付き合う時に、カップルの数だけエピソードがあるように、別れる時にも人それぞれのエピソードがあって、それは他人に話して聞かせるようなものではないのだけど、私とケイタの場合は、これほどまでに下らないエピソードはないという理由で、人に話してもいいと思う。

付き合いはじめると、ケイタはよくうちに泊まりにくるようになった。
ふたりともひとり暮らしだったし、夜中までテレビを見てそのまま寝てしまったり、ケイタが帰るのをめんどくさがったり、時には単純に離れがくなったり、なんて甘い理由だったりもしたのだけど。

それとおなじだけ、私がケイタのうちに泊まりにいくことも多かった。

ケイタのうちのほうが、ほんの少しだけど、大学から近かったし、ケイタのアパートの一階には高齢のご夫婦がふたりで営んでいる中華料理屋さんは私のお気に入りだった。

付き合って一年ほど経った夏の終わり頃。
いつものように、ケイタの小さなシングルベッドで寝転んで雑誌を読んでいた私の斜め前に、あいつが出たのだ。

あいつがなにかというのはここでは伏せておこうと思う。
階下が中華料理屋さんというのと、夏の日というキーワードで想像していただければ、と思う。
考えてみれば、一年ほどの間であいつが出なかったことのほうがおかしくて。

ケイタに言わせると、私が気がついていなかっただけで、今までに何度もニアミスをしていたらしい。

「俺、ひとり暮らしっていうか、あいつと同居してたんだよな」
ケイタはけろっとそんなことをいった。

その日を境に私はケイタのうちに行かなくなった。

あいつと同居なんかしてるケイタの持ち物や着ている服に、それからケイタ自身に、もしかしたらあいつが触れたかもしれないと思うと、ケイタをうちに泊めたり抱き合ったりするのも嫌になってしまった。

もちろん、別れた理由があいつというわけではないけれど、大きなきっかけになったことは否定できない。

結局、ぎくしゃくし始めた私たちは別れたわけだけど、ケイタのことを嫌いになったわけではないし、それはケイタもおなじなのかな、と思ったりする。
「なんか……ごめん」

別れたきっかけがあいつだということを、ケイタは知っていた。

私ははっきりとは言わなかったけれど、ケイタは気づいていた。

あいつが原因でフラれるなんて、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。

「なんだよ、今さら」

ケイタは笑って、もう一度、私の頭をぺしん、とさっきとほとんど同じ強さで叩いた。

「けどさ、らこちゃん、虫王子は大丈夫なんだ?」

「大丈夫ってなにが?」

「あんな虫まみれの人と話して平気なの?」

「虫まみれって……」

まぁ、否定はできないけれど。

「平気っていうか……別に話してるだけだし


「じゃあ、付き合ってるわけじゃないんだ」

「付き合ってるとかそんなんじゃないよ」

ケイタと私のマンションの分かれ道まで来た。

「なんかさ、らこちゃんと虫王子が付き合ってるみたいな噂を聞いたんだけど」

足をとめたケイタは私の真正面に立って、笑いながら早口で言った。

「そんな噂、たってるの?」

「虫王子、有名だしね。しょっちゅう一緒にいる女の子がいるって。らこちゃんでしょ?」

「……うん」

「あんなに虫嫌いなのに、虫王子となに話してるの?」

「虫の……話」

まじかよ、と吹き出したケイタの頭をぺしんと思いきり叩いて「いいじゃん、別に」
とにらむ。

「いいよ? いいんだけど……。それ、無理してない? 大丈夫なの?」

ケイタに言われてはたと気づく。

無理か。

確かに最初の頃は本当に嫌だった。
晴が楽しそうにしてくる虫の話。
興味もなかったし、それどころか聞くたびに寒気がしていたけれど、最近はそれほどでもないかもしれない。

だって、晴は本当に虫が好きだから。
本当に楽しそうに話すから。

「結構……楽しいよ」

へぇ、とケイタは目を丸くして、私の顔をまじまじと見つめる。

「なんか、俺のときはダメだったのに虫王子は大丈夫とか悔しいな」

「なにそれ、やきもち?」

「ばーか」

そんな、いまどき中学生でも言わないような捨て台詞をはいて、ケイタはもう一度私の頭をぺしんと叩くと、自分のマンションに向かって歩き始めた。

「ばいばーい」

ケイタの背中に声をかけて、振り向いたケイタが「おう!」と片手を挙げたのを見てから、私も自分のマンションに向かって歩き出す。

さっきよりも低い位置にきた白い月を見上げながら考えるのは、やっぱり晴のことだった。



これがデートか否かの前に、晴がいう『桜子さんと行きたい場所』というのはどこなのだろう。

普通、女の子を誘うときは、『○○に行かない?』というものだ。
その○○は映画館であったり、ドライブであったり、食事であったり。

その○○を抜きで、誘った晴も晴なのだけど、その○○を聞かずに行くと返事した私も私だと思う。

そんなわけで、私は約束の当日までどこに行くかわからず、そのおかげでなにを着ていけばいいかもわからなかった。

晴に聞けばいいのだろうけど、行くと返事したあとで聞くのも気が引けたし、正直なところ、どこでもいいかなという思いもあった。
晴と行けるなら。

約束の日の朝、前回と同じようにパンツスタイルで、それでも目一杯女の子らしい素材と色のブラウスを着た私が待ち合わせの場所につくと、もうそこにはいつも通りの大きなリュックを背負った晴がたっていた。

日曜日の朝九時、駅の東改札。

大学の最寄り駅だから、平日なら通学の学生で混雑している駅も、今日は人も少なく、どこかのんびりして見える。

「桜子さん! おはようございます!」

私を見つけ、大きく手を振りながら駆け寄ってくる晴はまるでラブラドールレトリバーのようだ。

寝癖をつけた晴は、拍子抜けするくらいいつも通りの笑顔で「昨日は楽しみで寝られませんでした!」と言ったのだった。





「……え、ここ?」

私は呆然と立ちすくむ。

「はい! 早く入りましょう!」

「え、でも、ここ……」

「桜子さん、早く早く!」

「あー、でも……待って。そんなの急に言われても……」

「なーに言ってるんですか!」

「待って、待って!……心の準備が……」

「早く! 入りましょう!」

遠足にでかけるみたいにテンションの高い晴と、電車を二本乗り換えて、到着したのは。

『自然史博物館 昆虫館』

歴史を感じさせる石造りの建物の前には、大きな一枚岩があり、そこに掘られた文字はそう書かれている。

昨日寝れなかったのも、朝からテンションが高かったのも、ここに来るのがただ単に楽しみで仕方がなかったかららしい。

これじゃあ、ほんとに小学生の遠足じゃないか。

隣の晴をちらりと見ると、さっき券売機で買ってきた入場券を握りしめて、にこにことしながら私を見ている。

私が虫が大好きだと信じて疑わない、そんな晴の瞳をしばらく見てから、もう一度、博物館に目をやる。

一見したところ、まるで美術館みたいなずっしりと重厚な建物は、緑のつたがはっている。

石の建物の奥には、なにかわからないけれど、ガラス張りの温室のようなものも見える。

建物のいりぐちには私と同じくらいの大きさのカブトムシのオブジェがあり、幸いそれはデフォルメされていて、とてもかわいらしいものだったけれど、中に入るとこういうものがたくさんあるのだろうな、と思った。

もう一度、晴を見ると、晴は「まだ行かないの?」とでも言いたげな顔で私を見ていた。

「ここ、もしかして来たことありましたか?」

晴が心配そうに私に尋ねた、その一言で私は覚悟を決める。

「ううん。初めて。行こうか」

「はい!」と短く返事をして、受付に向かって弾むように歩いていく晴のぴょこんとはねた髪を斜め後ろから見ながら、私は大人しく着いていく。

あんな心配そうな顔をされるなら。
あんな嬉しそうな顔をしてくれるなら。

昆虫館くらい、入ってあげる。




「うわぁ!」

晴は展示を見るたびにそう言って目を輝かせる。

夏休みだと子どもであふれかえっていそうな博物館だけど、特別展示もしていない今の時期は来館者も少ないようで、私と晴の他にはほとんど人がいなかった。

広々とした博物館の中はひんやりとしていて、足音さえも響いた。

晴は、蝶や甲虫の標本が入ったショーケースにおでこをくっつけるようにしながら、ひとつひとつゆっくり見ては、私に説明をしてくれる。

「カラスアゲハの翅(はね)は青や緑に輝いて見えるんです。ほら、見る角度によって違う色に見えますよ!」

「蛍にも方言があって、東と西では光り方が違うんですよ。だいたい長野県を境に、西は約二秒、東は約四秒で光るんですけど、その間ではなんと約三秒の蛍がいることが最近分かったんです」

私はそんな晴の横顔だけを見ていた。
虫を見たくなかったというのも理由だけど、それ以上に、目を輝かせて虫を見ている晴にみとれていたのだ。

心から好きなものがある人が、心から好きなものを見ているとき、心から好きなものを語るとき、こんなにもキラキラとするということを、私は初めて知った。
そして、それがとても美しいということも。
標本展示室を全て回り終えた頃には、私はさすがにぐったりしていた。

見ないようにしていても、やっぱり視界の片隅に常に虫が見える。

標本展示室は、生きていない、動かないものだったからまだよかったものの、その後の特別生態展示コーナーは拷問だったといってもいい。

『昆虫に触れてみよう!』なんていう丸い文字で書かれたポップを見たとき、晴は嬉しそうに「うわぁ!」と叫び、私は「うわぁ……」と悲鳴をあげた。

幸いなことに、そこは昆虫以外に魚もいて、私はひたすらその魚を見て、晴が「かわいいなぁ」とか「きれいだなぁ」とか言うのを背中で聞いていた。

「さて、いよいよメインです」

だから、晴が嬉しそうにそう言った時は、正直なところ、疲れきっていて「ふぁい」と気の抜けた返事しかできなかった。
「桜子さん、こっちこっち!」

晴は透明なガラス扉の前で私を手招きする。

いりぐちからちらりと見えていたのはこの温室のようだ。

全面がガラス張りになっていて、高さは三階建てのマンションくらいある。

中は緑が生い茂っていて、湿度が高く、南国のような雰囲気だった。

「早く早く!」

扉をあけて私を中に入れると、晴も後から素早く中に入り、扉をしめた。

温室の中は太陽光がたっぷりと差し込み、明るくて暖かく、どこからからともなく、水の流れる音もする。

植物園?

晴に尋ねようと振り向いた私の目の前を、一羽の蝶々がひらひらとゆっくり舞う。

その優雅な舞い方は、私を敵だと見なしていないようで、まるでここは私の住む世界であなたがお客さんよ、とでも言いたげで、とても……美しかった。

「うわぁ……」

二羽、三羽、四羽、五羽……。

見上げると、数えきれないほどの蝶々が舞っていた。

「放蝶温室ですよ」

晴が蝶々の種類や特徴を教えてくれたけれど、私はほとんど頭に入らなかった。

天女のように、ひらりひらりと自由に飛び回る蝶々の姿をただうっとりと見つめて、耳に心地いい晴の声を聞いていた。

そして、初めて。
生まれて初めて、ほんの少しだけ虫を好きになった気がしていた。

博物館を出た頃にはもう夕方になっていた。

放蝶温室になんと三時間もいたのだ。
あんな蝶々だらけの場所によくそんなに長い時間いられたものだと思う。

私と晴はとてもお腹がすいていて、とりあえず目についたファーストフード店で遅すぎるお昼ご飯を食べることにした。

「さっきの放蝶温室で、一番多く飛んでいた蝶々、わかりますか?」

ハンバーガーを早々に食べ終えた晴が、ポテトを食べながら私に質問した。

「水色のやつ? 黒い模様の?」

晴はそうそう、と首を縦に振り「アサギマダラ」と言った。

「アサギマダラ?」

「季節によって旅をするんですよ。アサギマダラは」

渡り鳥みたい。
私がつぶやくと、晴はにっこりと笑った。

「そう。渡り鳥みたいに、夏になると北に。冬になると南に国境も海も越えて飛んでいくんです」

海を越えて。

青い海の上を、水色の蝶々が太陽の光をあびてひらひらと舞う。

「きれいだね。きっと」

「どうやって個体が移動したかを調べるために、翅(はね)に誰がいつどこで捕まえたか書いてまた飛ばす調査があるんです。マーキング調査っていって、研究者だけじゃなくこどもたちも参加してみんなでやるんですよ」

ポテトも食べ終えた晴に、自分のポテトをすすめながら、その調査、少しだけ楽しそうなんて、思ったのはきっと気のせいだ。