「今はただ、っ」


悲鳴のように口から零れ落ちてしまった言葉は取り返せずに、隣に座る彼だけがその言葉を受け取った。


ぴくり、と反応した彼が、ゆっくりと私を見る。違うの、と必死で否定して、その場から立ち去るために立ち上がる。その腕を彼に強く掴まれて、転びかけた私を彼が受け止めた。


「────思い絶えなむ、とばかりを」


────今はただ 思い絶えなむ とばかりを ひとづてならで いうよしもがな


────今となっては、あなたへの想いをあきらめてしまおう、ということだけを、人づてにではなくあなたに直接逢って言う方法があってほしいものだ


彼の口から紡ぎ出されたうたの続き、はっとして彼の表情を伺うと戸惑ったようなそれに完全に思い出したわけではないことを知る。だが、続いたうたは明らかに私が思い浮かべたもので、彼が『昔』歌ったもので。百人一首を知っているなら知っていておかしくはないけれど、困惑した表情はきっと何か違和感を感じているそれ。


それ以上何も言えずに、私は彼の手を振り払って土手を駆け上がる。あっ、と漏らされた彼の声に構わず、駅へ向かって駆け抜けた。零れ落ちそうになる涙は必死に堪えて、噛み締めた唇からはきっと血が滲んでいる。それでも立ち止まらずに、彼が追いつけないように。


けれど男女の差があるのは明白で、追いついてきた渉に手を掴まれて、今度こそ身動きが取れなくなった。


「紬、どうして逃げるの」

「だ、って、わたしっ」


今まではきちんと待っていられたのに、この時代では我慢がきかない。


確かに、今までのどの時代よりも自由に顔を合わせることができて、自由に言葉をかわすことができている。だからだろうか、制限なんて無いに等しいから、もっともっとと上を求めてしまうのかもしれない。


「待ってるって、言ったのにっ」


もう待てないと思ってしまった。口からうたが飛び出してしまった。


道雅さま。


心の中でその名を叫んで、逃げようとするのに逆に抱きすくめられて為す術がなくなる。記憶の痛さに思わず涙が零れ落ちて、嗚呼泣いてはいけないと思ったのにそれすらも守ることができない。


「待って、逃げないで紬、」

「ごめ、んなさい……、っごめんなさい……!」


頭の上から落とされる声に、反応できずにただ謝る。ちらほらと人の足音がしたけれど、構っている余裕はない。紬、ともう一度優しく名前を呼ばれて、そっと引かれた手を振り払う気には、もうなれなかった。


河原へと逆戻りして、正面からきちんと抱き締められる。少し落ち着いた気持ちに、私はすん、と渉の匂いを嗅ぐ。いつだって変らないその香りは私を落ち着かせてくれて、一つ溜め息を吐くとゆっくりと顔を上げた。