「マジ、あそこまで言うことないっしょ。みずきに向かってパートリーダー代われとか」
「うそっ、亜沙実そんなこと言ったの?」
最初のは麻奈で後のが愛結。ホルンも休憩中なのか、愛結がいるってことは睦もいるんだろう。これではっきりした。部活で過ごす麻奈たち、教室で過ごす愛結たち。どちらにもあたしの味方はいない。
「言ったよー。マジ、あたしも佑香も超気まずかったんだから。一年生は怖がっちゃってさ、後で犬飼先輩って怖い人なんですか、なんて聞いてくるし」
「それで、なんて答えたわけ?」
また愛結。いつもはおとなしいのに今は興味津々って感じで声に勢いがある。あたしの悪口はみんなの中で面白おかしいものとして扱われていた。
「性格キツいしあんま関わらないほうがいいんじゃないって言った。ねっ佑香」
「あはは、ひどい。あんま関わらないほうがとか」
「でもさぁ、事実っしょ? イライラしてるのかなんか知んないけど、やたらキツいとこあるじゃん、亜沙実って」
笑ってる睦に対し佑香のトーンは声は大きいのに潜められてて、悪口を言う時の口調になってた。うん、そうそう、相槌が重なって聞こえる。麻奈がため息にも似た声を出した。
「なんかねぇー。和を乱すっていうの? ああいうタイプ。言ってることは間違ってないんだけど、はっきし言ってウザいよね」
「みずきも嫌だったでしょ、あんなふうに言われて」
佑香が言ってみずきの声が返ってくるまで、ちょっと間があった。みずきはいつものように遠慮がちに、でもはっきり言った。
「正直、ちょっと嫌」
「そりゃそうだよねー。なんか、いきなり部活一筋の真面目ちゃんになっちゃったみたいでさ、はぁ、何いい子ぶってんのってなる」
麻奈が言って、またうんうん、そうそうと相槌が重なる。みんながノッてきた会話はスピードを増して、誰が誰の声だかわからなくなっていった。自分への悪口ばっかり拾ってしまう耳は、鼓膜が少しずつ麻痺していく。
「亜沙実にえらそうなこと言われたくないよ。こないだも、亜沙実も入れてみんな一緒にサボったじゃんねぇ?」
「あぁ、佑香たちとマック行った時っしょ? 亜沙実、テンション高かったなぁ」
「亜沙実って結構サボるよね。朝練だって遅れてくることあるし。しかも言い訳が妹のことでとか家のこととか。そんなの理由になんないよ、みんなそれぞれ大変なんだから」
「だよねー。サボるだけサボってひとがちょっとミスしたらえらぶって。何それって感じ」
「ねぇ、美晴ってなんでいつも亜沙実と一緒にいるの? 親友なわけ?」
美晴、その名前が悪口まみれで麻痺しかけた耳を叩き起こす。このドアの向こうに、美晴もいるんだ。不安と緊張と、親友を信じたいという気持ちをごっちゃにしながら、あたしは美晴の言葉を待つ。
でもやがて聞こえてきた美晴の声は、ひとかけらの望みをあっさり打ち砕いた。
「別に親友じゃないよ。向こうが勝手に親友だと思って、くっついてるだけ。あの子結構根性歪んでるからさ、相手するの、時々キツいんだよね」
「うわぁ美晴、ひっどー」
笑いながら言ったのが誰だかわからなかった。もはや誰でもよかった。あたしは素早く踵を返し、自動操縦されてるロボットみたいにつかつか足を動かす。この場から離れたってみんなにまた好きになってもらえるわけもないのに、逃げたら、逃げまくったら、そんな奇跡が起こるんだって信じてるように。
風花にムカつくって言われたのも、麻奈にウザいとかいい子ぶってるって言われたのもキツかったけど、一番ショックだったのは美晴の言葉だった。あたしを「あの子」と呼んだ美晴。別に親友じゃないって、あんなに簡単に言えてしまう美晴。ずっとあんなに近くにいて、あたしは美晴の本当の気持ちにさえ気付けなかったんだ。それじゃあたしかに、親友なんかじゃない。
たんたんたん。生徒がみんな帰ってしまった放課後の廊下に、あたしの足音だけが高く強く響く。どこかでトロンボーンかサックスか、吹奏楽部の仲間が練習してる音がするけれど、速足で歩くからどんどん遠くなる。どこまでも歩く。ずんずん歩く。目的地もわからないまま、ひたすら足を動かす。
頭の裏はかっかして、鼻の奥がひりひりして、喉の奥には吐き出せない気持ち悪さがぐるぐるしていた。みんなに嫌われるのがこんなに気持ち悪いことだなんて知らなかった。みんながあたしを嫌い。みんなの中に、あたしはいない。あたしという存在が、少しずつみんなの中で「嫌い」の感情に汚されていく。それって、こんなに気持ち悪くてしょうがないことだったんだ。
今、気づいた。あたしはあたしが思ってたより、ずっとひとの目を通して自分を見てたんだ。みんなに好かれてるから、安心できる。みんなに好かれてるから、自信を持てる。みんなに好かれてるから、自分を好きでいられる。なのに、みんなに嫌われてしまったら。
気がついたら、自分のクラスの前にいた。ドアにはまった長方形のガラスの向こうに、机に座ってる、中年太りのおばさんみたいな肉付きのいい背中が見えた。エラの張った輪郭、痛そうな赤いニキビが散るほっぺ、つやのない中途半端な長さの髪。文乃の指の短い手が、机の上で文庫本のページをめくっている。
放課後の誰もいない教室で読書なんて。そんなキモいことを平気でしているから嫌われるんだ。中学って場所では、変わったことなんかしちゃいけない。障がい者と付き合うことも放課後の教室で一人本を読むこともミスをした部活仲間を責めることも、いけない。嫌われたら周りには誰もいなくなる。誰もいなくなったら、この小さな世界は終わる。
いつも以上に文乃がウザくてムカついてその丸々した背中を蹴っ飛ばしてやりたくて、勢いよく教室の引き戸を開け、中に踏み込んだ。文乃がゆっくり振り向いて、あたしを見る。いつものような湿度100%の視線。腐った魚の目が、あたしに焦点を合わせた。
美晴が言ってたことを思い出す。文乃は本当は、助けてーって意味だけを込めてあたしやみんなを見てるんじゃない。美晴はちゃんと、気付いてたんだ。
目の前にある文乃の瞳はあたしに同情している。
蹴っ飛ばしたい気持ちは、すぐに消えた。でも矛先不明の嫌悪感は膨れ上がって、ひりひりした喉にごおっと熱が湧いて、引きつった唇を夢中で動かしていた。
「あんたウザいんだよ。キモいんだよ。なんで嫌われてるくせにいじめられてるくせに、学校来んの。どういう神経してんの。あんたがいるだけでみんな迷惑してんだよ。あんたがいるだけであたしは迷惑なんだよ。いっそみんなの前から、あたしの前から、消えてよ。早く死んでよ」
舌がうまく回らなかったから、文乃にどこまで正確にあたしの言うことが伝わったか、わからない。とにかくそんな意味のことを言って教室を出た。今度は速足じゃなくて駆け足になった。まだ鳴り続けているトロンボーンの響きや、グラウンドで練習する運動部の掛け声や、文乃のじっとりした目が追いかけてくる気がして、ひたすら走った。
爆発したはずなのに、喉の奥の気持ち悪さはよりいっそう膨れ上がる。
あたし、美晴たちと一緒に、文乃になんて言ったっけ。言い返さないからいけない、嫌だってちゃんと言えって、自分で頑張れ甘えるなって。
そう言ったあたしはこんなことくらいでちゃんと立ち向かえず、逃げてしまってる。完全な敵前逃亡。自分から言い渡した不戦敗。みんなの本音を聞いてしまった今、とても言い返すことなんか出来ない。あたしの悪口を陰で言うのはやめてって、そう言ったところでもっと傷つけられるに決まってる。
あたしは本当は、文乃に結構近い人間なのかな。
そう思った途端喉の奥の気持ち悪さがMAXに達して、吐き気がお腹の底から唇まで貫いた。走りながらうぐう、と死にかけの犬みたいな声を漏らし、その場に崩れてしまう。苦い胃液が舌の上に広がり、クリーム色のリノリウムに醜い吐寫物が飛び散った。すごい臭いが立ち上ってきて、その臭いのせいであたしは急速に自分を嫌いになっていった。
普通であること。普通でいること。それはとてもややこしい問題だ。
今のところ、わたしは本当にごくごく普通の、平均的な中二の女の子でいる。身長一五二センチ、体重三八キロのチビ。太ってはいないけど、胸も全然ない。二次性徴が遅くて、中一の二月まで生理が来なかった。
髪形は中学に入った時からずっと、肩の上で切りそろえたショートボブにしている。部活はテニス部。運動神経はあんまり良くないし部活に打ち込む熱血少女じゃないけど、上原郁子や仲のいい子たちがいるから、まぁ楽しく続けられてる。成績は中の上の下ってとこ。すごく微妙。
好きな科目は国語と英語で、苦手科目は数学。理科は第二分野だけ好き。おしゃれはそこそこ興味あって、雑誌は森潮美や関根美織から借りたのを時々読んでるし、制服のスカートだって二年生になってからは他の子と同じように、腰のところで一回折っている。でも化粧はまだしたことない。
好きな人は、今はいない。一年の頃はテニス部の先輩が好きだったけどその人には彼女がいて、付き合いたいなんて分相応な野心は抱けなかったし、先輩が卒業しちゃって会えなくなってからは、なんとなく気持ちが冷めてしまった。まだ中学生なんだから、きっと彼氏なんて焦って作るものじゃない。高校生になったらちょっとは頑張るかもしれないけど。
これといった取り柄もない代わりに、誰かに知られたらたちまち噂にされてしまうような家の事情(親がホステスさんだとか、ひまわり組の河野くんみたいな知的障がいの人が家族にいるとか)もないし、性格だっておとなし過ぎると時々通信簿に書かれるけれど、ちゃんと空気は読めるしみんなの間でうまくやっていける。
中学生は、他のみんなと違う、ということに病的なまでに敏感だ。変わってることを言ったりやったりすればいじめられるのはもちろん、顔がかわいいとか家がお金持ちだとかいう美点までやっかみの対象になり、いじめの原因になることもある。
普通でいることにほっとしてる一方で、普通過ぎる自分はちょっと悲しい。自分が何の色もにおいもついてない、ただの空気みたいで。たとえば、部活に打ち込んで大会があった後の朝礼で表彰される郁子や美織や潮美。たとえば、高校生みたいに着崩した制服で学校に来て休み時間は大声ではしゃいで目立つ、「いい」グループの人たち。
彼女ら、彼らには色もにおいもついているし、なおかついじめられたりハブかれたりしないで、集団の中で足並みそろえてやっていける。時々、そういう人たちがちょっとだけ羨ましくなる。
「あっ」
つい、声を上げていた。朝練が終わって教室に戻ってきて、HRが始まるまでのひととき。郁子たちと話しながら鼻を噛んでいて、丸めたティッシュを教室の端っこのゴミ箱に放り込んだ時、ゴミ箱の奥でピンクの猫のキャラクターがついたハンカチがくしゃくしゃになってるのに気付いた。わたしの小学校に入るぐらいの頃に流行ってたキャラクターグッズ。生地は洗濯を重ねてぼろぼろで、あちこちシミのついたストライプ柄のそれがゴミに囲まれている。
「希重―、どうしたのー?」
ゴミ箱の前で一時停止してしまったわたしに郁子が声を投げる。言い方はいつも通り明るいけれど、顔がちょっと訝しんでた。反射的になんでもないと誤魔化して、郁子たちのところに小走りで戻った。ちっちゃい頃好きだったあの猫のキャラクターを救えなかったことが気にかかって、喉の向こうがちくちくした。
郁子とは席が隣同士。同じグループの潮美と美織は席が離れてるけれど、休み時間はいつもこうやってわたしたちのところに来て、四人でしゃべる。今の話題は、郁子のお兄ちゃんのこと。お兄ちゃんの友だちがちょっと格好いいとか、お兄ちゃんが料理を作ってくれるんだけど卵焼きでさえまずくて食べられないとか、そういう、どうでもいい話。どうでもいい話を友だちと輪を作って笑いながら話すのは、どうでもよくない大切な時間だ。
同じテニス部に入ってて、サバサバした性格で手足がすらっと長くて、学級委員をやってるしっかり者で勉強もよく出来る郁子。背がクラスの女子の中で一番高くて髪の毛も短くてちょっと男の子みたいで、バレー部のエースの潮美。
その潮美とペアを組んでいて、こちらはどっちかっていうと女の子っぽくて、おしゃれや化粧にも興味があって刺しゅうが得意な美織。見た目は正反対だけど名前は似ているこの二人は「ミオシオペア」とか「シオミオペア」なんて呼ばれてて、校内でも有名なバレー部の花形だ。
この三人プラスわたしのグループは、クラスの女子の中では上から二番目に「いい」グループになる。小学校の後半から、クラス内のグループ同士、優劣がはっきりするようになった。
よく目立っていてクラスの中心的存在な「いい」グループと、雰囲気が暗くていつでも教室の端っこでじめっと固まってるような「悪い」グループと。先生に注目されたり、体育祭とか文化祭とかの学校行事の中心になれのは「いい」グループの特権だ。
告白したりされたり、彼氏や彼女が出来たりするのだって、ほとんど「いい」グループに入ってる男の子と女の子とで、「悪い」グループの間ではなかなかそういうことは起こらない。つまりどんなグループに自分がいるかで、学校生活の充実度が変わってしまう。
だから今自分が「いい」グループにいれることに、実はちょっと安心している。もちろん「いい」グループに入ってるかどうか、みんなに好かれてるかどうか、よく目立つ可愛い子かどうか、そんな基準で友だちを選んだりはしない……しないはずだ。でもちょっと安心していることは、誰にも言えない。
そういえば、あれも「いい」グループになるな。周防さんの笑い声がして、郁子の肩越しに置いといた視線を頭ひとつ分横にずらす。教室の後ろのほうに固まってるのは、周防エリサさん、半田鞠子さん、三川明菜さんに横井和紗さんに相原桃子さん。
この五人はいわゆるギャルグループで、ほんのちょこっと茶髪だったり化粧してたりスカートが三回折りだったり、中学生離れした見た目も大きな声もよく目立つ。一見ちょっと不良っぽいけれど少々夜遊びするくらいでほんとは別に不良じゃないみたいだし、クラスで浮いてもいない。
むしろみんな可愛くておしゃれだから女子の間では憧れの存在で、男子の間では三川さんや横井さんに思いを寄せてる子も多いって聞く。五人とも勉強は苦手らしいけど、喧嘩とか先生に逆らうとか、校内で問題を起こしたりはしない。むしろ先生とフレンドリーに話しているところをよく見かける。
グループ内の中心的存在で五人の中でいっとう美人な周防さんには、隣のクラスに彼氏がいる。背が高くて目鼻立ちがくっきり整ってて、他に片思いしてる女の子も多い中沢栄嗣くん。彼もちょっと不良っぽいタイプだから、周防さんとお似合いだ。
彼氏とか付き合うとか、中学生には早いと思うけれど、周防さんには決して早くない。彼女にはそう思わせるだけの美貌があったし、集団の中で中心になれる存在感もあった。だからなのか、わたしは周防さんがちょっと怖い。中学生レベルを遥かに超えた本格的な化粧に彩られた顔が、自分より明らかに劣っているあの子を優越感に満ちた瞳で見下ろす瞬間、まるで自分が攻撃されたようにスッと背筋が冷たくなる。
教室の後ろの扉が開いて、文乃が入ってきた。魚を思わせるエラが張った顔はいつも通り色がくすんでいて、目はどんより濁っている。途端に周防さんたちが色めきだって、五人頭を寄せ合って文乃を伺いなからひそひそ話を始める。何か塗っているんだろう、周防さんのテカテカした唇が、無邪気で残酷な笑みを作っていた。
文乃は自分の席をスルーしてまっすぐ教室の隅っこのゴミ箱に歩いていく。さっきわたしが、あのハンカチを見つけたゴミ箱。文乃はゴミ箱の前にO脚気味の足で立って、制服のブラウスの両腕を肘までまくり上げ、なんのためらいもなく両手を中に突っ込んだ。周防さんの隣で三川さんがうわぁー、と嬉しそうな声を上げて顔を歪める。文乃は両手でゴミ箱をかき回し、周防さんたち五人はくすくすひそひそ、暗い笑顔で盛り上がっている。
喉の向こうがまだちくちくしだした。わたしは文乃が何を探しているか知っている。知っているのにさっき、さりげなくゴミ箱からハンカチを取り出し、文乃の机の中に入れてあげなかった。そんなことをして、周防さんに見つかってしまうのが怖かったから。周防さんたちの「遊び」の邪魔をしたら、わたしまであの人の攻撃対象になってしまいそうで。
二学期になってしばらくして、周防さんたちは文乃をいじめるという「遊び」を始めた。一学期の頃のような、これから新しい一年が始まるというワクワク感はなくなって、楽しい夏休みも終わってしまって、少しずつ明るい時間が短くなっていく季節で、退屈してるんだと思う。
文乃の持ち物をゴミ箱に突っ込んだり、教科書に接着剤を塗りつけたり、机に「あんたマジきもーい、死ねば?」って落書きしたり。暴力を振るうとかクラス全体を巻き込むとか、ドラマやマンガに出てくるような壮絶ないじめじゃなかったし、ちょっと子どもっぽくてありふれたいじめ方ばっかりだったけれど、いじめはいじめだ。
文乃は泣いたりこそしないけど平気なわけないし、いじめは悪いことに決まってる。でもその悪いことを心から楽しんでいるような周防さんの残酷な笑顔を見たら、先生に密告するなんてとても出来なかった。わたしはやっぱり、周防さんが怖い。
文乃はゴミ箱をひっくり返して床をゴミだらけにして、教室じゅうから白い目で見られながらやっとハンカチを見つけ出した。ピンクの猫のキャラクターグッズで、ストライプの模様が入った綿のハンカチ。わたしは水玉で文乃はストライプ……小一の頃、うちのお母さんがわたしと文乃に一枚ずつ買ってくれたおそろいだ
わたしのはとっくにどこかへいっちゃったのに、文乃はまだ持っていたなんて。それが特別な意味じゃなく、ただなんとなく使い続けていただけだったとしても、喉の向こうが痛くなる。
ハンカチを拾った文乃は周防さんの聞こえよがしな声に晒されていた。
「うわーっ、ゴミ箱からハンカチ拾った人がいるぅー。あれで手とか顔とか拭くの? 信じらんない、汚っ」
周防さんを中心に五人グループがくすっと声を漏らし、美少女の暗い笑いが教室じゅうに伝染していく。いじめる子もいじめない子も、男子も女子も。誰もが文乃を自分より劣ったものとして見ていて、そんな文乃が同じクラスの中にいることに心のどこかで安心してた。たぶんわたしも。
「ねぇ希重。ちょっと、希重ってば」
郁子のとがった声に我に返り、慌てて三人に焦点を合わせると、郁子も潮美も美織も呆れた顔であたしを見ていた。初めて自分がぼうっとしていたことに気付く。どうやら三人は文乃がいじめられてることなんて気にもしないで、自分たちの話に夢中だったらしい。
失敗したな、と思った。みんなにひとの話をちゃんと聞かない子なんて思われたくない。どう弁解したらいいのかわからず黙っていると、郁子が苦笑しつつぱしっと背中を叩いた。
「んもー希重ってば今日、ぼうっとしすぎ。ちゃんと寝てきた?」
「ご、ごめん」
「別にいいけどさ。寝坊して慌てて出てきたんじゃない? ほらここ、寝癖ついたまんま」
「えっ、どこ!?」
「嘘だよ」
「ちょっともう、やめてよ。郁子のイジワル」
ぼうっとしてた罰! と郁子が笑って、つられるようにわたしも笑い、潮美と美織もケラケラかん高い声を上げる。悪者にならなくて済んでホッとしつつ、みんながあんまりわたしのことを気にしてないようで、妙に寂しくもあった。
学級委員でテニス部のエースの郁子、バレー部の花形ミオシオペア。みんなには色もにおいもあるのに、わたしだけ地味で普通で空気みたいな存在。もし明日いなくなったら郁子たちは心配するだろうけど、他のクラスメートはきっとすぐわたしのことなんか忘れる。
チャイムが鳴る。几帳面な担任は毎日チャイムときっかり同時に入ってきて、みんなは慌てて席につき、日直が号令をかける。HR中、先生の話を上の空で聞きながら、こっそり首を曲げて斜め後ろに座る文乃をちらっと見た。文乃は笑うことも泣くこともとうにやり方を忘れてしまったような無表情で、頬に散るニキビをいじっていた。
文乃は、わたしの幼なじみだ。
同じマンションの五階と六階に住んでた幼稚園の頃、文乃の頬にあの痛そうなニキビはひとつもなくてつるんとしてたし、今みたいにずんぐり太ってもいなかったけれど、暗い雰囲気を作っているあの前髪は今と変わらなかった。目を半分隠す長さで、重たくて真っ黒。視聴覚室のカーテンみたいに光を受け付けない、分厚い前髪の奥から時々覗く目は、その頃から年じゅう梅雨空のように暗かった。
文乃の暗さがどこから来るのかわからない。片親でこそあるけれど別に虐待とかを受けてたわけじゃなく、小さい頃はよく会ってた文乃のお母さんはばりばり働くキャリアウーマンで、男っぽいとか潔いって言葉が似合う、いい人だ。
しかし文乃はどういうわけかそのお母さんに見た目も性格もちっとも似てなくて、暗い性格だって生まれつきのものとしか言いようがない。かくいうわたしもみんなの後からついていくタイプだから、文乃とは気が合ったんだと思う。同じマンションで歳も一緒で女の子同士で、っていう偶然の重なりも手伝って、小さい頃のわたしと文乃はいつも二人で行動してた。
マンションの非常階段で何時間も「グリコ」「パイナップル」ってじゃんけんしたり、立ち入り禁止の屋上にこっそり入ったり、近所の雑木林に虫取り網片手に探検に出かけたり。わたしには十歳下の弟がいるけれど当時はその弟もまだ生まれてなくて、「きえちゃんきえちゃん」ってまとわりついてくる文乃が妹みたいなものだった。
お母さん同士も仲が良かったから、文乃のお母さんの仕事が遅くなる日はよく文乃をうちで預かってた。お姫さまごっこに幼稚園ごっこ、おかしやさんごっこ、今思うと何があんなに楽しかったのかよくわからないけれど、夢中になったっけ。
預かってもらうお返しにって、文乃のお母さんはたまの休みにわたしも一緒に、遊園地や動物園に連れてってくれた。だからわたしの小さい頃の写真には、姉妹みたいに隣に文乃が写ってるものが、何枚もある。
事情が変わったのは、うちが家を建ててマンションを出て行くことになった、小学三年生になる春からだ。遠くに行くわけじゃない、同じ町内だし同じ学校だし、引っ越してからもいつでも遊べるね、二人のお母さん同士はそんなことを言い合ったけれど、実際そうはならなかった。
新居は新しい家が次々建つ新興住宅街で、近所には同じ小学校に通う同じ学年の女の子がたくさん住んでいた。わたしはごく当たり前に、その子たちと仲良くなった。ちょうど小学校に入って初めてのクラス替えがあって、違うクラスになってしまった文乃とは学校で接する機会がなくなった。家は遠い、帰る方向がばらばら、クラスも違う。幼い友情は距離があるとたちまち綻んでしまう。
そしてこの頃から、文乃はみんなに嫌われ始めた。
いや、たぶんそれまでも暗くて動作の鈍い文乃は嫌われてたんだけど、文乃といつもべったりで、文乃以外に友だちを持たなかったわたしは、文乃が嫌われ者だったことに気付いてなかった。新しく友だちになった子たちはお姫さまを暴漢から守るように、わたしから文乃を引き離した。
相変わらず「きえちゃんきえちゃん」とわたしの姿を見つければ声をかけようとする文乃を、冷たい視線でけん制した。そして文乃のいないところで、文乃の悪口を言った。眉をぎゅっとひそめて、でもちょっと楽しそうに。「きえちゃん、文乃なんかと友だちなの?」「文乃なんかと一緒にいちゃ、文乃菌が移るよ」「きえちゃんはわたしたちといなきゃ。文乃と友だちなんて、だめだよ」……
最初はみんなの言葉に戸惑ったし、言い返したかったはずだけど、やがて知った。みんな今までわたしに話しかけたかったのに、文乃がいつもくっついてたせいで声をかけれなかったこと。つまり今まで友だちは文乃だけだったわたしは、いろんな子と仲良くする機会を失っていたこと。
「きえちゃんきえちゃん」とまとわりついてくる文乃より、新しい友だちと一緒にいるほうが楽しいこと。何より、文乃から離れてみて初めて、長い前髪で半分隠した目の暗さに気付いた。それまで普通の明るい子とちゃんと接したことがないから、わからなかったんだ。文乃が暗くてキモいって。
わたしは新しい友だちに合わせて、文乃を無視するようになった。一度嫌うべきものだって決めてしまえば気持ちは後から追いついてくる。いくら無視されてもわたしの友だちに睨まれても怯まず、廊下ですれ違うたびに「きえちゃんきえちゃん」って声をかけてくる文乃がウザくなった。
それまで妹みたいなものだったのに、小学三年生の心はあまりにも簡単に周りの色に染まる。わたしが他のみんなと同じ目で文乃を見ていることに文乃も気付いたんだろう、文乃の「きえちゃんきえちゃん」は小学校に入って三回目の夏休みを迎える頃には、なくなっていた。
どうして文乃がそんなに嫌われなきゃいけないのか。文乃は本当に何もしてない。ただ、可愛くない、性格が暗い、動きがトロくて勉強も運動も出来ない、忘れ物やなくしものも多くて先生からしょっちゅう怒られている。そういうことが十分すぎるほど、嫌われる理由になった。
大人の世界には格差社会って言葉があるけれど、子どもたちの間にはもっと残酷であからさまな格差がある。可愛くない子や暗い子はそれだけで何かと理由をつけられて嫌われて、可愛い子や明るい子ばかり得をする。明るくて可愛い子はいつも人に囲まれていて友だちがいっぱいいて男の子に告白されたりもして、先生にもよく目をかけられて。生まれ持った容姿や性格の差が教室での立ち位置を決める。
そんなふうにはっきり言葉にできたわけじゃないけれど、文乃と決別したあの頃、わたしは子どもの世界の残酷な真実にぼんやり気付いていた。
学年が上がるにつれ文乃の嫌われ方は激しくなった。いつも孤立している文乃がいじめに遭うのは何も今回が初めてじゃない。人づてに聞いた話だけど、五年生の頃、文乃はクラスで男子たちからいじめに遭い、女子たちは女子たちで文乃を排斥していて、問題になったという。
上ばきや持ち物を隠されるとか、給食の時に班ごとで机をくっつけ合うのに、文乃だけ5センチくらい離されたりとか。文乃がそんな目に遭ってしまうのをみんなもわたしも、しょうがないって思ってた。文乃はいじめられる原因を持ちすぎていた。ちょっとした行動や仕草が、嫌われる原因になっていた。
鼻をかむ仕草がキモい、髪の毛をいじってる指の形がキモい、食べ方がキモい、声がキモい、目がキモい、後ろ姿がキモい……
そんな嫌われ者の文乃と小二以来で同じクラスになった、中学生活最初のクラス替え。わたしは文乃と幼なじみだったなんて嘘みたいに教室で振る舞うことにした。周防さんたちによる文乃へのいじめが始まってからも、わたしの対応は他の子と同じ。「やめなよ」って言ったり、先生に言いつけたりしない。
いじめられてから文乃はだいぶ太ってしまったけれどその後ろ姿は昔と驚くほど変わらなくて、でもそのことに気づかないフリをしてた。
だからって、目の前でかつての友だちがいじめられていて、平気でいるわけない。
文乃がいじめられている教室で、いくつものわたしが生まれた。いじめられっ子の文乃と友だちだったのを誰にも知られたくないわたし。そんなふうに思ってしまう自分が情けないわたし。文乃を本当は助けたいわたし。周防さんが怖くて何も出来ないわたし。
本当の気持ちはひとつじゃなくて複雑に絡み合って、心をぎゅうぎゅう締め付ける。