「いやっ、だって耳が聞こえないんだからさ‥‥」

当然話せないんだろうと言いかけて、玲二ははたと口をつぐんだ。
菜々子の耳が聞こえなくなったのは二年前だ。玲二の思考を見透かしたように橋口が続ける。

「お前さ、2年間日本語通じない国に住んだからといって日本語忘れるか⁉︎」

その答えは考えるまでもなく、もちろんノーだ。だけど‥‥

「それとこれは全然違うだろ」

「いや、生まれつき耳が不自由だと話すのも無理みたいだけど、後天的な場合は話せる人が多いんだって。ま、クラスの女子がなんかの本で読んだって話だから個人差もあるのかもしれないけど」

「そういうもんなの?」

「菅野さんは少なくとも休学する前は普通にしゃべってたらしいからさ。
しゃべれないってよりはしゃべりたくない……なんじゃねーの」

話せないのか、話したくないのか。彼女の本音は彼女にしかわからない。
だけど、会話をしないことが菜々子がクラスで孤立する一因になっているのは確かなようだった。


図書室なんて、玲二は今まで用が無ければ行くことはなかった。年に数回とかその程度だ。それなのに、今はなにかと理由を探しては図書室に通うようになった。

図書委員の菜々子はいつも貸出カウンターの向こう側に座っていた。

カウンターの前を通る玲二と目が合うと、あの綺麗な微笑みを返してくれる。
足繁く通ったかいがあったのか、菜々子の方も玲二の顔を認識してくれたようだった。
彼女が自分を見つけて、微笑んでくれる。ただそれだけのことで、玲二の胸はじんわりと暖かくなった。


そんなささやか過ぎる交流を続けている間に夏が過ぎ去り、秋も終わりを迎えようとしていた。

長い銀杏並木で有名な大通りには、どこまでも続く芥子色の絨毯が敷かれていた。玲二がその絨毯に足をおろす度にクシャリクシャリと乾いた音を立てる。
まだ陽が落ちていないにもかかわらず、カーディガン1枚では肌寒いくらいだ。

「ーーってば。もうっ、ちゃんと聞いてる?」

ぐいっと腕を引かれるのと同時にぼんやりしていた玲二の意識も現実に引き戻された。

「えっ? ごめん。なんて言った?」

機嫌を損ねたつばきが口をへの字にして、むっつりと黙り込む。ジロリと玲二をにらみつける瞳からは冷たい怒りが感じ取れる。

つばきが怒るのも道理だろう。久しぶりの放課後デートだというのに玲二はずっとうわの空だった。

図書館に通う回数が増えるにつれ、つばきと会う時間は減っていった。

優しいキスはいつの間にか熱量の低い、まるで挨拶のようなものに変わった。
はにかむようなつばきの笑顔も、もう随分と見ていなかった。

「……玲二はさぁ」

つばきが何かを言いかけて、ためらうように口をつぐむ。

「なに?」

「……何でもない」

不満げだった顔は諦めたようなさみしげな表情に変わる。

ここ1ヶ月くらいの間で同じようなやり取りが何度かあった。
玲二は鈍い方ではないから、本当はなんとなく気がついていた。

つばきはこの関係を先に進めることを望んでいるのだろう。
もしくは、きっぱりとここで終わりにしたいのか。

そのどちらであっても、つばきが明確に意思表示をしてくれれば
玲二は受け入れただろう。だけど、常に主導権を握っていたはずのつばきが、
この問題に関してだけは玲二に委ねるような態度を取り続けていた。

つばきのことは嫌いじゃない。嫌いじゃないからこそ……玲二はどこへも進めなかった。