそうだ。

「物騒なもの取り出して、どうするの?」

 彼女の目に、警戒の色がともる。私が一歩前に出ると、同じ距離だけ彼女は退いた。

「髪を切らせてください」

 美しい顔が、はじめて怪訝に歪んだ。

「目障りなの。その長い髪」

 私が飛びつくと、彼女は小さく悲鳴を上げた。指の隙間から黒い髪がさらさらこぼれる。それを掴むと、反対にハサミを持った手を押さえられた。

「離して!」

「嫌よ。私には髪を切る理由なんてない」

 掴みあった手が、ぎりぎりと震える。私は掴んだ髪を離し、細い肩を思い切り突き飛ばした。床に倒れ込んだ彼女に馬乗りになる。

「だったら死んでよ! あなたがいると、私は空っぽのままなの!」



 この人がいなくなれば、私と雪春先輩で世界を完結できる。いや、命そのものを奪わなくても、身体のどこかが欠落してしまえば、雪春先輩とつくりだしていた世界は崩れる。彼女には、その資格がなくなる。そうすれば、私が――

 ぐらぐらと頭の中が煮え立っているみたいだった。視界が真っ赤に燃えたように映る。彼女の細い喉に、とがった刃先を突きつける。

「私は幸せになりたいんです」

 白い喉から刃先をずらし、床に散らばった髪をすくいあげる。そのとき、勢いよく扉がひらいた。

「おい、なにやってんだよ!」

 突き飛ばされて、私は食器棚に頭をぶつけた。裁ちばさみが床を滑る。後頭部がじんじん痺れた。棚につかまりながらどうにか立ち上がり、転がったハサミを拾い上げる。

 見ると、雪春先輩が彼女を助け起こしていた。

「邪魔をしないでください、雪春先輩」

「お前、ちょっと落ち着けよ」

 家庭科室の冷えた空気が、三人を包み込む。私が得られない完全な世界を、ふたりはこんなところでもつくりだす。つながったふたりの手を断ち切りたい。

 ハサミを振り上げて踊りかかった瞬間、

「だから、やめろって」

 彼女をかばった雪春先輩が、ハサミを持った私の手を押しのけた。その拍子に彼の上靴につまづいて、私は勢いを保ったまま机にぶつかった。

 強烈な衝撃に、何が起きたのかわからなかった。ステンレスの天板が貼られた家庭科室の机は、角が尖っている。そこに右目をしたたか打ち付けたことだけはわかった。

 不思議と痛みはなかった。ただ目をぶつけたくらいにしか思わなかった。私以外の誰かが悲鳴を上げる。急激に狭まった視界のなか、床に転がった裁ちばさみが見えた。

 私はゆっくりと振り返る。左目に映ったのは、真っ青な顔をした雪春先輩だった。
 
◆ ◆ ◆