驚いて、かわいくない悲鳴みたいな変な声を出してしまったと思う。
体のバランスを崩した私は筋肉質な腕に抱き留められ、くるりと視界が回ったと思ったらベッドに横たわっていた。
部屋の照明の逆光で、彼のかわいい顔がとんでもなく色っぽく見える。
なにこれ。こんな顔初めて見た。
ドキドキが止まらない。
私の心臓、こんなに動けるんだ。
このまま壊れてしまいそう。
「遊びみたいなのは嫌だ。私、ちゃんと恋愛したいから」
堤さんが好きだ。
彼にだったら、私は喜んでこの身を差し出せる。
でも、私もいい年なのだ。
いい年してるくせにバカみたいって思われるかもしれないけど、いい年だからこそ、ちゃんとしなきゃいけない部分だと思う。
だって、するんだったら私を好いてくれる人と幸せな気持ちでしたい。
「悪いようにはしないのに」
クス、と柔らかく笑った堤さん。
自分の気持ちが強すぎて、彼がなにを考えているか全然読み取れない。
「このエロオヤジが」
なんて悪態づいてみたが、自分でわかるくらい顔が熱を持っているから、格好つかない。
「じゃあ、キスだけしていい?」
ぐ、と彼が手を着いた部分に負荷がかかったのを感じた。
彼の体重が、どんどんこちらに向かってくる。
「騙されないもん。キスで済むわけないじゃん」
「済むよ。俺の意思の強さを証明してやる。俺はこう見えて誠実な男なんだ」
彼の顔が迫ってきて、反射的に目を閉じた。
一瞬のことで、たぶん避けようがなかった。
避けるつもりもなかったけれど。
彼の柔らかい唇が優しく私の唇に重なる。
呼吸も言葉も、吸い取られるようにピタリと止まる。
その代わり、体のいろんなところから彼への気持ちが放出していく感覚がした。
それにたくさんエネルギーを使ったのか、私はすぐに息苦しくなった。
「ん、は……」
彼の手が私の頬に添えられ、指が優しく撫でる。
顔が近すぎて、彼の表情が見えない。
「マヤ、もっと」
「んう」
今度は強く押し付けられる。
有無を言わさず彼の熱い舌が侵入してきて、私はそれを受け入れる。
ざらりと水気のあるものに撫で上げられると、たまらず鼻にかかった声が出た。
少し応えると驚くほどの快感が走って、私はすぐにその感覚の虜になった。
嬉しくて、愛しくて、幸せで、目頭が熱くなる。
キスってこんなに気持ちいいことだったの?
私は無意識に彼の体に腕を巻き付けていた。
「なんつー顔してんだよ」
変な顔、してたかな。
表情を作る余裕なんてまるでない。
「ごめん。ブスだった?」
「バカ、違うよ。言っただろ。マヤはかわいいよ。今日のマヤは今まででいちばんかわいい」
言って、頬にもキスを落とす。
ああ、これはヤバい。
数分キスに没頭しただけなのに、幸せな気持ちが全身を満たしている。
これが彼にとっては、いつか私で性欲を満たすための布石だと、頭で理解していても。
この晩、私は彼の部屋に泊まったけれど、彼は本当にキス以上のことはしなかった。
……というより、ずっとキスばかりしていた。
額に、目尻に、頬に、耳に、首に、鎖骨に、手に、唇に。
夜は私が眠るまで。朝からも、私が帰るまで。
私としたことが、まったく主導権を握れなかった。
何度も自分からやり返そうと試みたが、終始彼のペースで、私はまるでうぶな女の子みたいになっていたと思う。
何時間も彼の唇に翻弄されていた私の方が、あやうく情欲を爆発させてしまうところだった。
もしかしたらそれを狙っていたのかもしれないが、あいにく私も意思は強い方である。
週明け月曜日。
朝イチで斉藤課長に呼ばれて彼のデスクへ。
土曜の夜に送ったディスプレイ案のことだと察しがついていたので、プリントアウトした資料を持っていった。
「山名さん。新しいディスプレイの案、なかなかいいと思うよ」
「ありがとうございます。今デザインの人に絵を描いてもらっているところです」
褒めてもらえて嬉しいのだが、課長がやけにニヤニヤしており、妙な感じがする。
なにかいいことでもあったのかと尋ねようと思ったとき、課長が周囲に聞こえないよう小声で告げた。
「ファイルの“作成者”が“Rintaro.T”になってたよ?」
「えっ……!」
しまった!
彼のパソコンで作ったファイルだから、制作者に彼の名が表示されてしまうことをすっかり忘れて送ってしまった。
課長のニヤニヤの原因はこれか。
「今はなにも聞かないでおくけど、今後気をつけた方がいいんじゃなーい?」
「すみません……」
再びあらぬ誤解をしているだろうが、もはや説得力のある言い訳なんてできない。
私はすぐにデザイナーにも口止めをすることを決心して、今日も業務を開始した。
06痴情じかけの業務外尋問
11月も下旬になると、寒くなって朝が辛い。
しかし私には幸運にも料理好きの妹がいるため、毎日おいしい朝食にありついている。
「あー。やっぱりユリのカボチャポタージュは最高」
私が呟くと、食卓を囲んでいる両親と弟のアキもうんうんと頷いた。
直後、ユリは無邪気に明るい声で言った。
「じゃあこのスープも彼氏に作ってあげなよ。レシピ、あとで送っておくね」
『彼氏』という言葉に、両親の視線が私に刺さる。
ユリってば、両親の性格をわかっているくせになんてことを……。
「ちょっとマヤ。あんた付き合ってる人いるの? 最近泊まりが続いたと思ったらそういうこと?」
母が興奮気味に身を乗り出す。
「え、いや、その……なんていうか」
いないって言えば泊まりの理由を追及されそうだし、いると言えば紹介しろと言い出すだろう。
だからといって堤さんとの関係を正直に話すわけにもいかないし。
口ごもっていると、先にアキが口を開いた。
「俺もユリ姉も一度会ってるけど、相手超イケメンなんだぜ」
「そうそう。酔っ払ったマヤ姉のこと軽々持ち上げて、カッコよかったなぁ」
ユリまで余計なことを。
ここでとうとう、あまり子供の恋愛には言及しない父までもが口を開いた。
「彼の職業は?」
朝からなんだかとても面倒なことになってしまった。
私の結婚を心配してくれているのはありがたいけれど、今追求されるのは困る。
「みんな、お願いだから放っておいて。なにか報告できることがあれば、ちゃんと自分から言う」
ピシャリとそう言い放つと、家族はすごくつまらなそうな顔をして朝食に戻っていった。
山名マヤ。
下から読んでも『やまなまや』。
裏表のない素直な子に育つようそう付けてくれた両親は、私を若くして生んでいる。
年齢でいうと、両親とも当時20歳。
高校を卒業して就職して一年というところで母の妊娠が発覚。
浅はかだとか世間体が悪いとか非難を受けつつ結婚し、苦労の末に私が生まれたという。
生まれてからも皮膚が弱いことで、よけいに苦労をしていたはずだ。
そのせいで両親に心配をかけていたことを理解していたので、幼い私はずっと、強い子になりたいと思っていた。
小学校に上がる前、ユリが生まれた。
『マヤはしっかりしたお姉ちゃんね』
そう褒められたのが嬉しくて、私はもっともっとしっかりしたお姉ちゃんになろうと思った。
その数年後、アキが生まれた。
『マヤは妹と弟、ふたりの世話ができる、たくましいお姉ちゃんだな』
そう褒められたのが嬉しくて、私はもっともっとたくましくなろうと思った。
きっとそれが、私が姉御たる原点だと思う。
これまでの29年間、私は自分の強さを証明するため、さまざまなものを守ってきた。
幼い頃は妹や弟を、学生時代は仲間たちを、大人になってからは会社を。
なにかが起これば、迷わず真っ先に矢面に立つ。
問題を解決するために頭を使い、ときには体を張り、怖くても勇気を出し、泣きたくてもグッと堪えて。
でも、私を守ってくれる人はいなかった。
私を好きだと言ってくれた、恋人でさえ。
心身共に頑丈だけれど、甘えたい。
ひとりでも生きていけるけど、支えられたい。
傷つくことには慣れているけれど、守ってもらいたい。
私のようなかわいげのない女には、そう思う資格さえないのだろうか。
『俺は甘えられると嬉しいんだけどな』
次こそはそんな男性と素敵な恋愛を……と思っていたのに、なんということだろう。
無償の家政婦だなんて、もしかして愛人や繋ぎの女よりも立場が悪いのでは。
悔しいけど、それでも一緒にいられるから嬉しい。
愛されなくても、抱きしめられると幸せを感じられる。
こんなの、いいように扱われているだけだ。
どんどん都合のいい女になっているのはわかっている。
男の人に守られる、甘えさせてもらうなんて、マンガや小説だけの夢物語なのだろうか。
私はもうそろそろ、自分が望むように愛されること自体を諦めたほうがいいのかもしれない。
ラブグリで行うフェアは12月1日からだ。
開始まであと10日程度しかなくなり、私はますます忙しい。
そんな中、無事に先日堤さんの家で作ったデザインが承認されたのはよかった。
本当に煮詰まっていたし、あれで通らなかったらいつかのように毎日午前さまになっていただろう。
いくら私が頑丈といっても、頻繁だとさすがに倒れてしまう。
この日、私はフェアについての打ち合わせのため、1号店にやって来た。
ここを訪れるのは菜摘が堤さんを合コンに誘っていたあの日以来なので、少しモヤモヤしている。
「お疲れさまですー」
「あ、山名さん……お疲れさまです」
私はいつもの感じで店舗に入ったのだが、なんだかスタッフの様子がおかしい。
「どうかしたの?」
「あ、いえ。店長なら今、裏で発注の準備やってますよ」
笑顔が硬いし、目を合わせない。
この子はいつも明るくて印象的なのに、やっぱりおかしい。
「そう。ありがとう」
私はにっこり微笑んで、菜摘がいると思われるレジ裏の小さな部屋へと向かった。
――コンコン
「山名です。入っても大丈夫?」
「……どうぞ」
菜摘の返事もいつもと違った。
『どうぞ』とは言ったが、歓迎していない感じが全面に出ていた。
とても入りづらいが、仕事は全うせねばならない。
私はいつもより力を込めて扉を開けた。
「お疲れさま。作業中にごめんね」
「……いえ」
愛想のない返事。
中のデスクで、紙の表とパソコンに集中し、こちらには見向きもしない。
いくら作業中だからといって、こんな態度を取られたことはない。
「フェア中にテレビの取材が入ることになったから、早めに打ち合わせておきたくて」
「ああ、そうですか」
なにか理由があるのかもしれない。
でも、仕事中にその態度はないのでは?
偉ぶるつもりはないけれど、一応私は彼女にとって上司にあたるのだ。
業務が円滑に行えるようお互いに気を使うのが社会常識。
私は腹の底に溜まっていく苛立ちをグッと抑え込み、無理に笑顔をキープする。
「今日はなんだかイライラしているみたいだね。なにかあった?」
できるだけ優しく尋ねたが、彼女は私をチラリと一瞥して、あからさまにため息をついた。
これはもう……怒ってもいいレベルの失礼さだと思う。
「菜摘ちゃん?」
「山名さんって、イズミの堤さんと付き合ってるんですか?」
堤さんの名が出て、思わずドキリとする。
「え、なに、急に」
「質問に答えてください」
「付き合ってはいないよ。それがどうかしたの?」
合鍵持ってるしキスはしたけどね、とは言わないでおいた方がよさそうだ。
菜摘はマウスをカチッと鳴らし、座っている椅子を回転させてこちらを向いた。