チャイムの音と同時に席を立つ。
 鞄を手に、友達と挨拶を交わすのももどかしく廊下を走る。
 ここ数日、わたしには学校帰りに必ず通っている場所があった。
 廊下を走りぬけ、校門を飛び出す。全速で駆け抜ける目の端に、ヒマワリの鮮やかな黄色が焼きついて過ぎた。
 そういえば、いつの間にかもう夏の終わりだということに気付く。
 日が、過ぎるのは本当に早い。
 ついこの間必死な思いして高校に入ったと思ったらもう2年生の夏休みが終わって。
 入学した頃から全然変わってない気がする自分に、少しばかり焦ったりもする。
 夏の日を反射してキラキラ輝く川沿いに、踏み固められた道を走る。
 同じ学校帰りの自転車が、脇を追い抜いて行った。
 細い道は、やがて街の商店街に繋がる。
 人々が行き交う中を、間を縫うようにしていつもの場所を目指す。
 前を通り過ぎた揚げ物屋からは、香ばしいコロッケの匂いが漂ってきた。
 食欲をそそる匂いに空腹感を刺激されながら、アーケード越しに差し込む夕陽に、目を細める。
 最近は日が落ちるのが段々早くなってきた。
 風も少し涼しさを帯び、これから来る秋を思わせる。
「あ、いた…ウタビト!!」
 商店街の中ほど、ずっと前に閉店した花屋の前で、わたしはシャッターの前に座る人物に声をかけた。
「おー…」
 声に応えたのは、一人の男。吸っていた煙草を指に挟み、その右手をヒラヒラ振ってみせる。
 短く切った銀色の髪は、やっぱり染めているんだろう。
 ホストみたいなブランドスーツに薄い色のサングラスの格好は、明らかに周囲から浮いている。
「今日も学校帰りか?ジョシコーセイ」
「うん、そー…だから。いっつも言ってるけど、
 私は「ジョシコーセイ」じゃなくて美咲だってば」
 会った時から恒例行事になっている遣り取りをしつつ、隣に座る。
 身長差があるせいで見上げる位置にある顔を、軽く睨み付ける。
「俺にとっては、十代少女は漏れなくジョシコーセイだ」
「…………」
 当たり前のように断言され、小さく溜息を吐いて諦める。
 名前を呼んでくれとゴリ押ししてみたところで、聞く人ではないことくらいは分かっていた。
 わたしがこの変な男と出会ったのは、二週間前。
 今と同じ学校帰り、夕暮れの商店街で、同じように唄うコイツを見かけた。
 いかにも周囲から浮いていて、そこだけが別世界のようで。
 夕焼けを反射してオレンジに染まった銀髪に、強く心魅かれた。
 さらに、男らしい、けれど澄んだ声で唄うのが

 Ride a cock-horse to Banbury Cross,
 To see a fine lady upon a white horse;
 Rings on her fingers and bells on her toes,
 And she shall have music wherever she goes


 というマザーグースだったということにも、ひどく興味をそそられて。
 気が付いた時には何の躊躇いも無く唄う彼に声を掛けていた。
 その時のコイツとの会話は、今思い出しても笑える。
 サングラスの薄い色したレンズ越しに、可笑しそうに笑った目が印象的だった。
『ねぇ…』
『ぁ?』
『あんた、誰?』
『ウタビト』
『……はい?』
『唄う人、だから“ウタビト”OK?』
 OK、じゃ無いと今でも言いたくなる。
 フツー、誰と訊かれて“ウタビト”なんて答えるヤツ居ない。
 なのに妙に自信たっぷりに言ってくるもんだから、思わず笑ってしまった。
 会ってからほぼ毎日会ってるけど、わたしはコイツのこと何も知らない。
 本名も、年齢も、何処に住んでいるのかも。
 知っているのは“ウタビト”って呼び名と、歌が巧いこと。
 何故か唄うのがマザーグースなこと。
 それと……
「今日も、探してるの?恋人」
「ん?あー…そりゃ、な。それが俺の目的だ」
 会って数日した頃、ここに通うのが日課になってきた頃に、彼が教えてくれた“目的”。
 数年前に別れた恋人を探しているのということ。
 写真の1枚も残っていない彼女にもう一度会いたくて、その女性が好きだったマザーグースを唄いながら、彼女が住んでいたこの街に来たというのだ。
 その話を聞いた時は映画にでも出てきそうなシチュエーションに笑いたくもなったけれど。
 語る声音とサングラスの奥の瞳がとても真摯で、何も言えなかった。
「見付かるといいね」
「ま…気長に探すよ」
 いつもと同じ遣り取りを交わし、訪れる沈黙。
 少し冷える夜の空気を感じていると、すっと小さくウタビトが息を吸い込むのが聞こえた。

 As I was going to St. Ives,
 セント・アイブスへ行った時
 I met a man with seven wives,
 出くわしたのは一人の男
 奥さん七人連れてる男
 Each wife had seven sacks,
 どの奥さんにも七つのバッグ
 Each sack had seven cats,
 どのバッグにも七匹の猫
 Each cat had seven kits:
 どの猫にだって七匹の仔猫
 Kits, cats, sacks, and wives,
 仔猫と 猫と バッグに奥さん
 How many were there going to St. Ives?
 さて セント・アイブスに行ったのは何人だ?

 人の行き交う商店街、夜気を含み始めた空気に溶けるように、ウタビトの声は響く。
 足を止める人こそ居ないものの、その声が家路を急ぐ人々の耳に届いたのは間違いないと思う。
 わたしは、コイツの声で紡がれるマザーグースがとても好きだった。
「今日は謎かけ歌?その答えって有名だよね」
「そか?お前も知ってるワケ?ジョシコーセイ」
「美咲だって。うん、答えは一人。違う?」
「正解」
 クスクス笑いながら、ウタビトは短くなった煙草を捨てて新しい煙草を取り出す。
 咥えて火をつけると、独特の甘い香りがふわりと漂った。
「あんたの煙草って、変わった匂いするよね」
「そか?」
「ん、バニラみたい。何て名前?」
「アークロイヤル」
「……アークロイヤル」
 教えられた名前を、口の中で反復する。
 正直煙草は嫌いなんだけど、この煙草だけは嫌いじゃないかった。
「吸ってみるか?興味あんなら」
「いいの?」
「なわけねぇだろ」
「何それ!?」
「十年早い」
「って、私はもう17だし!!」
「じゃぁ、待ちな。あと3年」
 カラカラと笑う声に憮然としつつ、ウタビトの傍らに置かれた鞄に目をやる。
 平凡な(けれど高そうな)黒い革鞄の中から、1冊の本が覗いていた。
 引っ張り出すと、それは分厚くて綺麗な装丁の童話で。
 古びた表紙には飾り文字で『ウタビト』と刻まれている。
「まだ、読めてないの?これ」
 栞が挟まれている真ん中辺りのページを開きつつ、訊ねる。
 初めてこの童話を彼が読んでいるのを見かけてから、栞は全く移動していなかった。
「んん…あー…どーも、結末を知るのが怖くてな」
 眉を寄せてそう答えてくるウタビトを横目で見つつ、大きめの文字を軽く目で追う。
 彼の“ウタビト”って名前はここから取ったとわたしは思ってたんだけど、彼によるとそれは違う、とのことらしい。
 それでも、コイツの言うとおり童話の方が真似したってことは無いと思うけど。
「あ…そだ。ねぇ、ウタビト。今日の夜、お祭り行かない?」
「……祭り?」
「そ。ここ少し行った神社であるんだけど。
 せっかくだし一緒にどかなって」
 本を鞄に戻しつつ、ウタビトを誘う。
 毎年妹と一緒に行っている祭りだけど、今年はクラブの友達と行くと言っていた。
 わたしも、友達を誘ってもよかったんだけど…
「そだな…ん、いいぜ」
「ほんと?じゃ、夜の8時に此処で」
「はいよ」
 短い遣り取りを交わし、また唄い出したウタビトの声に耳を傾ける。
 ふと視線を上げたアーケード越しの空は、少しずつ夜の色に染まりつつあった。



 それは遠い世界、いつかの時代の物語。
 恋人を探して世界を回る旅人と、
 毎年来る彼の歌を楽しみにしている病弱な少女の物語