それだけ言って口を閉じた。希重の肩に回した手を軽く押し、またお見舞いに来るねと言って歩き出す。ドアの向こうに消えても希重のすすり泣きはまだ聞こえていた。泣き過ぎだ。正直、こんなことになったからって希重がここまで泣くなんて、信じられない。信じられないけど、事実だ。希重はわたしのために泣いて謝ってくれた。
わたしを裏切った希重の罪はこれからも許せないと思う。でもそれとは別に、希重の涙を信じてみよう。今でもわたしのことをためらいなく友だちだと言ってくれた、その言葉を信じよう。たしかに希重の優しさは中途半端で偽善的だったけど、彼女の中にはちゃんとわたしを思う心が存在していたんだから。
ずっと、人から優しくされたいって思ってた。痛々しいほど、願ってた。いじめられっ子のわたしにそんなの無理だって諦めてたけど、本当は優しさはすぐ傍にあったんだ。
希重と上原さんの足音が遠ざかっていくと、お母さんが希重に代わってわたしの右手を握り、ベッドサイドの椅子に腰かける。古そうなパイプ椅子がぎしりときしんだ。
「文乃、ほんとうに、ごめんね……」
希重の前であれだけ泣いて謝ったのに、まだ言い足りないらしい。お化粧がすっかり落ちていつもよりちょっと小さくなった目がまた潤んでしまう。今日のお母さんは泣き虫だ。
「いいよ。わたし、結局、無事だったんだし」
「良くないわよ!!」
いきなり怒鳴られて反射的に体に力が入った。お母さんは昂ぶる心を鎮めるようにひとつ深呼吸をした後、静かに怒りを吐き出す。
「だってあのエリサって子、あんたを階段から突き落としたんでしょう!? その前からさんざんいじめてて……さっき希重ちゃんと上原さんから聞いて、びっくりした。あんなにひどいことされてたなんて……机に犬のウンチなんて、正気の沙汰じゃないわよ!?」
「……」
「いい、文乃? あんたがされたことはいじめじゃなくて犯罪、そして殺人未遂よ。階段から突き落としたんだもの。あんな子のこと、絶対許しちゃ駄目」
「殺人……未遂」
まがまがしい言葉が飛び出してきてつい繰り返してしまう。お母さんは両手でわたしの手をきゅっと握って、深く頷いた。もう目は潤んでいなかった。
「エリサ……これから、どう、なるの」
おそるおそる聞いた。あんまり長くいじめられてきていじめられることが当たり前になってしまって、いじめる側だけじゃなくてわたし自身がいじめを軽く見てしまっていた。
犯罪。殺人未遂。
わたしのされたことをちゃんとした言葉で表すとそうなるんだ。
「あんた次第で、訴えられる。そしたら捕まえることもできる」
「捕まえるって……」
「十四歳以上だもの、ちゃんと法の裁きを受けなきゃ。といっても、せいぜい少年院だろうけどね。ほんとに腹が立つわ、少年法なんてふざけてる……でも、何もしないよりはマシ。お母さんどうしても許せないのよ、エリサって子のこと」
さんざん怒られてきたけど、今お母さんが怒ってるのはわたしじゃなくてエリサだった。
なのに、自分が怒られてるような気がする。
なんたろうこの、胸の底でモヤモヤしているもの。
ここ数日何度も意識の表面に浮かんできてチクチク罪悪感を刺激した河野の笑顔が、また瞼の裏でチラついていた。
「証拠は十分よ、何人もあんたが突き落とされたところを見ているし、いじめがあったって、希重ちゃんや上原さんが証言してくれるっていうから。がんばろう、文乃。これからは一緒に戦うのよ。いろんな人が文乃の味方だからね」
お母さんはやっぱり強かった。ただ泣いてるだけじゃなくて、起こった現実を受け止め、前を見ている。転んでもただじゃ起きない、やられっぱなしじゃ済まさない。いつもこの人の言葉に傷つけられてきたけれど、今日はお母さんが頼もしい。
でもわたしは素直に頷けない。たしかにエリサは最低だ……けど。
「そんなの、エリサがかわいそう」
ぽつんと言うと、お母さんは信じられないという顔をした。
「かわいそう!? 何言ってるの!? あんたをあんなひどい目に遭わせた子でしょう。打ちどころがちょっと悪かったら死んじゃったり、重い障害が残るかもしれなかったのよ!? 先生に心配ないって言われて、文乃の意識が戻って、どんなにほっとしたか……」
「……」
「文乃がされたことは立派な犯罪なの。たとえ中学生だからって子どもだからって、絶対許していいことじゃないの」
噛んで含めるようなお母さんの言葉。わたしをまっすぐ思ってくれる人を直視できず、俯いた。お母さんの目を見れない。
たしかにわたしはエリサにひどいことをされていた。でもわたしだって、河野にひどいことをした。殴ったり蹴ったり、あいつの心を歪ませてしまうこと、たくさんした。
わたしが思っていたより世界はわたしに優しかった。救いは見えてないだけですぐ目の前にあった。でもわたしはその優しさに、救いに、甘えられない。甘える資格がない。
お母さんの声がやわらかくなる。
「優しいのね、文乃は……いじめられても優しい心をなくさなかったのね……いじめに屈さないで、ちゃんと優しい文乃のままでいたのね。えらいわ文乃」
「……」
「でもね、人に優しくする前に、まずは自分に優しくしなきゃ。自分を大切にしなきゃ」
優しい? 全然違う。ほんとのわたしはいじめられていじけていろんなことを諦めて、自分から世の中すべてに背を向けて、ひねくれて。そして最悪なことに、自分がされことと同じことをひとにして、そんな方法で自分を守ろうとしてた。
お母さんは何も知らず、わたしが優しいのだと信じてくれている。
あたたかい手がわたしを抱きしめた。涙が出た。小さい頃されたように、頭をよしよししてくれる。
「いいのよ、もう泣かなくて。あんたはもう一人ぼっちじゃないの、お母さんが、みんなが、守るから……苦しかったね。辛かったね。よくがんばったね」
違う、違うよお母さん。
わたしはいじめの被害者だから泣いてるんじゃない。加害者だから泣いてるの。
わたしも加害者だから同じ加害者であるエリサを責められない。自分もまたいじめをしていたんだという後ろめたさが、エリサに向かうべき怒りや憎しみに歯止めをかけている。
きっと、一生そうなんだ。罪を、罪だと憎めない。加害者である以上、自分のしたことは死ぬまで記憶につきまとう。いつか遠い未来わたしに子どもができたって、その子にいじめはいけないと堂々と言う権利を、自分がいじめをしたことで失ってしまった。いじめをするっていうのは、こういうことなんだ。
「大丈夫だからね文乃。もう大丈夫」
あったかい言葉が、頭を撫でてくれる優しい手が、苦しい。できることなら自分が背負った罪を、今すぐ打ち明けてしまいたい。わたしはいじめをしたんだと。でもそれをしたら、お母さんをきっともっと苦しめてしまう。自分の子どもがいじめられていたより、自分の子どもがいじめをするような子だって知ったほうが、辛いはずだ。
だから、せめてこれ以上お母さんを苦しめないように。
お母さんを二度と泣かせないように。
この胸の痛みをたった一人で引き受ける決心を、そして被害者じゃなくて加害者として生きていく決心を、した。
<完>
舞台は東京都下の中学校。見た目はデブでブサイク、性格も暗い高橋文乃は派手な周防エリサグループたちからいじめに遭っていた。
いじめを見てみぬふりをする犬飼亜沙実、文乃の幼馴染ながら文乃を助けられず、罪悪感に苦しむ近江希重、エリサの仲間でエリサに言われるがままいじめに加担するも、エスカレートしていくいじめに戸惑う半田鞠子。
そして、いじめの被害者である文乃もまた、知的障碍者の生徒である河野潤平に陰湿ないじめを行っていた。
一方、エリサは文乃をいじめることでみんなの中心になろうとしていたが、どんないじめをしても反応の薄い文乃に満足感を得ることができず、いじめをさらにエスカレートさせていく。
そんなエリサに友達もドン引き、やがてエリサがいじめの被害者に。
文乃への憎悪を募らせるエリサはある日文乃を階段から突き落とす。しかしそれがきっかけで文乃は希重・母と心を通わせることができる。