蝉時雨
 眩しい、夏の帰り道。
 隣にはいつも、彼女の姿と澄んだ旋律があった。

「……なんだ?」
 下校する生徒が行き交う、校門前。
 並んで歩く彼女がジっと自分の頭を見ていることに気付き、
 彼は軽く片眉を跳ね上げた。
「……ねぇ。……、髪、銀色にしてみない?似合うと思うのよね」
「あぁ?なんっで俺がそんな色にしねぇとなんねーんだ」
 いきなりの意味不明な要求に、即座に切り返す。
 自転車のハンドルを握り締めた片手を離し、額から落ちる汗を拭う。
 今日の気温は、天気予報によると確か35度。
 この中で学生服姿は、どう考えてもキツい。
「似合うから、て言ってるじゃない。ねぇ、しない?」
「しねーよ」
「えー……面白くない」
「面白くないとかの問題かよ。それより、とっとと後ろ乗れ」
 抗議して来るのに言い返すと、彼女は大人しく従った。
 後部座席に加わった重みで乗ったことを確認し、軽く地面を蹴る。
「別に、減るモノじゃないしいいじゃない」
「……まだ言ってんのか。じゃぁ、お前は茶色にでもしたらどーだ?」
 滑り出した自転車は、校門を離れてアスファルトを走る。
 ペダルを踏めば、赤い車体は少しずつそのスピードを上げた。
 歩いていた時よりずっと涼しく感じられる風が、汗の残る額に気持ちいい。
「茶色……いいかもしれない」
「て、いーのかよ。校則違反だぜ」
「卒業したら、よ」
 軽く笑い、彼女は運転するこちらの腰にしがみついてきた。
「ねぇ……卒業したら、……はどうするの?」
「……あ?」
「卒業したら。何も考えてないわけじゃないんでしょう?」
「……卒業、なぁ……」
 考えつつ、何気なく視線を空へと上げる。
 目に入るのは眩しい青と、コントラストの鮮やかな雲の白。
 これが入道雲ならもっと夏らしいのになと、
 質問と全く関係のないことを考えながら。
「それとも、何も考えてないの?」
「……さぁて、ね」
 はぐらかすように答えながら、慎重にブレーキを握り締める。
 自転車は長い下り坂に差し掛かり、ゆるやかにアスファルトを滑り降りる。
 耳に届くのは、風の音と朝から五月蝿い蝉の声。
 気温が31度を越えたら蝉は鳴かないというが、
 何処にでもはぐれモノというのはいるようで。
「…………蝉でも見習うか」
「……蝉?」
 何気なく口に出せば、不思議そうに問い返してくる声。
「蝉……て。あの、蝉?」
「そ。知らねぇのか?
 蝉は、土から出てきたら10日くらいしか生きらんねーらしいぜ」
「それは知ってるけど……」
 意図が読めないらしい彼女の様子に小さく笑い、少しブレーキを握る手を緩める。
 自転車はスピードを上げ、彼女が慌てて腰へとしがみ付いてくる。
 どこか非難を含んでいるような視線を背中に感じながら、敢えて無視。
「んで。なんで蝉がそんな10日ごときの為に土からワザワザ出てくんのか……
 ソレはやっぱ。運命の相手と出会う為、だろ」
 7、8年も土の中で過ごした蝉は、ほんの10日間地上に出てくる。
 そして、ただ鳴き続ける。
 人間が五月蝿いと思うような大きな声で、ただひたすらに。
「ま、雄だけだけどよ。雌を呼ぶ為に、鳴き続けるんだ。
 鳴いて……歌って。自分の子孫を残せる女に、会う為に」
 小さな頃。
 父親からその話を聞いた時、哀しくなったことを覚えている。
「ふ~ん……て。運命の相手……?」
「唄い続けて……10日の間に会える、自分の歌声で呼ばれた女。
 んなもん、運命の相手としか言いようねーだろ」
 答えながら、片手をハンドルから外して眼鏡を押し上げる。
 先ほどとは違う非難の混じった視線を感じながら、ハンドルを切った。
 赤い車体が走るのは、左右を家に挟まれた住宅街。
「……此処にこんなに可愛い彼女が居るのに、まだ運命の相手が欲しいのかしら?」
 後ろから響く非難の声に、カラカラと笑う。
 そのままもう1度視線を上げ、流れ行く雲を目で追うコトしばし。
「先の事は……俺にゃ分かんねーよ」
 小さく呟き、ペダルを踏む足に力を込める。
 自転車が勢いを増し、彼女はさらに固く腰に抱きついてきて。
「それは……私も、同じだけど……」
 呟き。
 諦めたのか、彼女は小さく息を吸うと唄い出した。
 好きだといつも言っている童謡、マザーグース。

    What are little boys made of?
    What are little boys made of?
    Frogs and snails
    And puppy-dogs' tails,
    That's what little boys are made of.
    What are little girls made of?
    What are little girls made of?
    Sugar and spice
    And all that's nice,
    That's what little girls arc made of.

 澄んだ歌声を聞きながら、自転車を走らせる。
 夏の風に攫われるその声は、なんだか今にも届かなくなりそうで。
 耳に届く旋律を、少年はただ必死に追っていた。



 ……ト。……ビト。……ウタビト。
「……んあ?」
 何処からか呼び掛けられた声に、彼は目を開いた。
 同時、鮮やかな光が目に突き刺さり、数度瞬かせる。
 薄い色のサングラス越しなので、それほどのダメージではなかったが。
「ウタビト。こんなトコで寝てたら余計に目立つよ?」
 その仕草からまだ寝ぼけていると受取ったのか、
 目の前に立っていた少女が顔を覗き込んでくる。
 鞄を手にした、セーラー服姿。
 長い髪が、夏の夕暮れの風に揺れる。
「…………ジョシコーセイか」
「だから。わたしはジョシコーセイじゃなくて美咲だってば」
「言ってんだろ。俺にとっちゃ10代少女は漏れなくジョシコーセイだ」
 いつもと同じ言葉に、いつもと同じ答えを返す。
 変わらぬ遣り取りに小さくため息をつき、少女――美咲は男の隣に腰を下ろした。
 鞄を横に置き、上の位置にある横顔を見上げる。
「ウタビトって、寝るんだね」
「あ?当たり前だろーが」
「うん、そう……なんだけど。なんか、意外」
 呆れたような声に小さく笑い、
 商店街を行き交う人をぼんやりと眺める。
 アーケード越しに注ぐオレンジの光の中を、通り過ぎていく主婦や学生たち。
 ずっと前に閉店した花屋の前に座る2人組を、
 気に掛ける人はそれほど居なくって。
「…………夢、見てたんだよ」
「……夢?」
 不意に落とされた囁きに、視線を男の横顔へと戻す。
 サングラスに隠されているけれど、その顔はかなり整っていて。
 夕陽に照らされ、少しだけ幼くも見える気がする。
「俺が。ちょーどジョシコーセイくらいのトシの頃の夢。
 人間、意外と覚えてるモンなんだなー」
 半ば独り言のように呟きながら、胸ポケットからタバコを取り出す。
 咥えた火を点けると広がる、バニラのような独特の匂い。
 タバコは嫌いだけれど、何故かこの匂いだけは嫌いじゃない。
「そうなんだ。……何、してたの?その頃のアンタ」
「俺?…………蝉になりたかった」
「…………蝉?」
 思いっきり訝しげに問い返せば、
 男は紫煙を立ち上らせながら可笑しそうに笑った。
 咥えていたタバコを指に挟み、コチラに顔を向ける。
 サングラス越しの瞳が、出会った時と同じような光を宿らせて。
「そ。唄って、一生涯の恋人を探す蝉に、な。ロマンチックだと思うだろ?」
「一生涯の恋人を……」
 呟き、抱えた膝に顎を乗せる。
 バニラの香りを乗せた風を感じながら、軽く目を閉じる。
「よく分かんないけど……アンタみたいだよね、ソレ」
 何気なく思ったコトを呟けば、返ってきたのは奇妙な沈黙。
 隣に視線を向ければ、ぼんやりとした顔で男はコチラを見てきていて。
 とてつもなく意外な事を聞いたというような表情に、軽く首を傾げる。
 それほど、おかしなコトを言ったツモリは無いのだが。
「………わたし、何か変なコト言った?」
「……んあ?あ、あー……や」
 問い掛ければ、返ってくるらしくない歯切れの悪い返事。
 指に挟んでいたタバコを口に咥え、紫煙を立ち上らせながら、
 考え込むような顔で通りを行く人を眺める。
 そのまま並んで2人、ただ通行人の姿を目で追って。
「…………そうか。俺が……そう、なのか」
 小さく呟き、ウタビトはすっと息を吸い込んだ。
 そして流れ出す、旋律に乗せた男らしい、けれど澄んだ声。
 いつもと同じ……いつも唄っている童謡、マザーグース。
 幾編もある内、いつの間にか覚えてしまった数編の内の一編。
 
  There was an old woman, Lived under a hill
  There was an old woman
  Lived under a hill,
  And if she's not gone
  She lives there still.

 唄いながら、この街に居るかもしれない彼女へと想いを走らせる。
 高校の頃の自分は先のことなど見えなくて。
 ただ、彼女の歌声を追うことに必死だったけれど。
 タブン、あの頃から自分はあまり変わっていない。
 ただ、唄うのが自分になっただけで。
 あの時言っていたように、唄って運命の相手を探しているだけで。
「…………見付かるといーね。彼女」
「あぁ……まぁな」
 女子高生の言葉に小さく同意し、空を見上げる。
 何年が過ぎても、変わらぬ夕焼け空。
 耳を澄ませば、遠く、何処からか蝉の声が聞こえてくるような気がしていた。

 その歌は。ただ、1人の為に。