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「……ねえ、渉」


風もすっかり冷たくなってきた、十月下旬。寒いのをいいことに後ろから私を包み込むように座る渉の体温が、酷く温かい。首に回されている腕に手を当て、そっと首を巡らせると耳に渉の息がかかった。


あと少しなのだということは、恐らく渉も分かっているのだろう。ここ数日、戻りそうで戻らない記憶と格闘している渉に、焦らないでと声をかけることはできなかった。


渉も、分かってはいるのだ。焦らないこと、焦らなくてもちゃんと記憶は戻ること。


それでも、どうしても焦る気持ちは、分かる。だから何も言えないし、残りの時代がひとつなだけあって、私自身早く思い出してほしいという気持ちがどうしても隠しきれていない。


それに気付いているのだろう。一緒にいてもあまり話すことはなく、ただ傍にいる。それだけで私も渉も構わないのだけれど、正直お互いに焦りかけているのは丸わかりだった。


「んー?」


なあに、と問いかけて来る、耳元が擽ったくて思わず身を捩る。その様子に笑いながら私を解放した渉が、正面から顔を覗き込んできた。


「……今日もいい天気だね」

「唐突だけどそうだね」


まだ思い出せそうにないの、と問いかけそうになって、すんでのところで別の言葉へ変える。気付いているのかいないのか、吹き出した渉が答えるのにつられて空を見上げる。晴れ続きの空は、天気予報に雨の予報が出たお陰で終わりを迎えるらしい。明後日から天気が悪くなる、とニュースキャスターが言っていたのを思い出し、私は小さく息を吐いた。


雨。


あの日も雨が降っていたことを、今でも憶えている。


雨は、好きだ。────貴方が会いに来てくれる音を、消してくれるから。


雨は、嫌いだ。────貴方が来なかった日の音を、思い出すから。


私たちが会うときは、大抵いつも雨の日だった。それがたまたまなのか、それとも無意識に雨の日を選んでいたのか、それとも故意的に雨の日を選んでいたのか、私にはわからない。あの時代は妻問婚。そして伊勢の斎宮だった私に、出歩くことなどほとんど許されていなかった。


そのお陰で出逢えて、そのせいで別れざるを得なくなった。


痛い。記憶が容赦なく傷を突き刺して来る。久しぶりに思い出した痛みは何年経っても変わることはなく、無言で彼の胸に顔を押し付けると何か察した様子の彼にそっと背中を叩かれた。


「────、っ」


口をついて出そうになる名前を、必死に飲み込む。ぎゅっと唇を噛み締めると、彼の背中にゆるゆると手を回す。渉に困った声で名前を呼ばれて、一つ深呼吸をするとぱっと顔を上げた。