菜々子がメモ帳に書く「玲二くん」という文字を目にするたびに、自分の名前を好きになった。

「菜々子」と彼女の名前を呼ぶとき、いつもよりずっと自分の声が心地よく響いた。

菜々子の好きな小説の話。
玲二が好きな映画の話。
菜々子は数学が一番得意なこと。
玲二が実はものすごく音痴なこと。

そんな他愛ない話をたくさんした。

だけど、本当に聞きたいことは何ひとつ言葉にできなかった。

「学校や教室で辛いことはない?」

「どうしてしゃべらないの?」

いつか、そのうちに。
そうやって先延ばしにしているうちに‥‥

いつかの機会を永久に失うことになるなんて、玲二は考えもしなかった。


その日は、あまりにも突然にやってきた。忘れもしない、冬休みを目前に控えた木曜日のことだった。
朝から降り続いていた雪は午後になって、吹雪と呼べるくらいに勢いを増していた。 サッカー部も含め外での部活動は全面的に中止となり、授業が終わったら速やかに帰宅するようにと教師から指示が出ていた。

東京は雪に慣れていない。この程度の雪でも交通機関は簡単に麻痺してしまう。
電車が止まる前に帰宅しようと玲二もホームルーム終了のベルとともに教室を出た。

下駄箱で靴を履き替えていると、トントンと誰かが背中を叩いた。
玲二が振り返ると、そこには菜々子が立っていた。

「どうした?」
いつものように、玲二はゆっくりと口を動かす。
菜々子は妙に強張った顔をして、メモ帳を取り出す様子もなかった。

「雪、すごいね。 帰り、気をつけて」
玲二は外を指差しながら、菜々子に笑いかけた。
すると、菜々子が小さく唇を動かした。

玲二は驚きで目を見張った。菜々子が声を出そうとしているように見えたから。

それは玲二の勘違いではなかったと思う。確かに、菜々子の唇から言葉が紡がれようとしていた。

「玲二〜」

その言葉とともに玲二は背中にドンという衝撃を感じた。

「今日、部活休みになったんでしょ?
じゃあ、一緒に帰ろうよー」

「‥‥つばき」

玲二の背中から、つばきがちょこんと顔を覗かせた。玲二に抱きつくように、腰に腕を回している。

「あれ⁉︎ なにか、取り込み中?」

つばきは玲二と菜々子の顔を見比べながら言った。菜々子は凍りついたような表情で、つばきを見ていた。

「ごめん、つばき。 ちょっと待ってて‥‥」

玲二はつばきにそう言ったけど、菜々子は大丈夫というように首を横に振った。
そして、つばきに小さく会釈をすると菜々子は踵を返して歩いていってしまう。

「待って!」

玲二のその声は、当然菜々子には届かない。伸ばした右手は行き場なく、空をつかんだ。

「今の子、誰? 玲二のクラスの子⁉︎」

つばきはわかりやすく不機嫌になり、その後も色々となにか言っていたけれど、
すべて玲二の耳から滑り落ちていった。

菜々子は何を言おうとしたんだろう。
そればかりが気になって、仕方なかった。

つばきに怒られても、嫌われてもいい。
どんなに罵られてもいいから、この時菜々子を追いかけるべきだったんだ。

10分、いやほんの1分だっていい。

菜々子を引き留めることが出来たなら、あんなことにはならなかったかもしれない。

それだけは、悔やんでも悔やみきれない。玲二の心に一生消えることのない暗い影を落とした。