「ま……待って、あの、今日は、ウチのお母さんが来るはずだったんだけど」

「ああ、それ嘘だよ」



平然と語られたそれに、今度こそ言葉を失った。

……うそ? なんで? どうして?



「最初から、今日のこの時間ここに来るのは俺だったんだよ。ホントのこと言ったら絶対逃げられると思ったから、おばさんに協力してもらって約束取りつけたんだ」



こちらの疑問に答えるように千晴くんは淀みなく言って、それからひょいっと私を覗き込むように身体を屈めて来た。

端整なその顔が、さっきよりも近い。私が閉めてしまわないようにか、右手でドアを押さえながらやはり笑みを浮かべる。



「ねぇ、とりあえず中に入れてくれない? 寒いし、詳しい話もちゃんとするからさ」

「……ッ、」



たしかに今はまだ3月の初めで、昼間といえど外の空気は冷たい。

……だけど、でも。


彼の言葉に承服しかねて目を泳がせる私に、千晴くんはさらにたたみかけてきた。



「お願い、一花ちゃん」



閉じ込めた記憶の中にいる“彼”よりも、ずっと低く甘い声で。微笑みながら、千晴くんはそんなことを言う。

外見は大人になったとはいえ、やはり本質はずっと変わっていないのだ。本当は誰よりも気遣い屋で空気が読めるくせに、自分の要求を通したいときは相手の事情なんておかまいなしで、したたかかつあざとく押して来る。

昔から、私は彼の『お願い』に弱かった。絶対に千晴くんはそれをわかっているうえで、このセリフを使っている。

……ずるくて、生意気。私の方が5歳も年上なのに、完全に手のひらの上で踊らされている。



「……場合によっては、すぐ追い出すから」



わざとらしく、顔をしかめて見せて。けれども本当はドキドキしてしまっていることを悟られないよう気をつけながら、私はしぶしぶ彼を自宅へと招き入れた。