坂井君の両目がビクリと反応した。
明らかにうろたえた彼は唇をキュッと閉じて、穴が開くかと思うほどの強い視線であたしをじっと見つめている。
でもその真剣な目はあたし自身じゃなくて、彼にとっての大切な何かを、あたしの奥から探し出そうとしているように思えた。
あたしも両目を大きく開いて、なにも言わずにそんな彼の目を見つめ返し続ける。
ふたりの間にまた沈黙がしばらく流れて、そして……。
「……なに、言ってんだよ、お前……」
夢から醒めたように大きくふうっと息を吐き出し、坂井君は目を閉じて顎を上げた。
「悪ふざけはやめろよ。こんな冗談、楽しいか?」
「冗談なんかじゃない。信じられないのはわかるよ。あたしも最初はそうだったもん。でも……」
「いい加減にしろ!」
いきなり怒鳴られて、あたしはビクッと震えた。
「家族亡くしたばかりの人間にこんなことして、なに考えてんだよ! ……お前の左目に俺の兄貴の記憶が宿ってる!? 心残りを果たしてほしい!?」
眉尻を激しく吊り上げて、坂井君は大声で怒鳴っている。
真っ赤に染まった顔でギョロリと目を剥いている形相が、彼の怒りの本気さを表していた。
男の子からこんなすごい勢いで怒鳴られたことなんかなくて、あたしは息をのんで身を竦ませてしまう。
「そんなこと言われた俺が、どんな気持ちになるのか考えてんのか!? お前やっぱり、女たちが噂してる通りのヤツだったんだな!」
あたしは亀のように首を縮こませてビクビクと坂井君を見上げた。
女子たちの噂? 坂井君、どんな噂を聞いたの?
そんな疑問が顔に出ていたのか、坂井君はあたしを真っ直ぐ見下ろしながら険しい表情のまま叫ぶ。
「『小田川翠は悲劇のヒロインぶってる』って噂だよ! お前、自分の可哀そうな境遇に自己陶酔してんだろ!?」
「……!」
巨大なハンマーで頭を殴りつけられたような衝撃に襲われた。
ほんの一瞬で潮が引くようにザーッと体から血の気が引いて、手の平にドッと汗が滲み出る。
全身が紙やすりで擦られてるみたいにジリジリ激しく痛んで、息がつまって苦しくなった。
「お前が自分に酔うのは勝手だけどな、ダシにされる方の身にもなれ!」
「……」
「移植に携わった人間の気持ちを侮辱するな! バカげた嘘ついてまで、お前は他人の注目浴びたいのかよ!?」
「……がう……」
「もう二度と俺に近づくな! そこどけ!」
「違う!」
坂井君に肩を強く押されてよろけながら、あたしは声を振り絞って叫んだ。
頭にのぼった血が、こめかみをドクドクと熱く脈打たせている。
ドアノブに手をかけて扉を開けようとする彼の体を、両腕で力いっぱい突き飛ばしてもう一度叫んだ。
「嘘じゃない! あたしは本当のことを言ってる!」
これまでどんな侮蔑的なことを言われても、誹謗されても、あたしは聞き流してきた。
世の中なんてそんなものだと学んだし、そうするのが一番だと思ってきたから。
でも今回ばかりは聞き流せない。
ドナーの弟である坂井君からの、その言葉だけは、絶対に聞き流すわけにはいかない!
「あたしは自己陶酔なんかしてないし、移植に携わった人を侮辱してないし、嘘なんか言ってない! あたしの左目には本当に坂井君のお兄さんの記憶と思いが宿ってるの!」
「まだ言うか!」
「言うよ! だって本当のことだもん!」
「そこどけ! これ以上ふざけた真似したら女でも許さねえ!」
「お風呂上がりの、ペットボトルのコーラ!」
「……!?」
唐突に、この場にまったく関係のない言葉を聞かされた坂井君は虚を突かれて、怒鳴り声を引っ込めた。
「坂井君、お風呂上りにペットボトルのコーラを、息継ぎなしでラッパ飲みするのが儀式でしょ!? それも必ず300ミリリットルの微妙なサイズのやつ!」
「……」
「そのときテレビのお笑い番組見て、口の中のコーラ全部吹き出して、模様替えしたばかりの真っ白なカーペット汚して叱られたことあるでしょ!?」
あたしを見下ろす坂手君の顔からは険しさが消え、素のままの表情でキョトンと両目を見開いている。
『なんでそんなこと、お前が知ってる?』
彼の目が明らかにそう問いかけていた。
あたしは彼が口を挟む隙を与えず、夢で得た知識を次から次へと矢継ぎ早にぶちまける。
「坂井君の大好物ってカレーライスだよね? いつもすごい勢いで飲み込むから、喉詰まり防止のために坂井家のカレーの具って、全部みじん切りでしょ?」
「……」
「坂井君って、実はジグソーパズルが得意なんだよね? でもウユニ塩湖の三千ピースに挑戦したとき、青と白しかヒントのない風景に挫折して、ヒス起こしてパズルひっくり返してお兄さんに叱られたでしょ?」
次々と暴露される話に、坂井君の両目がどんどん大きく見開かれていく。
最初は疑問の色が浮かび、次いで驚きの色が浮かび、そして徐々に疑念と不審の色が浮かんでくる。
例えるなら、目の前で見せつけられた手品のタネを懸命に探そうとしているような、そんな表情だった。
あたしにはそんな彼の気持ちが手に取るようにわかる。
あたしも、そうだったから。
目の前のありえない事実を前にして、否定したくて、自分にとって安心できるような楽な答えを探しているんだ。
でも、違うんだよ坂井君。そうじゃないんだ。
目の前の現実は、どうあっても結局現実なんだよ。
「あたし、本当のこと言ってるんだよ。坂井君」
坂井君は半開きになった口に手を当て、食い入るように保護メガネの奥のあたしの左目を見つめている。
疑念と不審に色濃く染まっていた目は、やがて強い混乱の色に染まり、彼はあたしの目から視線を逸らして素早くドアノブに手を伸ばし、扉を開けて飛び出していってしまった。
「坂井君!」
全力で走り去っていく坂井君の背中に向かって、あたしは彼の名を呼びながら扉の前で立ち尽くしていた。
朝練を終えた運動部員たちが、廊下を駆ける彼の背中を呆気にとられた表情で見送っている。
坂井君の姿が廊下の奥に消え去って、周囲の好奇の目があたしに突き刺さり、あたしは身の置き所がなくて逃げるように部室の中に入ってパタンと扉を閉めた。
薄暗くて埃っぽい、誰もいない狭い部屋の中で拳を握りしめながら強く両目を閉じる。
そうしてあたしは、まるで坂道を駆けあがっているような胸苦しさに耐えていた。
……受け入れてもらえなかった。やっぱり坂井君を傷つけた。こうなることが怖かったんだ。
心の奥の自分の声が聞こえてくる。
『ほら、やっぱりこうなった。だから言ったじゃないか』
坂を上ろうとすれば、苦しくて、息が切れて、つらい思いをするに決まっている。
それがわかりきっているのに坂を上ったのは、この左目が平らな場所に留まっていることを許してくれなかったから。
角膜移植を受けることを、あたしは自分で望んだ。
こんな状況になるなんて予想もしていなかったけれど、移植を自分で選んだ以上、苦しくても息が切れてもこのつらさは受け入れるしかない。
もう一度話すんだ。坂井君が納得してくれるまで何度でも話すんだ。
そう心の中で固く決意するあたしの耳に、予鈴が鳴り響く。
あたしは閉じていた目を開いて部室の扉を開け、狭くて薄暗い部屋から一歩外へ出た。
ホームルームに間に合うよう、他の生徒たちに混じって急ぎ足で廊下を歩いて階段をあがり、四階の教室に入る。
あたしの席の近くでソワソワしていた千恵美ちゃんが、あたしと目が合うなり飛びついてきて、小声で話しかけてきた。
「翠ちゃん! 告白、どうだった!?」
千恵美ちゃんに誤解されているのはわかっているけど、いまその誤解を丁寧に解くわけにもいかない。
ドナーの件に関しては、坂井君や坂井君の家族のプライベートにも関わることだし、ペラペラ口外するわけにはいかないから。
それにクラスで一番仲がいいとはいえ、親しくなってまだひと月程度の間柄で話すにしては、内容が重すぎる。
「あ、うん。えーっと……だめ、だった」
切れ切れにそう答えるあたしを見つめる千恵美ちゃんの目から、キラキラしたお星さまのような輝きがスーッと消えていく。
「え? だめ、だったの?」
「う、うん。なんだかね、坂井君驚いちゃったみたいで。話の途中で逃げ出されたんだ」
「はあ!? なにそれ!」
千恵美ちゃんの声に怒りの色が混じる。
「告白の途中で驚いて逃げ出すって、どんだけ乙女チックな性格してんのあいつ! 少女漫画のヒロインか!」
「ち、千恵美ちゃん、声が大きい」
「こっちは勇気を振り絞って伝えてんのに! 女の純情踏みにじって逃げるなんて、情けないヤツ!」
「でもあたし、まだ諦めてないから」
あたしは自分に言い聞かせるように、心の中で思っていることをちゃんと口に出した。
「自分の気持ちが坂井君に正しく伝わるまで、頑張りたい。だから部室の鍵、まだもう少しだけ借りててもいいかな? 責任もって預かるから」
キョトンと目を丸くしてあたしを見ていた千恵美ちゃんの顔が、どんどん明るい笑顔になっていく。
そして嬉しそうに勢いよく首をブンブン縦に振った。
「うんうんうん! もっちろん! あたしで力になれることがあるなら、なんでも協力するからね!」
「ありがとう千恵美ちゃん」
ちょうどそこで担任の先生が教室に入ってきて、千恵美ちゃんが「また後でね」と自分の席に戻って行った。
朝のホームルームが始まって、今日の連絡事項の説明をし始めた先生の声を聞きながら、頭の中では今後の対策についてあれこれと考える。
お昼休みに、坂井君のクラスに行ってみよう。そしてもう一度、話を聞いてもらうように頼むんだ。
あの様子じゃ避けられてしまうかもしれないけど、もしそうなっても諦めないで再チャレンジだ。
放課後は時間がないから、また明日の朝にロッカーで待伏せしよう。
そしてまた拒絶されたら、またお昼休みにクラスを訪ねよう。
何度拒絶されても、怒られても怒鳴られても、何度でも何度でも何度でも食い下がろう。
それ以上の具体的な案はひとつも浮かばないし、先行きの見通しなんてまったく立っていない。
なのにあたしの気持ちは、昨日の激しい動揺が嘘のように落ち着いていて、そんな自分の変化が少しばかり不思議だった。
そうやって気を張って過ごしているうちに、あっという間に四時間目の授業が終わり、千恵美ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べ終えてから、あたしは急いで坂井君のクラスへ向かった。
四組の開けっ放しのドアの横から、そぉっと中を覗き込んで坂井君を探したけれど、彼の姿は教室内には見当たらない。
昼休みはみんな色々と忙しくて、実際はそんなに休んでいられないことも多いから、坂井君も今日はなにか用事があって出ているのかもしれない。
今日は空振りだな。明日の朝に再チャレンジだ。
そう思いながら教室に戻ろうとして廊下を歩いていると、向こう側からこっちに向かって歩いて来る遠藤さんの姿を見つけてギクッとしてしまった。
あたしの顔を真っ直ぐ見ながら着々と距離を詰めてくるその様子からして、あたしに何か用があるのは明白だ。
無表情を装いながらも気迫満点の彼女の目つきは、間違いようもなくこっちに向かってガンを飛ばしていて、楽しい用事でないことも明白。
途端にあたしの心は、重力に捕まったみたいに一気に重々しくなってしまった。