地下へ続くらしい階段には申し訳程度に電球が付けられていて、チカチカと切れそうな電球が辺りを照らしていた。

階段を踏み外さないよう、ゆっくり下りる。

誰かにもし会ったとしても、わたしは護身術を嗜(たしな)む程度だけど学んでいるので、

何かあったら正当防衛をする。





数十段も続く階段を下りた先には鉄の扉があって。

鍵はかかっていなかったので重たい扉を開けた。




そこは薄暗い階段とは違い、

蛍光灯が煌々と輝く何もない殺風景な空間だった。

床も壁も扉と同じく鉄で作られていて、少し肌寒い。





「……!」





わたしは何に使うかわからない空間を真ん中に向かい歩いた。

鉄の冷たい床の真ん中は、赤黒い血溜まりが広がっていた。

まだヌメヌメと輝いているので、出血したばかりの鮮血だと思う。

小さな頃木に登り、誤って落ちた時の血の色に似ている。




わたしは血溜まりをそのままに、地下空間から逃げ出した。












何故だかとても、嫌な予感がする。

わたしは階段を駆け上がり、急いで台所から出た。

誰にも会うことなく廊下に出ることが出来たのは、不幸中の幸いだ。




わたしは廊下をお屋敷の出入り口に向かいながら、お父様に電話をかけた。





『どうしたエル』


「ごめんなさいお父様。
用事が出来たので一足先に帰らせていただきますわ」


『お、おいエル……』




お父様が何か言っていたけどわたしは通話を切り、お屋敷の出入り口の扉を何も言わず開けて閉めた。

そして屋根の下を通りお屋敷の駐車場に停めてある家の車の運転席のガラス窓を叩いた。


本を読んでいた運転手はわたしの姿を見て、急いで運転席から出てきた。





「どうされましたかお嬢様」


「傘を貸してちょうだい。少しお散歩してくるわ」


「へっ?あっちょっ!お嬢様!!」




運転席に置いてあった傘を奪い取り、わたしは運転手の止める声も聞かずに雨の中歩きだした。




屋敷の中に少年はいなかった。

だから外にいるはず。





『面白かった』

『楽しかった』

口々に感想を述べるメイドと執事集団。

それに地下で見た血溜まり。





嫌な予感しか感じられない。

わたしは豪雨の中傘を片手にお屋敷の周りを歩いた。












バシャ、バシャ、バシャ、

わたしの履いているヒールの高い靴が雨を弾き音を鳴らす。

お気に入りの靴も紺色のドレスもびしょ濡れだけど気にしない。

わたしはひたすらバシャバシャ雨の音を鳴らした。





「……どこにいるの……」




わたしの声は雨でかき消される。

溜息をついた時、ふと目線が道路に向かう。



道路には今日のような豪雨が降った時、大量の雨水が流れるよう、排水溝が設置されている。

床下浸水などを防ぐための排水溝に流れている雨水。

その雨水は所々、赤黒かった。




わたしは上から流れてくる赤黒い雨水を追いかけた。

そして道の真ん中に倒れている人陰に近づき、傘を傾けてしゃがみ込んだ。





「ッ!?しっかりしなさい!ねえっ!!」





うつ伏せだった体を仰向けにしたわたしは、息を飲んだ。

必死に呼びかけるけど反応がない。





激しい豪雨の中、傘もささず道に倒れていたのは。

紛れもなく、あの少年だった。

額から止めどなく血を流し、彼は浅い呼吸を繰り返していた。















「どうかしら?ドク」




わたしはドクの後姿に問いかけた。

ドクは振り向き、眼鏡を押し上げ難しい顔をした。





「だいぶ熱が高く衰弱が激しいですな…。
お嬢様が助けていなければどうなっていたか」


「……治るのよね」


「ええ。
暫くは解熱剤と栄養剤を点滴しつつ様子を見ましょう。

ところでよろしいのですか?」


「何が?」


「お嬢様のベッドに見ず知らずの少年を寝かせるなど。
お嬢様はどこで眠るおつもりですか?」


「わたしは床でもソファーでもどこでだって眠れるわ。

そもそも病人を床やソファーで寝かせるなんて真似、わたしには出来ないわ」


「まぁ……お嬢様が良いのであればよろしいのですが。

何かありましたら遠慮なくお呼びください。
ひとりの医者として、わたくしは彼を救い、お嬢様のお力になります」


「お願いするわドク」




ドクは自分の部屋から持ってきた包帯などの救護キットや

彼に刺した注射器などを鞄に仕舞うとわたしの部屋を出て行った。












わたしはドクがいなくなり、そっとベッドに近寄った。

わたしがいつも眠っていたベッドには、あの少年が眠っている。

熱が高く衰弱が激しいため、わたしが雨の中見つけた日から1週間はこうして眠っている。

時折高熱によりうなされているのを見て、わたしはすごく苦しくなっていた。



わたしはそっと、布団から出ていた彼の手を握った。

思わず手を離してしまうような高い温度。

わたしの肌を通してわたしの全身に伝わり、じわりと暑くなる。

それでもわたしは、彼の手を離そうとしなかった。





☆☆☆





1週間前の豪雨のあの日。

わたしは急いで倒れて反応のない彼を抱き上げ、車に戻った。

普通女は男を抱き上げることは出来ないと思うけど、それが出来てしまうほど彼は軽かった。

わたしがお屋敷で見たあの痩せ細ったように見えた手足は、本当に酷く痩せ細っていたのだ。




見ず知らずの少年を抱き上げ走って来たわたしを、運転手は驚いていたけど。

すぐに少年の様子が可笑しいことに気付き、車に常備してあるという毛布などを彼に掛けてくれた。

車内を真冬でもないのにガンガンに温め、汗をかき出したころ、車はドクの診療所に到着した。

車内でドクに至急診てもらいたい人がいると言っておいたお蔭で、ドクはすぐに少年を診てくれた。

その間に運転手はお父様を置いてきたティラン伯爵のお屋敷に戻って行った。





わたしはもう営業の終了したドクの診療所で、廊下の椅子に座り待っていた。

あの額から流れていた血。

調べればきっとあの地下空間に溜まっていた血と同じかもしれない。





あのお屋敷の地下で何があったのか。

何故メイドと執事集団は『楽しい』だの『面白かった』だの言っていたのか。

想像すればするほど怖くなったので、わたしは途中で想像するのを止めた。

ひたすら、あの少年が無事であることを祈った。












『お嬢様』


『ドク!彼は!?』


『大丈夫ですよ、どうぞ』




ドクは普段は医者と看護師以外入ることの出来ない処置室に、わたしを入れてくれた。

包帯など置かれた処置室の中央に置いてあるベッドの上には、彼が荒い呼吸をしながら眠っていた。

頭には大きな包帯を巻いていた。





『無事……なのね?』


『ええ。
ですが非常に危ない状態でした。

熱が高く衰弱も激しく、現在解熱剤と栄養剤の点滴をしております。
それに何より……怪我がとても多いのです』




ドクは薄い布切れのような彼の服をそっとめくった。












彼の今にも折れそうな手足には、無数の包帯が巻かれていて。

それのどれもに血が滲んでいた。

包帯の隙間からは、青黒い痣らしきものも見える。





『出血も多量で、本当ボロボロの状態でした。
よく生きているなと、素直に感心してしまうほどです』


『これは……故意?』


『ほとんどが故意だと思われますね。
ですがここの部分を見てください』




ドクが示したのは、左手首。

包帯が巻かれているのは変わりないのに、血の滲み具合が他と違う。

真っ白な包帯が、ほぼ真っ赤に染まっていた。





『ここの傷が1番酷く、他と形状が違いました。
もしかしたら……故意ではなく自分でやった可能性があります』


『…………』




何も言えなかった。

数分黙り込んだまま、わたしは左手首をジッと見つめた。

そして……ある決心を固めた。





『ドク、彼をわたしの部屋まで運んでくれるかしら』


『どうなさるおつもりで?』


『彼を……わたしが助けるわ』





彼は村出身だと、ティラン伯爵が言っていた。

何があったのかわからないけど、故意につけられた傷があると言うことは、良い境遇じゃない。

彼と出会い接することで、わたしの中で何かが変わるかもしれない。

下手したら……国さえも。





『わたしが彼を、助けるわ』




揺るぎない決心を、わたしは固めた。












そんな決意をしてから1週間。

彼は今も熱が下がらず眠ったまま。

栄養剤で補ってはいるけど、血色も顔色も良いとは言えない。

わたしはずっと、彼に寄り添っていた。




何を言われるかわからない。

相手は心を持った生身の人間。

出身がどこであっても生きたわたしと同じ人間。

どこかできっと……繋がる部分があるはず。

根拠のない自信を、わたしは心に秘めていた。







「………んっ…」




かき消されそうな声がして、わたしはハッとする。

そっと覗くと、ゆっくりと彼の瞳が開かれていた。

睫毛が長く、長い前髪も目を開けると同時に一緒に揺れた。




「うっ……ん……?」




前髪に隠されて表情は見えないけど、首が少し動く。

わたしはきゅっと手を握った。




「目が覚めたかしら?」




まだ現実を読めていないのか、彼がわたしの方をゆっくり振り向いても、何の反応もなかった。

だけどわたしを見つめているのは、視線でわかった。












「……え……だ、れ……?」


「覚えていない?わたしのこと」


「……」




彼はゆっくり首を振る。

わたしは彼が聞き逃さないよう、名前を名乗った。




「わたしはエル・ソレイユ。
ここはわたしの部屋よ」




ソレイユの名を持つのは全て王族。

それを彼も知っていたのか、彼は震え始めた。

ガタガタと震えるのが、わたしにも伝わる。





「なっ……んでっ……ゴホッ」


「ちゃんと寝てなくちゃ駄目だよ。
まだ熱下がっていないんだから」




額に触れるとまだまだ熱い。

熱が下がるのはまだ先になるだろう。





「……どうして……ここに…?」


「覚えていない?
あなた、雨の中道の真ん中に倒れていたんだけど」




思い出したのか、繋いでいない方の手でぎゅっと布団を掴み、

目をぎゅっと強く瞑る彼。

わたしは彼の痛んだ髪をそっと梳いた。



彼の髪は痛み、指通りは悪く、触った感じもゴワゴワしていた。