目を開けた途端に何の夢を見ていたのか忘れてしまう。


忘れるぐらいだから特にいい夢でも悪い夢でもなく、現実を一度ばらばらにしてまた繋ぎ合わせたようなインパクトもリアリティもない夢だったんだろう。


たまに目が覚めても布団の中でしばらく、あれあたしなんでこんなとこにいるのって混乱するほどリアルな夢を見ることがあるけれど、今日は違う。


鼓膜を突き破り脳を直撃するかん高い悲鳴のほうが、夢なんかよりずっとリアルにあたしに迫ってくる。いや、リアルも何も、この悲鳴こそがあたしの現実だ。


「おかぁさーん、真衣が未歩のハンカチとったぁ」


 廊下と六畳間を隔てる壁を叩き割る勢いで、未歩のキンキン声が部屋に飛び込んでくる。未歩と、未歩のハンカチを握って逃げる真衣だろう、二人分の足音がドダダダダダッ!!


と狭苦しい家を揺らす。悲鳴と振動のダブルパンチで目覚めは最悪だ。


 低血圧な上目覚めの悪さが重なって、体が本当にだるい。骨の代わりに鉛でも入ってるみたい。


ドアの横に置いた姿見には、夕べまではなかったニキビが鼻の頭にポツンと出来たあたしが映っていて、余計に気が滅入る。


今日は水曜日、週に一度の朝練のない日。本当なら七時半までゆっくり寝てられるのに、また未歩と真衣に起こされた。水曜日はいつもこうだ。朝練のないハッピーな朝になるはずが、必ず妹たちに邪魔される。


 制服に着替え、カバンを持ってトイレに寄ってダイニングルームに降りると、例によって戦場が繰り広げられていた。


未歩と真衣がお皿を奪い合いながら、無駄吠えしまくる子犬のようにきゃんきゃんぎゃんぎゃん騒いでいる。


小三の未歩と小一の真衣は年中喧嘩ばっかりだ。原因はほとんど真衣にある。真衣は「欲しがりや」で、しょっちゅう未歩のハンカチやら靴下やらハンバーグやらぬいぐるみやらシュシュやらを欲しがって、未歩があげたり貸したりしてやらないと勝手に持っていってしまう。


外であくせく働き家でもちょこまか働いているお母さんはとにかく忙しいから、欲しがりやの真衣をいちいち叱る余裕もないので、真衣は調子に乗る。


未歩はそんな真衣に腹を立てたり、汚されたぬいぐるみや勝手に食べられたハンバーグのことで泣いたりするけれど、お母さんはやっぱりまともに相手をしないので未歩の不満は日々蓄積されていく一方だ。
「亜沙実、遅いじゃない。さっさと食べて出ないと遅刻するわよ」


「今日は朝練、ないもん」


「知ってるわよ。朝練じゃなくて一時間目に遅刻するって言ってるの」


 叩きつけるように言いながらお母さんは洗いものの手を休めない。流しに向かう、トレーナーにジーンズのいつものように少し疲れた後姿。白い水しぶきが冷たそうにシンクで跳ねている。きゅっきゅっ、とか、がちゃがちゃ、という音が休みなく聞こえてくる。


 だいぶ前に、なんでお母さんはいつもそんなに忙しくしてるのって聞いたことがある。するとお母さんはちょっと眉をひそめ呆れたような顔になって、


「そりゃ、亜沙実に未歩に真衣、子どもが三人もいるからよ。子どもを育てるのってすっごくお金がかかるし、お父さんのお給料だって高くないのよ。お母さんも頑張って働かないと、うち、破産しちゃうんだから」


って言ったっけ。なんか、ムカついた。だってその理屈だと、自分が忙しいのは、つまり年齢の割に白髪の多い髪とか年中カサカサの手とか女の人らしいところなんてちょっともないファッションとか、全部あたしや妹たちのせいってことになるじゃないの。


 中学二年生、反抗期真っ盛りの割にあたしはいい子だと思う。化粧はしないし茶髪じゃないし、親とむやみやたらと喧嘩しない。お母さんのこともお父さんのことも、別に嫌いじゃない。でも、恩着せがましい理屈は大嫌いだ。


「お父さんは?」


 ダイニングテーブルの一番奥のお父さんの定位置を見て言うと、お母さんはまた面倒臭そうに言葉を投げつけた。


「とっくに会社行ったわよ、いつもそうでしょう? くだらないこと言ってないで、さっさと食べちゃいなさい」


 くだらない、って一言が癇に障った。でも時間がないのは本当で言い返す暇がない。ダイエットを意識して薄めにマーガリンを塗ったトーストに、大口開けてぱくついた。


 お父さんはお母さん以上に忙しい。朝はいつもあたしが起きる前に起きてるし、夜は九時とか十時まで帰ってこない。


時々、朝のダイニングルームで新聞を読んでるお父さんや、夜のリビングで晩酌しているお父さんと顔を合わせることもあるけれど、会話らしい会話なんてない。


思春期の娘にどう接していいのかわからないのかもしれないし、そもそもがあんまりしゃべらない、無口な人だ。どこの家もそうなのかもしれないがうちではお父さんは、リビングの隅で枯れかけてる観葉植物ほどの存在感しかない。


「おねぇちゃあん、真衣が未歩のオムレツ、食べちゃったよー」


 未歩が半ベソかきながら制服の袖を引っ張る。その隣では真衣が口の周りをケチャップで真っ赤にしながらオムレツをほおばっていた。


未歩は誰に似たのか泣き虫でトロくて、一方の真衣は甘え上手でずるがしこい。「欲しがりや」なのも、未歩のハンカチとかオムレツとかが本当に欲しいわけじゃなくて、未歩が怒ったり泣いたり騒いだりするのが面白いんじゃないかと思う。


 食べるのに忙しくて未歩を無視しても、未歩はしつこくまとわりついてくる。あたしが真衣を叱ってやらないと気が済まないらしい。この子たちの相手してる余裕ないのに。
「いい加減にしてよ。そんなに食べられたくないんなら、さっさと自分で食べちゃえばよかったでしょうが」


「なんでぇ、未歩が悪いの?」


「未歩が悪いのじゃなくて未歩も悪いの。あんたって意気地なさ過ぎ。ぼうっとしてるからすぐ真衣に何か取られるし、ぎゃーぎゃー喚いてばっかでお姉ちゃんらしくビシッと叱んないから真衣も付け上がるんじゃない」


「未歩、悪くないもぉん」


 未歩の丸い目がもっと丸く膨らむ。やばい、泣かれる。慌ててなだめようとしたら未歩がばっと顔を覆って、その肘がミルクの入ってたマグカップにぶち当たった。


がちゃん、とミルクはマグカップごと床に落ち、白い水溜りが広がる。大惨事。


 一瞬の沈黙の後、振り向いたお母さんが怒鳴った。


「もう、あんたたち何やってるのこの忙しい時に!! お母さんもうお化粧しないといけないから、亜沙実片付けときなさい」


 なんであたしが、という言葉はお母さんが発する威圧感に阻まれた。


悪くないもぉん、ってあたしだって言いたいのに。火がついたように泣き出す未歩と何食わぬ顔でオムレツを食べている真衣に、ムクムクと殺意が湧いてきた。

学校に着いてもあたしの殺意はおさまらない。イライラを抱えたまま教室に入ると目の前に高橋文乃がいて、不本意ながら目が合った。じとっと粘った湿気を含んでいる腐った魚の目。


 文乃は教室のゴミ箱をひっくり返して、中のものを床にばーっと広げていた。鼻をかんだ後の丸めたティッシュ、ルーズリーフの切れ端、お弁当に入ってたはずのバラン、お菓子を学校に持ってくるのは禁止されてるけど、ポッキーの空き箱も。


モノとしての役目を終えてみんなからいらないもの扱いされるようになったゴミたちを前にして、ぺたっと座り込んだ文乃。笑いたくなるほど違和感のない光景だった。文乃は、ゴミが似合う。


 そしてやり場のない殺意をぶつけるのに、こいつ以上に適した相手がいるだろうか。


「……邪魔なんだけど」


文乃を前にするといつも、自分のものかと疑うような冷たい声が出る。文乃はちょっと身体を引いて、でも視線は引かないで、瞳の中の濁った湿気みたいなどす黒い成分濃度をますます上げて、あたしを見つめてくる。


鳥肌が立ちそうな嫌悪感を覚え、素早く踵を返して自分の席へ。ククク、と押し殺した笑い声がする。あたしじゃなくて、あたしに邪魔扱いされた文乃に向けられたものだった。


廊下側から三番目の列、教室の一番前の周防エリサの席の周り、三川明菜に横井和紗に相原桃子、それに半田鞠子の五人が固まって、ゴミを広げて探し物をしている文乃を観察していた。


おおかた、ゴミ箱に文乃の教科書だかノートだかを突っ込んでおいたんだろう。自分らで仕掛けておいた上、なくなったものを探す文乃に嘲笑を浴びせるエリサたち。最近、二日に一度は目にする光景だった。


「今の、マジで邪魔だったんですけど」


 自分の席について開口一番、そう言った。窓側の前から四番目、少し気に入っているこの席は一番仲のいい谷本美晴と隣同士で、美晴に市井風花、川崎愛結、島部睦、いつものメンバーが既に輪を作っている。二年生になってから、教室でも吹奏楽部でも、ずっと一緒に行動してる五人組だ。


 ちなみに美晴と席が隣同士なのは偶然じゃなくて、席替えの時のくじ引きで、ちょっとズルをしたから。


部活では同じクラリネットのパートで、二年になったらクラスまで一緒になっちゃった美晴とは、学校生活で共有した時間が一番長い。もう、親友って言っていいかもしれない。それぐらい美晴はあたしに近いし、あたしは美晴に近い。


「だよねー。あんなに床にゴミ広げちゃって、ちょっとは人の迷惑考えろっつーの」


 風花がケラケラ笑いながらあたしの言葉を引き取る。風花は部活ではトランペットを担当していて、五人の中で一番のおしゃれ好きで、スカートがあたしや美晴たちより五センチ短い。


目鼻立ちが整っていて可愛いほうだし、ものをハッキリ言う性格が男子にもウケている。時々コクられたりしてるみたいだけど、今は彼氏はいない。
「にしても文乃ってゴミが似合うよねえ。ああやってるとどっちがゴミかわかんないもん」


 ハッキリ言う風花がハッキリ付け加えて、それがあたしがさっき考えたこととまったく同じだったから、やたら笑えた。暗い笑いが五人の間に伝染していく。


 エリサのグループによる文乃へのいじめは、一ヵ月半ぐらい前から自然発生的に起こった。難しい年頃のこと、いじめなんてしょっちゅうある。


でもいじめにもみんなに同情されるいじめとされないいじめとがあって、文乃の場合は同情されないいじめだった。可愛い子とか性格のいい子とか、つまりみんなに嫌われていない子だったら、誰かが横から入っていじめを止めようとしたかもしれない。


でも文乃はそういう子じゃない。文乃は雰囲気が暗くてクラスに友だちが一人もいないし、勉強も運動も出来ないし、顔なんて最悪だ。


やたらエラが張ってて、鼻の穴が妙に大きくて眉毛なんか毛虫を貼り付けたみたいで、痛そうに赤く腫れたニキビがそこらじゅうに散らばってる。


そんなクラスいちのブス、しかも暗くて孤独なブスがいじめられたところで、誰も同情なんかしない。エリサたちだけじゃなくって、みんなが文乃を嫌ってる。


何も悪いことをしなくたって誰かの気分を損ねるようなことを言わなくたって、文乃はただそこに「いる」だけで、とことん嫌われる子だ。


文乃の雰囲気が、文乃が放つ周りのもの全てをたちまち腐らせてしまうようなオーラが、みんなの「嫌い」の感情を刺激していた。


だから、文乃がエリサたちにいじめられていると、自分の中の残酷な心が満たされたみたいで、本当はやりたいけど出来ないことをエリサたちが代わりにやってくれてるようで、ちょっとスカッとする。可哀想だなんて全然思わない。てか、思えない。


「やっぱさ、いじめられる側にも悪いとこってあると思うんだよね」


 小声で言うとうんうんと風花が頷き、美晴と愛結と睦はあたしの次の言葉を待つような顔で黙ってた。視界の端っこにはまだゴミの山をあさってる文乃と、クスクス笑いを立てるエリサたちが映ってる。


「いじめられても黙ってて何も言い返さないからもっとやられるんじゃん? 嫌、やめてって、ちゃんと言やあいいのに。しかもさ今、あたしのことじーっと見たの、わかった?」


「わかったよ。文乃って時々、マジキモい目でひとのこと見るよね。キモすぎて鳥肌立つ」


 風花が自分の両肩を包んで、わざとらしく身震いする。愛結と睦が小さく笑った。


「ひとのことあんなふうに見るなっての。見られた亜沙実だって今、気分悪かったっしょ?
あれ、なんのつもりだろうね」


「助けてって意味でしょ。わたし、エリサたちにいじめられてる可哀想な人なのー。誰か助けてー、って捨てられた子犬の目のつもりなんじゃん?」


「それだけかなぁ」


 そこで美晴が横槍を入れて、風花と睦と愛結、三人分の視線が美晴に集中する。言葉を遮られたあたしはちょっとカチンと来て、つい声がきつくなった。
「それだけって、何? 文乃が今あたしのこと見たのに、他に何か意味あんの?」


「わかんないよ。あたしは文乃じゃないし」


 困った顔で口をつぐむ美晴。ややたれ目気味の一重の目があたしから逸らされる。本当はわかってるくせに、言わないって感じの顔だった。


美晴はサバサバしてて明るくてとってもいい子なんだけど、時々こんなふうに自分の言いたいことを誤魔化すようなところがある。加えて平気でこうやって話の腰を折って、空気が読めない。


だからってそこを突っ込んで美晴との仲に波風を立てなくないあたしは、気にしないふりをして続ける。


「あたしが言いたいのはさ。あいつ、自分でなんとかする前に、ひとに助けを求めてるじゃんってこと。それがダメなんだよ。まず自分で頑張れよ。甘えんじゃねえっつーの」


「ほんとそう。文乃はもっと強くなんなきゃね、じゃないとこれから世の中でやってけないよ。大人になって働き出したら、もっと嫌なことがいくらでもあるっていうじゃん」


 世の中のことなんて誰もよく知らないけれど、みんな風花の言葉に条件反射のように頷いてた。文乃を可哀想だとか、助けたいとか、思いたくない。文乃はとことん、いじめらてれもしょうがない、クズみたいな人間ってことにしておくべきなんだ。


「ねぇ、あの人ってさ、障がい者の人と付き合ってるんだよね」


 声をひそめて愛結が言った。あの人、のところで目だけ文乃のほうに向ける。


「え、何それ」


 美晴がたれ目を見開く。いつもあたしと一緒にいる割に、美晴はこういうウワサに疎い。愛結が美晴を見て、ちょっとあきれた顔をした。


「有名な話だよ、一年の河野潤平って人」


「河野潤平って、ああ、ひまわり組の? なんかあの、うまくしゃべれない人だよね?」


 ひまわり組っていうのは校舎の端っこにある障がい者の生徒を集めたクラスで、一年生から三年生まで、車椅子を使う子や耳が聞こえない子とかが集められている。


なかでも河野潤平は、背負っている障害が身体のどこそこが不自由とかじゃなく、頭の障害、つまり知的障害だってことで、普通の生徒たちの間でもよく知られている存在だ。


廊下で奇声を上げたり、どもりがひどくてうまくしゃべれない河野の姿は、同情とも哀れみともつきがたい、なんとも複雑な気持ちを起こさせるから。お調子者の男子たちは河野を馬鹿だのアホだのシンショーだのとからかって、障がい者差別だって先生たちの間で時々問題にもなってるけど、

当の河野は自分が差別されていることにすら気付いていないような顔で……というか実際気付いてないんだと思うけど、四六時中ヘラヘラ笑ってる。


思わず河野のヘラヘラ笑いを思い出しちゃって、不気味なようなイライラするようなそしてちょっと気の毒なような、すごく変な感情が胸を圧迫した。


「えー、文乃が河野と? 嘘でしょ。信じらんない。相手は障がい者だよ?」


「ほんとだよ。わたしも最初は信じてなかったけど、うちのパートの一年生がね、友だちが見たって言ってた。学校の近くに廃墟になってるラブホテル、あるでしょ。放課後、二人が連れ立って、あそこに入ってったんだって。だよね、睦」


 睦がこくこく頷く。同じホルンパートの愛結と睦はいつも一緒で、あたしと美晴みたいにニコイチな関係だ。美晴が怪訝そうに眉を寄せる。