女子生徒は、僕がいることに気がついていないようで、
スカートから何かのケースを取り出し、そこから白い粒を何粒が出して口に含み、
それを水道場の水で喉へ流し込んでいた。
コク、コク…と上下する白くて細い咽喉元がやけに艶やかで。
飲み終わった後、口からこぼれた雫を手の甲で拭っていた。
その生徒のスリッパは僕と同じ学年カラーで、どきりとする。
同じ学年なら僕が虐められていることを知っているのではないかと恥ずかしくなったからだ。
僕のことなど気がつかず、早くそこから立ち去ってくれ…と願っても。
今日の僕の願いは神には届かないことはすでに証明されているわけで。
女子生徒の大きな瞳が、僕を見つけてしまった。
色素の薄い茶色の瞳が、少し潤んで僕を認めた。
とっさに俯くけれど、その生徒は、僕の姿に物怖じせず、綺麗なソプラノの声で言う。
「そんなところで何してんの」
たいていの生徒は、泥まみれの僕を見ても声をかけてくることはまずない。
それが普通。
だから、普通ではない反応をする彼女に、僕は驚き、顔を上げた。
話しかけてくるなんて。
「あ、いや…汚れてるから、洗おうかと思って…」
「ふうん、あたし邪魔だった?」
「大丈夫だよ、僕、今来たところだったし…」
綺麗な声に乗せられる、言葉。
久しぶりに会話というものをした気がした。
「そう?」
こちらをまっすぐ見て話す彼女を僕は知っている。
大きな瞳に、筋の通った鼻、真っ赤な唇に、なめらかな肌、艶やかな黒髪…すらりとした手足。
廊下ですれ違ったなら必ず振り返りたくなるほどの美貌を持った彼女。
名前は、たしか。
「本当に傷だらけなのね、ウケる」
「え?」
「ほら、これ使って」
こちらに寄ってきた彼女は胸ポケットから何かを取り出し、僕に差し出す。
初めて見る至近距離での彼女は、遠目で見るよりも何倍も美しかった。
細くて繊細な指先が僕に差し出していたのは、
キャラクターが印刷された絆創膏だった。
そこでも僕は、驚きを隠せなかった。
僕に話しかけ、さらに助けてくれるなんて。
「いらないの?そんな顔しといて今更強がり?」
「あ、いやっ、も、もらう…!」
慌てて受け取ると、少しだけ彼女の指先に僕の汚れた指先が触れた。
それだけでドキ、と鼓動が乱れる。
「こんな傷早くなおしなよ」
「い、いてっ!」
「あはは!」
彼女がふいに僕の額にできた擦り傷に乱暴に触れ、チクリとした痛みを感じた。
そしてそのまま彼女の手の平は、僕の長い前髪を押し上げ、僕の視界を広くする。
鮮明に、彼女の瞳と目があった。
「せっかく良い顔してるのに、もったいないわ」
「…えっ」
にこり、と笑って見せた彼女の表情に魅入る。
かつてこんなにも女子と話したことがあっただろうか。
こんなに、満たされる会話をしたことがあっただろうか。
たぶん、ない。
目の前の美しい彼女は、今もなお僕を覗き込む。
僕は、彼女ともっと話したくて、かける言葉を探した。
けれども。
「るかー、もうすぐで授業はじまるよー」
彼女の背後から聞こえてきた声に、それは中断される。
彼女も僕から手を離し、声のする方へ振り返る。
「はーい、今行く!」
そう返事をして、もう一度僕を見て。
「負けちゃダメよ」
黒髪を揺らし、落ち着いた笑みを浮かべてそう言った。
細い手足で、声のする方へかけて行く。
沖名るか。
それが彼女の名前だ。
彼女の残り香と、手の中に残された絆創膏、そして彼女の大きな瞳が、僕の中に何かを生む。
それを表現するならば、そうだな。
彼女が僕の生きる理由になった、かもしれない。
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