名前を、うたを、思い出して。そうすれば、もう私たちの間には誰もいない。
「────榊葉の ゆふしでかけし そのかみに おしかへしても 似たる頃かな」
────斎宮であった貴女は、榊葉の木綿四手を掛け、伊勢の神に仕えておられて、触れることのできない存在だった。まるで、その当時に戻ってしまったような今の状態ですよ
ぽつりぽつりと溢れ出てくる彼の記憶。必死でその逃げていく先端を捕まえて、彼が言葉に落としていくのを泣きそうになりながら拾う。
「逢坂は あづま路とこそ 聞きしかど 心づくしの 関にぞありける」
────逢坂の関は、そこを越せば東(あづま)へ通じる道と聞いていたけれども、あなたと逢ったのち、障害が出来て、吾妻(あづま)とすることは適わない。逢坂の関と思ったのは、心魂尽きさせる、筑紫の関だったのだなあ
そうだよ、ねえ、渉様。私と貴方は、いつだって一緒にはいられなかった。
「涙やは またも逢ふべき つまならむ 泣くよりほかの なぐさめぞなき、っ」
────なぜこんなに涙があふれてくるのだ。涙がまたあの人に逢うための糸口になるとでもいうのか。そんなわけもあるまいに、私にはもう泣くよりほか慰めがないのだ
「────紬様、……当子さま、」
「道雅、さま」
すまない、と言った彼に、ぶんぶんと首を振った。もう、思い出してくれればそれでよかった。今度こそ、何の障害もなく呼べる本当の名前は、どうしようもないくらいに嬉しかった。
「……待たせました」
「いいえ、もう、いいのです。待つのは、お互い様、でしょう……? 待ちきれない私が悪かったのです」
「けれど、貴方のお陰で私はこうして思い出すことができました」
本当に、どうしようもないくらいに泣きたくなった。
それに気付いたのか、彼はそっと私を腕の中に閉じ込め直すと、とんとんとテンポよく背中を叩いてくる。優しくされたら泣いてしまうに決まっている、なんて思いながら、今度は私も彼の背中に手を回してはらりはらりと零れ落ちる涙を頬に感じた。
「待たせてしまってすみません、……紬様」
「わた、っるさま、」
「こうしてまた名前を呼び合うことができるとは、思わなかった。あの時の名前が本来の名前になるなんて、思ってもみませんでした」
「わたし、だって……っ、だから、貴方は一番最初にあの頃を、渉様と紬だった頃を、道雅さまと当子だった頃を、思い出してくださると思っていたのに……っ」
「……それも、そうですね」
「渉様、全然思い出してくれなくて、私はもう我慢なんて出来なくなってしまって……っ、でも、ねえ渉様、渉様が思い出してくれなかったら、どうしようって……、」