「ちょ、ちょっと!」
しかし何を言っても、その人は反応しない。
それどころか「黙ってろ」とまで言った。
人混みがだいぶ減ったところでその人はリルの腕を解放した。
「ここまでくれば大丈夫だろう」
ふー、と溜息をついたその人を見て、ようやくリルは口を開いた。
「あ、あの、私になにか…?」
するとその人は返事もせずに言った。
「お前、シャルクラーハの人間ではないな。観光客か?」
睨みつける様な見透かすように冷たい目でリルをじっと見た。
「そうです」と答えると溜息を吐いて怪訝そうな顔をする。
「連れはどうした、迷子か?」
「一人旅をしているんです。迷子なんかじゃありません!」
宣言するようにそう答えるとその人は「お前みたいな娘が一人旅、ね」とわざとらしく溜め息を吐く。
「まあ観光を楽しむのもいいが、シャルクラーハの商人には気を付けろ。王都一の商業の町で商人として生き抜く彼らは、どんなに小さい店や露店であろうとも皆が商売の天才だ」
「特にお前のような物知らずな田舎者は狙われやすい」と彼はリルを指さした。
「彼らにとって観光客は恰好の獲物。下手をすれば身ぐるみはがされるまで買わされるぞ」
彼は溜息を吐いて険しい表情をしているが、どうにもさっきのおばあちゃんやお兄さんがそんなにひどい人のようには見えなくて「そうでしょうか」と反論した。
「彼らはそんなにひどい人には見えません」
気持ちのいい笑顔を見せてくれる人達ばかりだった。
彼らを疑うのはどうにも罪悪感に駆られてしまう。
すると彼は思いっきり不機嫌な顔をして「だから常識しらずの娘は」と言った。
「現にあの装飾品屋は最後に透明の宝石のついた首飾りを買わせようとしていただろう。値段は見たのか?300万グランだ。そんな大金、お前持っているのか?」
「さ、300万グラン!?」
絶句した。それはリルの家が1年間育てた花を売って得られる金額よりずっとずっと高い値段だった。きっと5年間寝る間を惜しんで働いたって稼げない。
当然そんな大金をリルは持っていなかった。
「買えないなら身を売るしかないと契約書にサインでもさせられただろうな」
「け、契約書、って…」
「奴隷になる、とか色々あるだろう」
涼しい顔をしてその男が言うことはとても衝撃的なことばかりだ。
「それに、悪人がいつも分かりやすく悪人らしい振る舞いをしているわけではない」
「そ、それはそうかもしれませんけど…」
もごもご口ごもっていると彼は呆れたように溜め息を吐いて「いいか、娘」と言葉を続けた。
「お前の身を守れるのはお前だけだ。自分の身を大事にしたいのなら、自分以外の全てに警戒しろ。自分に近づいてくるもの全てだ」
「あなたにも警戒しろと?」
するとその人は「ああ、そうだな」と鼻で笑った。嘲笑にも似た笑い方だった。
「できないです、そんなの。だってあなたは私を助けてくれたのに」
リルの言葉に腹を立てたのかその男は「話が通じない」と肩を落とした。
「もう、俺は行く」
背を向けて「せいぜいよい一人旅を」と片手をあげながら去って行く。
「あ、ちょっと!」
たまらずリルは引き留めようとするけれど、その人は人混みの中に姿を消してもう見えない。
「何なの、あの人」
男の身勝手な振る舞いにリルは腹を立てるが、その声すら誰にも届かない。
するとその時鐘の音が響き渡る。
馬車の出発を告げる音だ。
「いけない!」
リルは大慌てで馬車に戻った。
結局何も買うことができずがっかりしていると、先ほど馬車の中で話しかけてくれたおじさんが「おや、何も買わなかったのかい?」と不思議そうにリルに声をかけた。
「はい…」
項垂れるリルにおじさんは笑った。
「そいつは残念だったね。お嬢ちゃん、パンは好きかい?」
「え?ええ、好きですよ」
何を言われているのか分からずそう答えると「そうかい」と言いながらおじさんは自分のカバンの中からパンを取り出した。
「さっき買ったんだけど、一人で食べるには多すぎてね。良かったら半分もらってくれないかい?」
「え、いいんですか!?」
おじさんは歯を見せて「もちろん」と笑った。
「ありがとうございます」
あの人は自分以外の全てに警戒しろと言ったけれど、やはりそれは間違いだとリルは思った。
だってこんなに優しい人がいる。
こんな風に今日あったばかりの娘にパンを恵んでくれる人をどうして疑えるだろう。
パンをほおばりながら、リルは人の優しさを感じていた。
rhododendron【危険】
*
アルトワールから王都までは馬車でおよそ三日かかる。
まだ初日、お昼を食べて出発したばかりだけど随分と色んな景色を見たとリルは思った。
馬車に乗っている時間は長いけれど、その分いろんなものを見られるから退屈はしない。
村から一度も出たことがないリルにとってはどれも新鮮に目に映る。
窓の外を見て目を輝かせるリルに、パンをくれたおじさんは「嬢ちゃん、そんなに外の景色は面白いかい?」と問いかけた。
「ええ、初めてなもので」
すると「そうかい、そうかい」とおじさんは嬉しそうに笑った。
「きっとこれからも見たことのない景色を嬢ちゃんは見られるさ」
「それは楽しみです」
そうやって笑い合っているうちに陽はどんどん西に動いていく。いくつかの停留所を過ぎると、すっかり街はオレンジに染められてしまった。
馬借のおじさんは一度馬車を止めて降りると馬車のランプを灯した。灯りがなければ走れないくらいには暗くなってしまった。
夜も走るのかとパンをくれたおじさんにリルが問うと「それはないね」と言われてしまった。
「宿場町に停車して、また明日の朝に出発するのさ」
ほらここだよ、とおじさんは地図を示した。
おじさんのしわのある指が示したのは「ローダン」という宿場町だった。
「ここで宿を探すのさ。嬢ちゃんなら鍵のついた部屋じゃなきゃ心配なこともあるだろう?」
「しかし、私にも宿を見つけることができるでしょうか…」
アルトワールの村を出たことのないリルにとって、宿に泊まるということ自体初めてのことだった。
もし宿が見つからなかったら、と考えるだけでも恐ろしい。野宿は避けたい。
するとおじさんは大きな声でそんな不安を吹き飛ばした。
「大丈夫さ、そんな心配はいらないよ」
底抜けに明るいその笑顔に、リルも救われるように笑った。
陽は大分傾き、西にゆっくりと沈もうとしている。東の空はもう濃紺の夜が支配して星も瞬き始めた。
もうじき旅初日の夜が訪れる。
けれどローダンの宿場町に着く前に事は起こった。
停留所でもないのに馬車が突然止まった。
それもいきなりだ。そのせいでリルも身体が進行方向に傾いてしまった。
「あいやー、困った!」
馬借のおじさんは客が慌てて馬車を降りて、馬車の下に潜り込んだ。
「な、何が起きたんでしょう…」
戸惑うリルの一方でおじさんは厳しい表情をしていた。
事態は思わしくないのかもしれないと、一抹の不安がリルの心をかすめた。
「こりゃあ困ったなあ、やっちまった」
馬借のおじさんは大きな独り言を言いながら客の乗る方へ来ると「すんません」と謝った。
「馬車の車輪の部分がちょっと壊れちまったみたいで…」
「大きな石か何かを踏んじまったみてぇだな、こりゃ」とおじさんはぼやく。
「動きそうなのかい?」
「いやあ、厳しいなあ。今日はちょっともう動かねえ」
車内にどよめきが起こった。
「そ、そんな…」
まさか、こんなところで足止めを食らうなんて。
予想外の出来事に、リルは頭が真っ白になりそうだった。
王都にはもう行けないのだろうか。あの人には会えないのだろうか。
こんなところまで来て、アルトワールにも戻れない。どうやって戻ったらいいのかさえ分からない。
藁さえもつかめないような不安な気持ちがリルの胸をいっぱいにしていく。
「壊れちまった部品を交換すればすぐ動くようになる」とおじさんは不安がる乗客達に言った。
「今から急いで近くの町に行って部品を調達してくる。なのですんませんが、今日は車内で休んでくれ」
「明日には動く」とおじさんは繰り返し言う。けれど心配した男性客が「本当に明日には動くんだろうな」と問い詰め、馬借のおじさんは「約束しやす」ともう一度言った。
「なんでこんなことに」
「明日になっても動かなかったらどうしよう」
客の不安がる声が車内をいっぱいにしようとする。リルも不安を拭えなくて、ただその声を黙って聞いているしかなかった。
「まあ、こうなっちまったらしょうがねえな」
パンをくれたおじさんは大きな声でそう言った。
「明日には動くんだ、どのみち夜だからそんなには動かなかったさ」
その声に、不安な声はぴたりとやんで「確かに」「明日動くならそれでいいか」なんて声が聞こえてくるほどだった。
和やかな雰囲気になっていく車内をよそに、おじさんは「もう寝る」なんて言って目を瞑りだした。
「すごいですね」
リルはあまりの感激にいてもたってもいられなくなって思わずおじさんにそう耳打ちした。
「へえ?何のことかい」
おじさんは片目を開けてそうとぼけた。
「さっきの言葉です」
「なに、ただ自分の気持ちを言っただけさ」
「だけど、おかげでみんなの気持ちが変わって…」
「やめとくれよ、おだてるなんてよ。あー、そんなに褒められちまったら、おじさん照れちまうよ」
「嬢ちゃんも早く寝な」、とぶっきらぼうにいうと、おじさんはかぶっていたぼうしを深くかぶって腕を組んだ。
リルはくすりと笑うと、おじさんに言われた通り眠ることにした。
辺りを見渡すと、他のお客さんもそれぞれ寝る支度を始めたらしい。
鞄を抱えて、目をつむる。
虫の音の澄んだ音が遠くから聞こえてくる。
疲れていたのか、すぐに眠気がやってきて、リルはそのまま眠りの底に落ちた。
*
『ねえ、どこいくの?』
『こっち、こっち』
幼い私の手を、あの人は引っ張って走る。
ただ嬉しそうで、心から楽しそうで、いつも笑顔の人だった。
まっすぐ輝いている瞳が美しい紫色なのを今でも覚えている。
『もう行っちゃうの?』
『うん、王都にかえらなきゃいけない』
『もうあえない?』
俯く私の手を強く握って『そんなことない』と男の子は強く言った。
『会える。ぜったい、会える』
だから約束しようと、言ったのだ。
『また必ず会おう』
『約束だよ』
小指を絡ませて微笑みあって。
『王都で待ってる』
*
リルは幼い頃の夢を見てしまった。
あの人はあの約束を今でも覚えているだろうか、と寝ぼけた頭でそんなことを思う。
覚えているのは自分だけで、もうとっくに忘れてしまっただろうか、と不安になった。
もしあの人と出会えたとして、もう自分のことを忘れてしまっていても責められないなとリルは思った。
12年だ。
そんなに長い間、覚えていられる方がおかしい。
それでも、もしかしたら覚えていてくれているのかもしれない。
そんな希望がほんのわずかでもあるのなら、諦めたくない。
そうだ、頑張れ、頑張るんだ、と自分を鼓舞して起き上がろうとしたところでリルは異変に気付いた。
手足が縛られていて、動かせない。
「え?」
まさか、と思って手を動かしてみるけれど、後ろ手に縛られていてどうにもならない。
「おやあ、起きちまったか」
身動きをとろうともがいていたのに気づいたのか、誰かの声がした。
おそらくはリルを縛った人、犯人だろうとリルは身構えた。
その声は中年の男性のようだが、あまりに暗くて何も見えない。
「薬の効きが悪かったんじゃねえか?」
「そんなはずはねぇけどな」
そんな会話が聞こえて、犯人が2人いることに気づく。いや、今は2人しか認識できていないだけで、本当はもっといるのかもしれない。
困った、この状況では逃げ出すこともできない。
リルが焦る気持ちを必死に押さえつけていると、声が聞こえてきた。
「さあて、嬢ちゃん」
こつり、こつり、犯人は足音を立ててゆっくり近づいてくる。
「気分はどうだい?」
その声でリルは気づいた。
この声の持ち主、それは、パンをくれたあの優しいおじさんだった。