夢の中でも悩み続けるということになると、もう私は寝不足だった。

 もういい、決めた。

 翌朝いつものように出社して自分の机に座った瞬間、私はぷつんと、自分の中で何かが切れる音を聞いた。寝不足で思考力も落ちた私は、もうやけくそになったのだ。

 夢の中なんだから、誘いでも何でも受け入れればいいじゃない。夢の中だって分かってんだから、手をつなごうがキスしようが何しようが構わないわ。

 現実ならまだしも、夢の中でまで夫に操立ててどうすんのよ! だから、今晩も慶介くんの夢を見たら、私は絶対に慶介くんを受け入れよう。いや、私から積極的に飛び付いて、手を握ってやる!

 それが私の決断だった。英子に話したら、完全に浮気だって言われるだろう。けど、もうそんなこと構うもんか。夫に言わないのなら、英子にだって言わなきゃいいのよ。

 そう決めた瞬間、私は大きく息をついた。もっと早くそう決めちゃえば良かった、思わずそう思ったほど、私の心はウソみたいにすうっと軽くなって、緊張していた体が一気に緩むのを感じた。

 まったく、夢ごときにこんなに気持ちを左右されるなんて、馬鹿みたい。でも、大事な会議の前に気持ちが楽になってよかった。

 私はきれいに整えた資料をホチキスで止めると、壁の時計を見上げた。そろそろ会議室に行かないと、松村先生がいらっしゃる時間だった。

「飯塚さん、第三会議室ね」

 課長が通りすがりに私に確認する。

「はい、すぐに行きます」

 心なしか浮かれた気分で、私も会議室へ向かった。先生がいらっしゃる前に、お茶も用意しておかないといけないし、イスも出して……。まだ誰もいないはずの会議室のドアを、私は軽く開いて、そしてむっと顔をしかめた。

 そこには気楽な様子で椅子に腰かけて携帯をいじる一人の男がいた。イヤホンで音楽を聴いているのだろうか、私に気付く様子はない。会議室には、こうやってときどき仕事をさぼって休憩しに来る不届き者がいるのだ。私は少し強めの声を出した。

「あの、ここもうすぐ企画で使うんで……」

 私の声に、男はやっと気付いて顔を上げた。そして、私を見て驚いたような顔をする。その顔を見て、私も頭の中が真っ白になって、手の資料がばさばさと床に落ちた音でやっと我に返った。

「大丈夫ですか」

 男が慌てたように、床に散らばった紙を拾い上げる。私もすみません、と声を上げ、しゃがみこんで紙を集める。

 嘘? 本当? 嘘? 私の顔は赤くなって、それから青くなって、そうしている間に男は紙を揃えて、真正面から私に向かって差し出した。そして、少しためらったあと、こちらを探るように問いかける。

「あの、違ってたら、すみません。酒井美咲さん、ですよね? 押上小学校のときの……」

「雨宮、くんだよね……」

 台風渦巻く胸の中から、私はやっと言葉を集めて口にする。私のその言葉を聞いて、男はほっとしたように息をつき、私の夢の中とそっくりな笑みを浮かべた。

「あ、やっぱり。全然変わってないね、すぐに分かった」

「う、うん、私も……」

 私はどうにか胸の内を読まれないように、顔がひきつるのを感じながらも、やっとのことで笑みを浮かべる。どうか変な顔をしてませんように、私は胸の中でひたすら祈る。

「よかった、覚えててくれて。こっちが分かって、美咲ちゃんがわかんないんじゃ、何か悲しいからさ。……あ、ってことは美咲ちゃんが松村先生の窓口なんだ? 今、俺、本のまとめる手伝いをしてて、今日は先生が来れないから代わりに俺が……ああ、俺、今こういうことやっていて……」

 思ったよりも饒舌な慶介くんが、胸ポケットの中から桜同大学と書かれた名刺を取り出す。真っ白な紙に薄く桜の花びらが印刷されたその名刺には、慶介くんの名前に、私がホームページで見たのと同じ肩書きがついていた。

「あ、私は……」

 私も慌てて資料を机の上に置くと、もつれる指先で名刺を取り出す。あ、でもこの名刺って……。私がそう気付いたときには、慶介くんの長い指は私の名刺をすっと引き、そして――。

「あれ? 飯塚……あ、そうなんだ」

 そこに書かれた姓を見て、慶介くんは驚いたような顔をする。慶介くんのその顔に、私の胸のどこかがチクッとして、そしてどうしてか泣きたくなる。

「……美咲ちゃん、結婚したんだ。おめでとう」

 ありがとう、と私はか細い声で言葉を返す。その間も、私の胸のチクチクは治まらなくて、そんな私に慶介くんは追い打ちをかけるように、あの優しい笑顔で笑った。

「俺、昔のことだけどさ……」

 まさか。

 そう思うのと同時に、夫ののんびりとした笑顔が胸に浮かぶ。

「美咲ちゃんのこと――」

 慶介くんは照れたように私を見る。その先を言わないで! 嫌な予感に、私の心は悲鳴を上げて、とっさに私は口を開いた。

「あ、私、お茶持ってこないといけないんだった! ごめんなさい、今すぐに……」

 私はそう叫ぶと、ぽかんとした顔の慶介くんを会議室に残して、ドアの外へダッシュした。

「おい、飯塚。会議始めるぞ――」

 ちょうどすれ違いに会議室へ向かう課長が、すごい勢いで廊下を走る私を、驚いた表情で見る。

「お茶、淹れてきます!」

「ああ。……ん? 給湯室は逆――」

「はい!」

 私は言われた意味がよくわからないまま大声で叫び返すと、自分の席に駆け戻り、昨日机の中に放り込んだ、ホッカイロを取り出した。そしてやおらシールをめくり、背中にバンと貼りつける。それから、また大急ぎで廊下を走って給湯室へ向かった。

「やだあ、美咲。背中に何かついてるわよ。何これ、ホッカイロ?」

 ちょうどお茶を淹れに来ていたらしい英子が、大急ぎで走り込んできた私を見て、目を丸くする。

「風邪でも引いてるの? それにしたってこんなもの、思いっきり見えるところに貼らなくたって、下着に貼るとか……」

「英子」

 私は手早く三人分のお茶をお盆に乗せて、英子のほうを見もしないで言った。

「私、浮気なんて絶対にしないから」

 そう宣言して、そして私はお茶をこぼさないように早足で会議室へ戻る。

「何よ、あんた、まだ元彼の夢なんか見てるの?」

 給湯室から顔を出した英子の声が、私の背中に投げられる。

「見ないよ!」

 私は叫び返して、それから心の中で確かめた。

 うん、もう絶対に慶介くんの夢は見ない。

 慶介くんのいる部屋の前で、私は一旦立ち止り、大きく深呼吸をする。慶介くんが私のことをどう思ってるかなんて、最初から関係なかったんだ。私は決意を込めて、会議室のドアを開けた。