「……ご、」

「謝らないでって、言った」


しっかりと視線の合った渉が、私の言葉を遮ってくる。図星だったせいでまた口を閉じた私に、渉はそっと笑いかけた。


「我慢しないで、言葉にしてっていったのは、俺だから。紬は謝らなくていいんだよ。紬は悪くない」


穏やかな声音に俯くと、優しく頭を撫でられる。その声に、思い出した気配はない。きゅっと唇を引き結んで、私は小さく名前を落とす。一瞬悩んでから渉、と今の彼の名前を口にすると、あのね、と逡巡しながら言葉を探っていく。


「……我慢、出来なくて」

「うん」

「こんなにも近くにいるのに、こんなにも一緒にいられるのに、あの頃は全然一緒にいられなくて、別れさせられて、だから今こうして一緒にいられるから、名前が呼びたくて」


伊勢の斎宮だった私と、一度没落した藤原氏の息子。


出会いなんて他愛ないもので、ただ私のいた屋敷の前を彼が通ったから。屋敷の外の人と話したくて、声をかけた相手が彼で、お互いに一目惚れした私たちは密通を始めた。


あの頃は、繰り返しているなんて知らなかった。だって、『最初』の時代を思い出したのはこの時代が初めてだ。それまではこの、当子内親王であった私と、藤原道雅であった彼が、最初だと思っていた。


それでも、惹かれあったのはきっと運命だ。


無意識のうちに私は彼を、彼は私を求めていて、知らず知らずのうちに惹きあっていたのだと思う。


あの時彼があの道を通ったのも、私が声をかけようと思ったのも、私たちの偶然であってかみさまの必然であって、そしてきっとあんな手酷い別れ方をせざるを得なかったのも、かみらまの悪戯だ。


密やかなやり取りでは、相手の名前を呼ぶことなんてほとんどできることではなかった。誰かと逢っていることは見て見ぬふりをしてもらえたとしても、相手が相手ではどうにもならない。だから私たちはお互いの名前を一切使わずに、二人だけが分かる名前を付け合った。


────渉と、紬。


私たちの今の名前は、その時付けたものだ。


「渉……っ」


渉様。あの頃呼んでいた呼び名と、今の名前が同じだなんて正直思ってもみなかった。気付いた時、自分の名前はもう紬で、すぐにあの頃を思い出して辛くなった。それと同時に、彼はきっと渉という名前で生を受けたのだろうと、だとしたらあの時代を一番最初に思い出すかもしれないと、そう思っていた。


実際は、一番最後になってしまったけれど。


「……つむぎ、さま」


彼の唇から零れ落ちた名前に目を見張る。紬、ではなく紬様と呼んだ彼に、勢いよく顔を上げて。


「渉様、……わたるさま、」


思い出して、とはこの期に及んでも言えない。それでも、彼が思い出した唯一の手掛かりを何度も口にする。