出会いとも呼べないファーストコンタクトから1ヶ月が経過した頃、玲二はやたらと視界に入ってくる彼女の名前を知ることになった。

昼休み、課題に必要な資料を借りようと図書室に行ったときのことだった。昼休みの図書室は生徒もまばらで、とても静かだった。この高校は図書室とは別に自習室も完備されているし、そもそも受験生が少ない。そのせいか、数名の本当に本が好きな生徒がパラパラとページをめくる音だけが聞こえてくる。

玲二は目当ての資料を棚から取り出して貸出カウンターへと向かった。

「あっ」

思わず、声を出してしまった。カウンターに座っていたのがあの正体不明の彼女だったから。
結構大きな声を出したにもかかわらず、彼女は下を向いて作業をしたままこちらも見もしない。

「あの、貸出お願いします」

そう言いながら、彼女の前に本を差し出す。すると、彼女はゆっくりと顔をあげた。縁なしの眼鏡の奥の澄んだ瞳が玲二の姿をとらえると、にこりと微笑んだ。

__なんて綺麗に笑うんだろう。

印象派で有名な画家の絵を玲二は思い浮かべた。いま、彼女の周りに額縁を置いたら、あんな感じになるんじゃないだろうか。そんな馬鹿なことを考えた。

彼女は無言のまま手続きを進めていく。ほんの少し、違和感を覚えた。
決して感じが悪いわけじゃなくとても丁寧なのに、ここまで口を開かないのはどうしてだろう。

その時だった。すぐ側にある大きなガラス窓にサッカーボールがぶつかり、ガシャンと派手な音を立てた。
玲二はびくりと弾かれたように、反射的に窓の外に顔を向けた。
昼休みにサッカーをして遊んでいた奴が誤ってぶつけてしまったのだろう。慌ててボールを取りに走ってくるのが見えた。幸いなことにガラスは割れてはいなかった。

玲二は視線を彼女に戻す。彼女は何事もなかったかのように作業を続けていた。

__あれ?もしかして……

そう思ったときに、彼女の長い髪の隙間に肌色をした小さな器具を見つけた。
補聴器と呼ばれるものだ。

__あぁ。どうりで知らなかったわけだ。

玲二は自分が彼女の顔を知らなかった理由に思い至った。確かめるように彼女の胸の名札をちらりと盗み見る。

【菅野】

菅野菜々子(すがのななこ)。彼女は本当なら昨年卒業していたはずの先輩だった。

高校に進学してすぐの頃に彼女の噂は玲二の耳にも入ってきた。
二つ上の三年生の先輩に突然耳が聞こえなくなってしまった人がいると。
突然……とはいっても、元々聴覚は弱く聞こえずらかったらしい。だけど会話に困るようなレベルではなかった。
それが急に悪化してほとんど聞こえなくなってしまったそうだ。

視力が悪いことと目が見えないことが全然違うように、彼女のそれも彼女にとっては絶望的な変化だったのであろうことは玲二にも想像がつく。

まずは生活に慣れるためということで彼女はしばらく休学をした。

そして、今年の春に玲二と同じ学年として戻ってきたのだ。

__そうか。この人が菅野さんか。