「いつも通りの、静かな朝…」


何も変わらない。

悲しいほどに。

けれども、今日はほんの少しだけいつもと違う。

それは、葵の腕の中にある皐月の羽織り。

ほんのりと皐月の香りを残したそれだけが、違う。

葵は吹きつけてくる風を纏ってひらひらと舞うそれを、そっと身につけた。


「これは、着心地がいい……」


葵は皐月の羽織りの表面をそっと撫でた。

するりと滑らかで、柔らかな生地。

色の染まり具合もよく、昨夜の月明かりでみるよりも遥かに美しく目に映る。

葵は柔らかな笑みを浮かべ、開かずの間を出た。

光を浴びて少しだけ熱くなった簀子を渡り、ゆっくりと玉砂利の敷かれた境内に降りる。

やはり歩く度にじゃりじゃりと音が鳴って、葵の耳へ届いてくる。

その音を聞きながら、木々が茂って陰をつくる大きな本殿の裏を通り、自室のある奥の母屋に足を向けた。

葵が普段生活している母屋は、そんなに広くはない。

三畳ほどの広さの小さな部屋が一つ。

あと、葵の体についた穢れを流すために行う、御祓(みそぎ)用の湯あみの間があるくらいだ。

ほんの少し歩いたら見えてきたのは、小さな母屋。

高覧のついた簀子に、赤い縁取りが施された御簾。

葵は簀子に掛けられた階段をゆっくりと上がる。

簀子を渡り、静かな村を一望出来る自室へ向かった。

この母屋には玄関や炊事をする土間、廁などは一切ない。

料理や着物は村から運ばれる。

廁などは神社から遠ざけられ、境内の外にある。

それは。

人間であるならばごく当然、当たり前の営み。

けれども、巫女は。

その、ごく当然であるはずである日々の営みを許されていない。

巫女は人として生まれても、人であってはならない。

巫女は、巫女。

人とは別の生き物である。

それは、神より決められた理。

だから。

人の営みからは遠ざけられてしまう。

本当なのかどうかももわからない、理不尽なこと極まりないその理により。

巫女である葵は、完全に人外の者として扱われているのだ。

普通の人間であるならば、拒絶するだろう。

けれども、葵は。

逃げる術を、欠片も持っていない。

逃げるなと、言われているから。

腹立たしいほど理不尽だけれど。

生まれた頃より親から引き離され、それが当たり前として教育された葵にはこれが普通だ。

葵は自室に垂れ下がる御簾を上げ、部屋へと足を踏み入れた。

見えたのは、淡い色の几帳。

奥に控えた、金で飾られた赤い豪華な屏風。

ゆっくりと部屋の中心を歩き、几帳の裏手に回ると。

敷かれた茵の上に、几帳面に畳まれた新しい千早が置かれていた。


「お手伝い致しましょう」


老婆がそう言い、茵に置かれていた千早を素早く手に取る。

そして、葵の着ていた着物に手をかけた。


「巫女姫様」


老婆が、ふいに葵を呼んだ。


「どうしたの、婆?」


呼ばれた声に、葵は反射的に振り返る。

しかし。

振り返った先にいた老婆の視線は、葵になかった。

老婆が見ていたもの。

それは。


(皐月様の羽織り……)


怪しまれている。

見慣れない羽織りを着ていたものだから。

老婆は床に置いてある紫色の羽織りを横目で見ながら、そっと口を開いた。


「その羽織りは一体、どちらから?」


問い質すような老婆の声に、葵は目を細める。

昨夜着ていなかったはずの着物。

老婆が用意したはずのない羽織りを着ていたのだ。

怪しまれて当然だろう。