「なによ、その興味なさそうな返事は」
「興味ないもん」
「王子様だよ? 王子様にも興味ないなんて、桜子ってほんと干物みたい」
干物みたい、だって。
私は、はっはーとわざとらしく声に出してわらってみせた。
あ、そういえばさっき『花のようですね』なんて言われたんだっけ。
「王子様ねぇ。で、また医学部なの?」
「それがね、農学部なの! 私ってさぁ、今まで医学部しかチェックしてこなかったじゃない? まさかの農学部よ。盲点だったなぁ」
私としたことが固定観念に縛られてしまっていた、と麻衣は深いため息をついた。
なんて大げさな……。
いつもながら、この男前に対する情熱というか、執着にはあきれてしまう。
薬学部に入ったのは医者の卵と付き合うためだ、ときっぱり言い放つこの女友だちが、私は心から好きなのだけど。
「医学部の子も薬学部の子もみんな騒いでるよ。桜子、見た?」
王子様ねぇ。
そんなにかっこいい人なら、いくら私でも記憶の片隅には残るだろうけど。
「見てないし、興味もありません」
麻衣は手にしたトートバックをぎゅっと抱えるようにして「よし! 探してくる」と言い残すとくるりときびすを返して走っていってしまった。
「がんばってー」
麻衣の背中に声をかけて、一体なにを?と自分で自分に突っ込んだ。
その王子様とやらは割とすぐに見つかったらしい。
なんでも女の子たちの集団を見つけて近づいてみると、その輪の中に王子様がいたのだと言う。
「背が高くて、髪が茶色くて、ほんとにきれいな顔してるの! にこっと笑ったら歯並びのきらいな歯がきらっと見えるのね! 手足もすらっとしてて、ただの白いシャツがすごくおしゃれに見えた」
お昼時の学食はかなり混んでいて、ちょっと大きな声を出さないとお互いの声が聞き取りにくい。
私は、日替り定食の照り焼きチキンを咀嚼しながら、はいはいとかふぅんとか適当な返事を返した。
「けどね、周りに女の子がいっぱいいたのよ。四、五人に囲まれてた。もう王子様っていうあだ名でよばれてるみたい。あれ、医学部の子かな。全く、医学部は医学部内でなんとかしろっての」
医者の卵がたくさんいるくせに。
麻衣は悔しそうにぼやいて、髪コップのコーヒーを一口飲む。
周りに女の子がいっぱいねぇ。
一体、どんな人なのだろう。
王子様って呼ばれて、本人はどう思っているんだろう。
恥ずかしくないのかな。
なんとなくだけど、女の子に囲まれてすました顔で歩く男の人が頭に浮かぶ。
顔がいい男っていやだな。
性格悪いに決まってる。
見るだけならいいかもしれないけど、仲良くなりたいとかまして付き合いたいなんて、私は思わない。
「ほんとにかっこいいんだから。いくらイケメンに興味のない桜子でも、一度見たらすぐわかると思うな」
そうですかね、と笑いながら、食べ終えたお皿を重ねると立ち上がった。
王子様ねぇ。
同じキャンパスなのだし、そのうち会うこともあるだろう。
私からすれば、イケメンに会うことよりも、虫に会わないようにすることのほうが大事なことなのだけれど。
その日の夕方、キャンパス内を自転車置き場に向かって歩いていたときのことだ。
このキャンパスは、とにかく緑が多くて、そのせいで虫もたくさんいて迷惑なのだけど、春の風はとても気持ちが良く、私は周りに誰もいないことをいいことに、軽く鼻唄なんかを歌いながら桜並木の下を歩いていた。
もう桜の花びらはほとんど散ってしまっていて、葉桜になっていたけれど、見上げると緑のトンネルのようだ。
「……」
春の五時過ぎと言えばまだまだ明るい。
だから、私はすぐに気がついた。
私の目の前、三メートルほどの道端で寝転がっている男に。
その人はちょうどほふく前進のような姿で、草むらの中に頭を突っ込んでいた。
そのせいで、肩くらいから下しか見えていないけれど、頭をあげているから具合が悪くて倒れているわけではなさそうだ。
昼間、道の真ん中でちょうちょに会い、肩に変な虫が止まっただけでも最悪な一日だったのに、そのうえ、更に変な男を見つけてしまうなんて。
今日は厄日だ。
幸い、その変な男は私に気がついていない。
門のところにいつもいる警備員さんでも呼んだほうがいいのかな。
それより、講義棟に戻って事務の人に言ったほうがいいかもしれない。
逡巡したのは一瞬だった。
講義棟に戻ろう。警備員さんは不在のときもあるけれど、事務の人なら必ずいるはずだから。
そう思って、来た道に向け体を傾けようとしたときだった。
ガサッと草を掻き分ける音とともに「んあぁ」と間の抜けた声がして、その誰かがゆっくりと体を起こした。
「ひっ!」
私が小さな悲鳴を上げたのは、男の人が起き上がったからじゃなく。
その男の人が、昼間に会ったあの変な男だっかたらでもなく。
さらに、その男の人が、まさに麻衣の言っていた王子様の特徴に当てはまることに気がついたからでもない。
その男の人が、嬉しそうな顔で手にしていたのが。
大量の黒い虫だったから。
彼の手のひらの上には十数匹の黒い小さな虫がうごめいている。
よく見るつもりなどなかったのに、あまりの恐怖で凝視してしまい、はからずもそれが団子虫であることに気がついた。
だからといって恐怖が薄れたりなどということは一切ない。
足のほうから、ぞわっと鳥肌がたっていくのを感じた。
彼はといえば、その手の中の団子虫をつぶしてしまわないように配慮してなのか、ゆっくりと起き上がった。
その間にも、団子虫たちは彼の手のひらを散歩でもするようにひっきりなしに動き回っていて、手のひらから零れ落ちそうになるたびに、男の人は彼らを指先ですくい上げるという作業に集中しているようだ。
「あ」
目の前に私が立っていることにようやく気がついたのか、男の人は顔を上げてなにもこんな時にしなくてもいいじゃないか、と突っ込みたくなるほどさわやかな笑顔を見せた。
首を少しかしげると、はねた茶色の髪がさらさらと揺れて、緑のトンネルからもれた光に反射した。
きっとたいしたケアもしてないのに、にきびひとつない、透き通るようにきれいな頬とか。
カラコンもしてないのに、大きな黒目とか、この距離でもわかるくらい長いまつげとか。
『王子様』みたい。
麻衣はそう言った。
確かに彼は王子様みたいだ。
顔だけは。
「昼間に会った、コアオハナムグリの人だ」
王子様はそんなことを言う。
おっとりとした、耳障りのいい声でゆっくりと。
「おっと」
王子様は再び手のひらに集中した。
元気のいい団子虫が逃走しそうになったのだ。
王子様の手のひらから甲のほうへ行こうと試みているようだ。
「だめだよ、落ちたら怪我しちゃうからね」
まるで小さな子どもにでも言い聞かせるかのように王子様は優しく言って団子虫をそっと手のひらのほうへ誘導すると、「あ、すみませんが」と私に声をかけた。
「すみません、ちょっとこの子たち、持っててもらえます?」
「……はい?」
「あ、俺ちょっとリュックから虫かご出したいんで」
当たり前のように王子様は「はい」と私に手のひらを突き出して、私が手のひらを差し出すのを待っているようだ。
「逃げちゃいますから、早く早く」
私の目の前、数センチのところまで差し出された手のひらは、とても指が長くてきれいだったのだけど、その手のひらの中には、あの有名なジブリ作品に出てくるオウムを小さくしたような黒い物体がもぞもぞと動いている。
恐怖のあまり、もはや声を出すこともできない私の右手首を、王子様は空いている左手で、すっと取ってそして。
まるで宝石でものせるかのように、ともすればロマンチックな仕草で。
私の手のひらに団子虫を乗せたのだった。
そのあとのことはよく覚えていない。
悲鳴すら上げられず、私はその場から走って逃げた。
団子虫を持ったまま。
王子様はなにか言ったのだろうと思うけれど、当然覚えてなんかいない。
そのまま闇雲に走っている間に、無意識に手を振り回したのだろう。
自転車置き場に着いた頃には手の中から団子虫は一匹残らず消えていた。
彼らがどうなったのか知らない。
振り回されて落ちたのだろうから、王子様のいうように怪我をしたかもしれないし、それどころか天に召されたかもしれない。
甲羅が固そうだから、そもそも怪我なんてしないのかもしれない。
そんなことは私からすればどうでもいいことで、自分の手のひらに一瞬でも(一瞬ではないのかもしれないけれど、一瞬だと思い込まなければ気が狂ってしまう)載っていたのかと思うと、冗談でもなんでもなく寒気がした。
すぐにグラウンドの水道で、何度も何度も何十回も手を洗ったけれど、団子虫の足の裏の感触が手に残っているような気がして、まだ冷たい水に手を流しながら、私は泣いた。
思えば、こんなに泣いたのはいつぶりだろう。
実家からこっちに出てくるときにも泣かなかった。
一年間付き合っていたケイタと半年前に別れたときも、こんなに泣かなかったのに。
手も目も赤くなるまで洗ったけれど、団子虫の感触は消えなかった。
本当に一瞬の出来事だったのに。
ここまでくると、想像で補っている部分もあるのかもしれない。
頭の片隅で、黒い物体がもぞもぞとうごめく様子が浮かんで、思わずえずいた。
「あいつ……絶対に許さない」
私はあの『見た目だけ王子』に復讐を誓った。
あんな目に合わせて、ただじゃおかないんだから。
みんなにいいふらしてやる。
あいつは変人だって。
危険人物だって。
王子様だかなんだかしらないけれど。
私は絶対に許さないんだから。
『虫王子』
言いふらすまでもなく、もう彼のあだ名はそんな風に変化していたらしい。
『口を開けば虫の話しかしないよ、あの人』
『虫と楽しそうに会話してたんだって』
『あの大きなリュックの中に、いっぱい虫を入れているらしいよ』
『なんか、虫を食べたりもするみたいだよ』
『かっこいいのに、残念だよねぇ……』
あの日から一週間後の学食で、隣の女の子たちのグループからそんな会話が聞こえてきて、私は心の中で思わずガッツポーズを決めた。
麻衣の話によると、そんな噂があっという間に広がり、虫王子の周りから女の子が一人また一人と離れていっているしい。
「いい気味」
紙コップに入ったコーヒーを一口すすって、私はこっそりと笑う。
「本当なのかな。虫を食べるって」
麻衣はカレーうどんをお箸でつまんだまま、眉をしかめた。
食事時にする話ではないな、と思いながらも私は「あの人なら食べそう」と返す。
「あの人って、知ってるの? 虫王子のこと」
不思議そうな麻衣に私は先日の出来事をかいつまんで話した。
団子虫を載せられたところを話すときは、泣きそうになったけれど。
「気持ちわる……」
麻衣は眉にしわをよせて、カレーうどんを食べる手を止めた。
やっぱり食事時にする話じゃなかったな。
「地面にはいつくばって団子虫を集めて……。そんなに集めてなにするんだろうね」
麻衣の問いかけに私は「さぁ」と首をかしげた。
「食べるんじゃない?」
冗談で言ったつもりだったけれど、口にした途端、そのインパクトに驚いて寒気がしてしまう。
「やめよ、この話」
麻衣の言葉に私が「うん」とうなずいたちょうどそのとき、「あ! いた!!」と背後で大きな声が聞こえた。
私には関係のないことだとコーヒーをすすっていたら、急に肩をつかまれて思い切りむせる。
「ちょっと……なによ!」
振り向いた先にいたのは、噂をすればなんとやら。
虫王子だった。
虫王子が私の隣の椅子をひき、私に体をかたむけて座るやいなや、向かいに座っていた麻衣はわざとらしく「あー、お腹いっぱいだぁ」と言いながら立ち上がった。
嘘つけ。カレーうどん、ほとんど食べてないじゃん。
少し前までは『王子様』今は『虫を食べる変人』である彼には関わりたくないらしい。
少し前までだったら、きっと目を輝かせて座っていたであろう彼女の移り気の速さというか、危険察知能力の高さには驚かされる。
「こらこら、麻衣。座りなよ」
私をこの変な人と二人きりにしないで……。
そんな訴えもむなしく、麻衣は「お先に」と首を傾けてかわいらしく微笑むと目にも止まらぬ速さで返却台に向かってすたすたと行ってしまった。
「探しましたよ!」
待っていました、とばかりに虫王子が私に話しかけてきた。
虫王子は今日は紺色とオフホワイトのボーダーニットを着ていた。
クルーネックからちらっとのぞく鎖骨と、至近距離で見るとビー玉みたいな茶色の瞳がきれいでつい見とれてしまった。
顔だけ見たら、王子様みたいなんだけどなぁ……。
さっきの台詞も『姫、探しましたよ』に聞こえなくもなくはない。
そんな私の夢見る気持ちも、どこからともなく聞こえてきた「あ、虫王子だ」という女の子の話し声で、とたんに打ち砕かれた。
いまやキャンパス中に周知されているこの『変な人』と話しているなんて、私まで変な人だと思われるじゃない。
「探しましたって、なによ?」
無駄に澄んだきれいな瞳で私をじっと見るんじゃないよ。
「こないだの俺の団子虫、返してください」
は?
俺の……なに?
団子虫?
「欲しいなら欲しいって言ってくれたらいいのに。あんなふうに勝手に持っていくなんてひどいですよ」
そう言いながら、虫王子は背負っていたリュックサックをおろし、膝の上に乗せた。
「ひっ」
『あの大きなリュックの中に、いっぱい虫を入れているらしいよ』
さっき聞いたばかりの噂話を思い出して、思わず身を固くすると虫王子は不思議そうに「ん?」と首をかたむける。
そのしぐさと表情がかわいらしくて、なんだか憎らしい。
「で、コアオハナムグリさん。団子虫、返してください」
「は? コアオ……なに?」
「ハナムグリさん」
「誰?」
「いや、あなたの名前、知らないから」
だからって、人を変な名前で呼ぶな。
いやいや、その前に。
「団子虫なんて私、持ってないわよ」
え?と虫王子はきれいな瞳をまん丸にして私を凝視した。
鳩が豆鉄砲をくらった時はこんな顔ですよ、のお見本みたいな顔だ。
「じゃあ……どうしたんですか? 俺の団子虫」
「どうしたって……」
振り回している間にどこかへ飛んで行った、と言おうとして、ふと気がつく。
なぜだか知らないけれど、さっきから彼は『俺の団子虫』と言う。
それはつまりあの団子虫たちは彼にとっては大事なものだったのかもしれない。
つまり……食料にするとか。
まさか!
それはさすがにないと思うけれど。
「えっと。逃がした」
飛んで行った、よりはこっちのほうがまだましな気がしてそう答えると、虫王子は一瞬ぽかんとして、それからにっこりと笑って「なぁんだ」とほっとしたように言った。
「優しいんですね。コアオハナムグリさん」
虫王子はそっかそっか、とつぶやきながらリュックサックのファスナーをじじーっと開いて、中のものを取り出した。
「ひっ」
虫かごだ。
小学生が夏休みに持って出かけるような、透明のプラスチックのもの。
蓋の部分は青色で網のようになっている。
一瞬、身構えたけれど、その中身は空っぽだった。
「でも違うんですよ」
コアオハナムグリさん。
虫王子はにこにことしながら話を続けた。