生まれ育った横浜のあの街には。
今頃、金木犀の香りが漂うのかもしれない。
「理沙子。」
『ん?』
なんだか、すぐそばで名前を呼ばれたような感覚がして。
思わず、またお店に背を向けたら、視界はキラキラ光が瞬く、私の街に戻った。
「これからは、何もかもを。
一緒に見よう。」
ことり、と。
音を立てて、その一言は心に堕ちた。
『…なに?何かあった?』
「別に。そう思ってるだけ。」
『変な野郎だな。』
「今さらか。笑」
お店のドアが勢いよく開いて、葵ちゃんが出てきて。
私を見つけると、目を剥いてお店の中を指差す。
『切るよ、葵ちゃんに殺される。』
「まじ?やばいじゃん。」
『違うよ、私じゃなくて航大がだよ。』
左耳に飛び込んできた笑い声は、やっぱり遠いくせに熱かった。
目を閉じて、取り囲む喧騒を確かめて。
自分の位置を、把握して。
「理沙子、早く!」
せっかちな葵ちゃんの強面に、顔を上げる。
店長が開く、重厚な扉をくぐって。
おはようございます、と。
仕切り直しのボーイくんたちの声を浴びながら、ワイン色の絨毯を進む。
同伴したての、私服姿のアヤちゃんが螺旋階段を上ってきて。
私を認めるなり、貼り付けていた笑顔を投げ捨てて首元に飛びついてきた。
『わっ、あぶな!何?!どした?!』
「私も辞める。」
『…その話、』
「理沙さんが辞めるなら、私も絶対辞めるから。
置いていくなら、追いかける。」
きゅうっ、と。
強くなった細い腕の力に。
逆に簡単に、心は折られそうになる。
首筋から立ち上がる、ずっと変わらない、甘くて女っぽい香水の香り。
初めてこの子が店に来た日。
私を見上げて、無愛想に浅く頭を下げたけど。
妹ができたと思って。私、嬉しかったんだ。
『アヤちゃん、早く着替えてきて。
私とりあえず辞めないから。』
「嘘。」
『嘘じゃない、早くしないと辞める。』
顔を上げた、バサバサの睫毛に縁取られた瞳は。
大げさにも、濡れていて。
『泣くな、泣いても辞めるよ。』
「…しばらく、それで私のこと遊ぶでしょ。」
『分かった?笑』
恥ずかしそうに頷いて、お店を出て行く。
小さな背中が、なぜだか遠く感じて。
今夜、至るところに見つけるこの温かさは。
もうすぐ手放すものだから、その温かさを身体が確かめているんだと。
私は、ちゃんと気づいてた。