01泡盛じかけの業務外過失
私の名前は山名マヤ(やまなまや)。
下から読んでも『やまなまや』。
「裏表のない子に育つように」と、そう名付けられました。
……という自己紹介は、今や私の持ちギャグとして定着している。
マヤと名付けられて29年。
私は両親の期待通り、表裏のない女に育ったと思う。
幼い頃から『しっかり者のお姉ちゃん』と呼ばれ続け、家でも保育園でも学校でも姉御キャラ。
小学校時代なんて、あだ名がまんま『姉御』だった。
曲がったことが大嫌いで気が強く、負けず嫌い。
何事もきちんとやらないと気が済まない。
5つ下の妹と8つ下の弟は、成人した今でもお姉ちゃんっ子で、相談事はまず私に持ってくる。
おっとりしている両親は戦闘力が低いため、家族のトラブル解決は基本的に私の仕事だ。
もう時効だと思うから白状するが、10年前、妹にしつこく絡んでいた不良少年を追い払うため、殴り合いになったことだってある。
その日のことはあまりに印象的だったので、今でも鮮明に思い出せる。
少年は妹のユリに人前で振られたことを根に持っていたらしい。
少年はなんだかんだと喚きながら、私の背後で怯える妹を連れて行こうとしていた。
「ユリ、こっち来い! 話聞けって言ってんだろ」
「帰りな。ユリは嫌がってんじゃん」
彼と言い合いながら彼が伸ばす腕を払ったり掴んで止めたりしているうちに、彼の怒りの矛先は私に。
「邪魔すんなクソババァ!」
次の瞬間、少年の手の甲が、私の頬を強く打った。
乾いた音がして、衝撃の次に痛みが走った。
「マヤ姉!」
妹の悲鳴が聞こえ、少年の顔が「しまった」と焦りに歪む。
私はすっかり頭に血が上って、無意識にギュッと拳を握っていた。
そして。
――バキッ!
そこまで思い出したところで、ふと我に返った。
なんだか妙に、手からリアルな感覚がする。
ぶつけた拳頭と、爪が食い込む手の平がすごく痛い。
「いっ……てぇー」
聞こえてきた大人の男の呻き声に、だんだん意識がハッキリしてゆく。
チカチカする視界がクリアになってきたところで、私はようやくここが夢ではなく現実だと理解し始めた。
スーツ姿の男が、左頬を手で押さえて顔をしかめている。
私はたしか今日、朝からこの彼、堤凛太郎(つつみりんたろう)と、九州のとある県へ出張していた。
彼は私が勤める『株式会社ラブグリーン』に商品を卸している商社、『株式会社イズミ商事』の営業マンだ。
「爽やか」を形にしたような、清潔感満点のザ・好青年。
よく「甘いマスク」なんて表現を耳にするが、この表現がピッタリな甘い系統の顔をしている。
俗にいう『ワンコ系』。
頬や唇がつるんとしており、丸くて垂れがちな目に、キリッとした眉。
彼が微笑めば老若男女が癒しを感じるという。
推定年齢は27歳くらいだろうか。
背はそんなに高くないけれど、バランスのいい体格にスーツがよく似合っていて、髪はいつもふんわりセットされている。
凛太郎という名から、うちの会社では陰で『りんりん』という愛称で呼ばれており、特に女性社員からの人気が高い。
そんな彼が4月の異動を機にうちの担当になって、半年と少し。
とあるメーカーとずっと交渉していた取引が成立へ向かったため、東京に戻って「お祝いに飲みにいきませんか?」と誘われ、二人で食事をしていたのだ。
入ったのは沖縄料理屋。
きっと初めて飲んだ泡盛がいけなかった。
酒には強い方だが、どうやら私には合わなかったらしい。
夢うつつで人を殴ってしまった。
三十路を前にして、人生最大の大失態だ。
状況を理解するとどんどん血の気が引いて、酔いが一気に冷めていく。
辺りを見渡すと、どうやらここは沖縄料理屋と駅の間にある公園のベンチのようだ。
堤さんは酔った私を放置せずに介抱してくれていたのだろう。
そんな彼が、痛そうに左頬を押さえている。
私が殴ったのは明白だった。
「堤さん! 大丈夫ですか?」
どうしよう今すぐ冷やさなくちゃ。
バッグの中にハンカチがあったはず。
これをあそこにある水道で濡らして冷やそう。
10月中旬になって、夜は少し冷えるようになった。
きっと水も冷たいはずだ。
私はハンカチを握り、勢いよく立ち上がった。
しかし飲んだ酒がまだ回っているのか、ぐらりと視界が揺れ、体が傾く。
倒れる!
そう思った瞬間、ガシッと力強く腕を掴まれ、私は転倒を免れた。
ホッとしたのも束の間。
「おい」
腹の底に響くほどドスの利いた低い声がして、驚きと恐怖で体が硬直した。
「え……?」
目の前に、頬を腫らした堤さんの甘い顔がある。
なに今の声。この人が出したの?
ニコニコ笑顔がトレードマークの彼が今、険しい顔で私を睨んでいる。
「人の顔殴っといて、逃げるつもりかよ」
タメ口で喋るのも初めて聞いた。
これ、本当に堤さん? まるで別人だ。
「ちっ、違います! ハンカチを濡らして冷やそうと思って」
「その程度で治るかっつーの」
鋭い口調。彼の頬が少しだけ腫れてきている。
「本当にすみません。私、完全に意識飛んでたみたいで……」
「謝って済めば警察はいらねーんだよ。意識がどうとか関係ないね」
警察という言葉が妙に恐ろしく感じる。
自分はたった今、罪を犯した。
そう認識したからだ。
これってもしかして傷害罪?
堤さんが私を警察に突き出したら、私は留置所に拘留されるの?
示談交渉には応じてくれるだろうか。
先月弟の学費でまとまったお金を使ってしまったからあまり蓄えはないのだが、いくらくらいで許してもらえるのだろう。
示談が成立しなかったら起訴される?
起訴されて裁判になって有罪判決を受けたら、私は犯罪者……?
そんなことになったら、会社はクビだ。
前科がつけば再就職は難しいだろう。
弟の学費はほぼ私がまかなっているのに、今私が仕事を失うと家計が大変なことになってしまう。
それだけのことを、私はしてしまったのだ。
自覚した瞬間、胃から喉元までを締め付けられるような苦しさを覚えた。
こんな強い罪悪感は初めてだ。
「本当にすみませんでした。でもどうか、警察と会社に通報するのはご容赦いただけませんでしょうか。私にできることはなんでもします」
腕を掴まれたまま、私は体を彼の方へ向け、縋るようにガバッと頭を下げた。
軽くカールを入れたミディアムボブの髪が、彼の腕にパラリとかかる。
血中に残っている酒のせいでクラッとしたが、グッと踏ん張って堪えた。
「ふーん。なんでもって、例えば?」
「例えば……そう、慰謝料をお支払いします。お金はあまり持ってないので高額だとすぐには準備できませんけど、なんとかします。ですから大事にはしないでください。お願いします!」
私はいっそう深く頭を下げた。