私が目を覚ますと、目の前に堤さんの顔があった。
「あ、しまった。起こしちゃった」
「ん……?」
どうやら彼の方が先に起きていたらしい。
寝顔を見られていたことに恥ずかしさを覚えつつ、全身を覆う違和感に気づく。
私、なにも着てない……!
はだけていた胸元に、慌てて掛け布団を押し付ける。
堤さんはそんな私をおかしそうに笑った。
「今さら恥ずかしがらなくていいじゃん」
そういう堤さんはちゃっかり服を身に着けている。
「今さらだから恥ずかしいの」
「夜はあんなに大胆だったのに」
「あああああ……言わないで……!」
今思い出せば、昨夜の私はなんて恥ずかしいことばかりしてしまったのだろう。
ムキになっていたとはいえ、自分から彼を襲ってしまった。
姉御の負けず嫌い根性があんなシチュエーションでも発揮されるとは思わなかった。
「服着る?」
「着る。ていうか、さっき私になにしてたの?」
寝ぼけてはいたが、『起こしちゃった』と言っていたのを、私は覚えている。
起こしてしまうようななにかをしていたはずなのだ。
堤さんはあからさまに後ろめたい顔をした。
「いや、あの。ちょっと、その」
「なにしたの? 寝顔に落書き?」
「いや、まあ近いけど、そうじゃなくて」
「え、うそ。落書きしたの?」
両手で顔に触れる。
手で触った感触では、特に変わった触感はない。
堤さんは叱られるのを覚悟した子供のような顔で白状した。
「マヤのおっぱいにキスマーク付けてました」
互いに顔を赤くする。
こんなことなら聞くんじゃなかった。
一応目で確認すると、たしかに左胸のところに赤黒い跡がある。
「どうしてこんなこと……」
「マヤは俺のだって、マーキングしておきたくて」
彼はそう言って私の左胸に触れようとしたが、我に返ったように手を引っ込めた。
私は、堤さんの。
独占欲を持ってもらえることを喜ぶ前に、確認しておかねばならないことがある。
「それは、私を彼女にしていただけるということ?」
再び胸元に布団を強く押し付ける。
彼は頷かず、渋い顔をしたままだ。
「そのことなんだけど……もう少し、俺を見てからジャッジしてほしい」
「は? それ、どういう意味?」
私はもう何度も気持ちを伝えているはずだ。
今さらジャッジなんて必要ない。
聞きたいのはあなたの気持ちと意思なのに。
「説明するから、マヤはまず服を着ようか」
言われるままベッドの隅に追いやられていた自分の衣類を身に着ける。
彼の付けたキスマークはブラトップの中にすっぽり収まった。
言い換えれば、それだけ際どい場所に付けられていたということだが。
身なりを整えた私は、カタい表情をしている彼と対峙する位置に座り直した。
真正面から見る彼は、部屋着を着ているし髪も寝癖を付けたままでセットされていないが、いつもミーティングルームで見る表情をしている。
家には仕事を持ち帰りたくないと言った彼が、珍しく家で仕事の話をしようとしている。
彼が私の告白についてイエスの返事をしてくれないのは、どうやら仕事が原因らしい。
「山名さん」
「はい」
「実は、ブルーメが我々との取引を白紙に戻す可能性が出てきました」
彼の放った言葉があまりにもショックで、頭の中が真っ白になった。
数秒間、私はなんの反応もできず、間抜けに口を開けていた。
だって、この「ブルーメ」との取引は、私たちにとってとても大切な案件だ。
「まだ決定ではありません。白紙にならないよう、引き続き先方への折衝を続けます」
「……はい」
聞きたいことはたくさんあるのに、この一言を絞り出すのがやっとだ。
人間、あまりにショックが大きいとなにも言えなくなるらしい。
「俺はこの件で、マヤを大きく失望させてしまう可能性がある。だから、この件のカタがつくまで、もうしばらく俺を見ていてくれ」
私は決して首を縦に振らなかった。
しかし彼は無言の私が納得したと思ったのか、話を終えてベッドを降りていった。
菜摘に仕事に私情を挟みすぎだと指摘したが、彼は私情に仕事を挟みすぎなのでは。
時計を見ると、時刻は午後1時前。
熱を交わした男女が迎える朝としては遅すぎたのか。
私はもう少し夢を見ていたかったなぁと思いながら、一度だけ聞いた『俺も好きだよ』を何度も脳内で再生した。
08トラブルじかけの業務外注文
私は幼い頃から肌が弱いのが悩みだった。
そんな私を救ってくれたのが『ブルーメ』のせっけんだ。
ブルーメにはせっけん以外にも商品があるのだが、ちょっぴり高価であるため、通販で買うには勇気が必要だった。
だから昨年の11月に直営店ができるまで、私はせっけん以外の商品を購入したことはなかった。
どんなにいい商品だとわかっていても、やっぱり店頭で実際の商品を見てから購入したいものだ。
長いこと通販で購入していたせっけんが店頭で買えたときの感動は今でも覚えている。
今年の4月、堤さんと初めて会った日。
「今扱っている商品以外に仕入れてほしいものがあったら、ぜひおっしゃってください」
爽やかで人懐っこい笑顔でこう言った彼に、私はブルーメのせっけんの話をした。
とてもいいせっけんで、私はもう10年以上愛用していること。
そして、ぜひラブグリでも扱いたくて、何年も前に自分で打診をしたけれど、『うちは通販でしかやらない』と断られてしまったことも。
「でも、最近直営店を出したんですよ。東京も含めて、全国で3店舗だけですけど」
すると堤さんは、顔に似合わぬ頼もしい口調で提案してきたのだ。
「だったら『通販だけ』というブルーメの方針は変わっている可能性が高いです。今ならもしかしたら、交渉の余地があるかもしれません。もう一度、僕と一緒に打診してみませんか」
それから半年。
何度も何度も断られて、その度にふたりで新しい提案をした。
直販しかやったことのないブルーメにとって、商社を通して小売店で販売するというルートは、利益率を下げるネガティブな販売方法とみなされている。
私たちは利益をピンハネする悪徳業者とでも思われていただろう。
我々としてもビジネスでやる以上利益をいただかないといけないのだが、決してブルーメの利益を搾取したいわけではない。
ただ、より多くの人に使ってもらいたいのだ。
ラブグリの店頭に並べば、今までブルーメを知らなかったお客さまもきっと興味を持ってくれる。
使っていただければ、きっとこのせっけんのファンになる。
認知度をアップできるというメリットを説き続け、話を聞いてもらえるようになったのは8月の終わり。
それから交渉を続けて、10月の半ばに堤さんとふたりで九州にあるブルーメの会社まで行った。
そこでようやくラブグリでの販売を実現できる、というところまで話が進んだのだ。
あの日は金曜日で翌日が休みだったということもあって、取引成立がほぼ確定したお祝いをしようということになった。
入ったのはたまたま空いていた沖縄料理店。
私はそこで初めて泡盛を飲んで……現在に至る。
しかし、どういうわけか、ブルーメ側が再びラブグリでの販売を渋りはじめたというのだ。
その理由に関しては、堤さんもまだ掴めていないという。
ブルーメ側にまたなにか新たな動きがあるらしいのだが、さすがにその内容まではなかなか教えてもらえない。
株式会社ラブグリーンおよび株式会社イズミ商事としては、取扱商品の候補がひとつなくなっただけのこと。
ブルーメとの契約が結べなかったからといって、私たちの評価が大きく下がることもない。
しかし、個人的には強い思い入れがあったから、堤さんに『ブルーメが我々との取引を白紙に戻す可能性が出てきました』と言われたときは、この世の終わりのようにショックだった。
彼が私との関係を保留にしたことより、よっぽど。
現在、ブルーメとの交渉の窓口は堤さんである。
今は彼を信じて待つしかない。
交渉が難航すれば、再びブルーメにうかがうことになるだろう。
「そうか……せっかくいいところまでいってたのにね」
この件を報告すると、斉藤課長も残念そうにため息をついた。
「まだ白紙になると決まったわけではありません。彼を信じます」
そう言い切った私に、課長は顔をほころばせる。
「愛だねぇ」
左胸に印を得た私は、少し照れくさい気持ちで答える。
「はい」
この案件に特別な気持ちがあるのは、私だけじゃない。
この半年、諦めていた私の夢を叶えるために一番頑張ってくれていたのは、堤さんなのだ。
この週の半ばのこと。
「山名さぁん、大変です!」
松田が血相を変えて私を呼ぶので、促されるまま彼女が操作しているパソコンの画面を見た。
社内システム上にある在庫管理のページだ。
「どうしたの?」
「ここ、見てください」
彼女が指したのはオリオンのフローリングシートの欄だ。
うんうん、今日もよく売れている……とのんきに喜べるレベルの数字ではない。
「え、なにこれ?」
想定を大きく越えて売れすぎている。
「1号店の佐原店長に電話して聞いてみたんですけど、どうやらNao(ナオ)がSNSで紹介してくれたみたいで」
「Naoって、モデルの?」
「そうです」
Naoといえば、私たちアラサー世代のカリスマで、母になった今でも活躍している超人気モデルだ。
たしか少し前に2人目の子供が産まれて、しばらくメディアには出ていなかったはず。
しかしSNSの活動は続けていたようで、先日ラブグリを利用してくれたらしい。
【今日はフェア中のラブグリでお掃除用品仕入れてきましたー! とくにこのフローリングシートは、オーガニックだから赤ちゃんとかペットがいても安心して使えてお気に入り♡】
ご丁寧に美しいお顔と商品のツーショット画像付き。
これを見た彼女のファンが、フローリングシートを求めてうちに来てくれているらしい。
とてもありがたいことだが、このままでは本当に在庫がなくなってしまう。
今のペースでいくと、持って来週末……いや、もしかしたら今週末で完売してしまうかもしれない。
オリエンタル・オンの商品は、なにもラブグリだけに置いているわけではない。
都市型ホームセンターや人気自然派雑貨店など、いくつか取扱店がある。
そしてそれらの店舗は、うちで扱っている他の商品も販売している。
うちにとっては競合だ。
Naoがうちのフェアで購入してくれたことからプチブームが起きているのに、このタイミングで欠品してしまうと、フローリングシートをお求めのお客さまを競合他社に取られてしまう。
するとお客さまの需要は他社で満たされ、うちは販売機会を失う。
それを平たく表現すると、『フェアの失敗』ということになる。
ゼー・ヴァッシェンなど他の目玉商品もあるが、フローリングシートの分をカバーすることはできないだろう。
「私は物流管理部の上島に初売りの分を回せるか聞いてみる。松田はイズミの堤さんにこの件をメールしておいてくれる?」
「わかりましたぁ。でももうこれ以上の確保は難しいんじゃ……」
「わかってる。だけどもしかしたら、堤さんがなんとかしてくれるかもしれないから」
また堤さんに大変な思いをさせてしまうのか……。
ブルーメのことといい、私は彼の貧乏神のような気がしてきた。